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アジアンカフェをよろしく!

旅の夢をみよう いつかその場所を訪れるまでは  /  旅はヒーローになれる! 初めての街にはその舞台が用意されている。
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19日目 2017年1月5日 チューリヒ ミラノ ボローニャ

チューリヒを去ることにほっとした 

 7:55頃、シティバックパッカーズビーバーをチェックアウトした。スタッフは8:00に出勤してくる。それ以前にチェックアウトしたい人は、鍵をポストに入れレセプション前にリネンを置いておくのはここのルールである。リネンはすでに何枚にも重なっていた。

 近くのコンビニエンスストアが8:00に開くことを知っていた。最初の客として入り、水のボトルとサンドイッチを買いイートインスペースで食べた。昨日書いたように。ここで買った場合の水のボトルは0.8スイスフランだが、チューリヒ駅では3~4スイスフランになる。サンドウィッチも2~3フランくらい高くなる。

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 昨日と同じようにニーダードルフ通りとリマト通りを北に歩き、バーンホフ橋を渡りチューリヒ駅に着いた。

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 列車の出発まで少し時間があった。駅の地下のカフェでコーヒーを飲んだ。ほんの少し安めだったが、それでも4.5スイスフラン。駅1階コンコースの雰囲気のよい昔風のカフェでは1スイスフランほど高くなる。

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 物価高のスイスを離れる。もっと早く離れたかった。

 列車のチケットには列車番号、席番号、発車時刻が印字されていた。

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 15 EC チューリヒ9:09発 → ミラノ12:35着

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スイスからイタリアへ

 チューリヒを出た列車は市内のトンネルを抜けたあと、左の車窓にチューリヒ湖を映していた。このまま走ると昨日行ったザルガンス方面であるが、列車はすぐにチューリヒ湖から離れた。次の停車駅はチューリヒの南にあるツークである。チューリヒとミラノは北南の位置関係にある。列車を山のなかを300kmほど南に走る。

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 1983年6月にスイスのローザンヌからイタリアのトリノまで列車に乗ったことがあったが、チューリヒからミラノまでは1980年8月の再現である。8月の緑あふれるスイスの深い谷を見下ろす列車の旅だったはずだが、頭のなかにあるぼんやりとした映像がそのときのものとは限らない。記憶は常に変質する。

 列車はトンネルだらけの雪山と雪景色のなかを走った。黒みがかった曇り空は遠い夏のあざやかな記憶を再現してくれなかった。2017年1月5日の旅の新たな印象を加えて終わってしまうかのようだった。

 それでも11:20頃、わずかにのぞいた光が湖を照らした。列車は湖と湖の間を抜けているようでその奥には窓の視界からはみ出した、高い山があった。

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 列車には電源コンセントがあった。Wifiが使えるメッセージは出ていたが、電波は飛んでいなかった。

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おまけの国たち、ベルギー、フランス、スイス、イタリア

 ルクセンブルグ、リヒテンシュタイン、サンマリノに行こうと思っただけである。ルクセンブルグに国際空港はあるがLCCは飛んでおらず、他の2ヶ国は空港がないのだから3国へのアクセスは陸路になる。それらをつなぎ合わせると、ベルギー、フランス、スイス、イタリアを通過しなければならなくなった。

 つまりベルギー、フランス、スイス、イタリアの4ヶ国は完全なおまけである。ベルギー1泊、スイス2泊はルート上避けられなかった。そしておまけのイタリアには6泊することになるだろう、少々困っている。

 LCCにはLCCの都合というものがある。ひまわりにはひまわりの都合があり目覚まし時計には目覚まし時計の都合があり私には私の都合があるように。ひまわりが北を向くことができず(通説である)、目覚まし時計がセットした時刻と異なる時刻にアラームを鳴らすことができず、私に旅を止めることができないように、LCCがすべてのフライトを安くすることはできない。

 LCCの都合というのは、同じ路線でも飛んでいる日といない日があり、料金の高い日と安い日があるということである。そういったLCCの都合を考慮してフライトを探していくと、つまり安い路線の安い料金の日のフライトを探していくと、それによって必要以上に滞在が延びたりする。それがイタリアに6泊するようになった理由である。

 こうなると通過点ではなく、イタリアだけでちょっとした旅ができてしまう。ナポリまでいけるじゃないか、ということになる。しかしこの機会に乗じて手を広げすぎるとロクなことがない。シチリアには行ったことがなく、サンマリノに行ったあとにシチリアに行くシミュレーションをやってみたが、あちこちの滞在先を考えていたら、6日間でローマにもどってくることはできなかった。

 欲張らずにミラノからサンマリノまでの間とその周辺をキザんで旅することにした。長打を狙わずにシングルヒット、バンド、盗塁などを絡めた野球をするということである。そのほうが気楽であるし、この旅の主役の一角であるルクセンブルグとリヒテンシュタインとサンマリノのメンツをつぶさないで済む。

 どの程度に刻むのかというと、例えば東京から小田原、熱海、三島、沼津、静岡、掛川・・といったレベルである。常識的におもしろくない。しかし北イタリアのヒットエンドランの旅にも見どころはある。


こんなルートも考えた、あのときのセリアAと日本の司令塔への旅

 ペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナの順に旅することを考えてみた。ルートが途中で交わってしまうので旅のコースとしては現実的ではないが、日本の司令塔がセリエAに残した足跡を辿る旅はフットボールの旅である。

 1980年代の3度の旅で主な街を周ったあと、ほとんど興味をなくしたイタリアにまた興味を抱かせたのはフジテレビをはじめとする深夜のフットボール中継だった。デビュー戦においてユベントスのゴールを2度揺らしたシーンは鮮烈で衝撃的であった。すべてはそこから始まった。

 このときジダンとは再会となったはずである。フランスワールドカップの前に行われた世界選抜対ヨーロッパ選抜の試合がジダンとの最初の出会いである。世界選抜側の、途中から右サイドバックで起用された韓国代表ホン・ミョンボは同じく途中起用された日本の司令塔に、つまり当時の湘南ベルマーレのチームメイトに何本ものパスを出した。よくやってくれたミョンボ。そして不本意に起用されていた右サイドハーフのポジションから日本の司令塔はしばしばピッチの中央に進出した。自然で軽快な動きだった。そのとき前線でパスを待っていたのは2人のビッグネームである。日本の司令塔は、バティストュータとロナウド(ブラジル代表)に何本かの巧みなパスを配給したのだった。

 試合後、パスを出してくれた日本のフットボーラーの名前を、2人は記憶しなかっただろう。それはヨーロッパ選抜の主将を務めたジダンも同じだったはずだ。しかしフランスワールドカップののちのセリエA、弱小チームであるペルージャとの一戦で、ユベントスの主将の脳裏に、2点を叩き込んだ日本のジョカトーレの名前が記憶されたはずである。

 本来、この単なるエキジビション・マッチを取り上げる意味はない。しかしこの試合にはみんないた。見事なくらいみんな勢揃いしていたのである。前述の4人以外には、ロナウジーニョ、バッジョ、デルピエロ、トッテイ、ゾラ、ブッフォン、バラック、ラウル、デコ、シェフチェンコ、エトー、カカ、カフー、ルシオ、アドリアーノ、ベッカム・・・。そうだロベルト・カルロスはいなかった。それはそれはもうあまりに強烈なメンバーのなかに日本の司令塔はいたのである。

 毎週にわたって深夜に登場してくる対戦チームの地名を地図で探した。イタリアで関心のある街はセリアAに登場してくるチームのある街になっていった。


ミラノ駅からイタリア旅事始め

 列車がイタリアに入ってから検札があった。この列車では2度目である。

 インテルとミランのあるミラノ中央駅に着いた。長友佑都と本田圭佑の街である。

 ミラノ中央駅は古いヨーロッパの雰囲気を十分に残していた。それはチューリヒ駅と同じであるが、ややざわざわした感じはここがイタリアであることを表現していた。陽気な中年男と気むずかしそうなおばさんたちがミラノ中央駅にあふれていた。チューリヒのクールなビジネスマンたちとは異なる雰囲気を醸し出していた。

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 チューリヒからの列車は定時着だった。乗り換え時間は45分あった。ボローニャ行き列車のホームはすぐに見つかった。この列車のチケットにも列車番号、席番号、出発時刻が印字されている。イタリアの列車はユーロシティ、ユーロナイト、ユーロスター、インターシティ、エスプレッソ、デイレット、レジョナーレ・ヴェローチェ、レジョナーレ8種類あるのだが、乗る列車がどれに当たるのかわからない。


フレッチャロッサでボローニャへ

 9533 FR  ミラノ13:20発 → ボローニャ14:22着

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 バーゼルで予約したイタリア国内の列車は、FR(フレッチャロッサ)だった。「赤い矢」の意味で、最高速度が時速300kmである。

 どうやら私はバーゼルで、“どえらい列車”を予約してしまっていたのだった。この列車はトリノ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、サレルノで運行されているらしい。日本でいえば「のぞみ」である。2等とはいえ、料金が高いわけだ。列車はナポリ行きだった。停車駅はボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリのみである。

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 セッテベロというイタリアを代表する高速列車があった。ミストラル(フランス)、カタラン・タルゴ(スペイン)と並ぶTEEの看板列車の1つだった。2ヶ月間有効のユーレイルパスでヨーロッパを旅したとき、このセッテペロだけを乗り損ねた。

 フレッチャロッサの最高時速は293kmだった。スピードを上げた列車は横揺れを繰り返していた。

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 車内のモニターに列車の位置情報が地図に表示されている。ボローニャ中央駅までもう少し。
 
 到着予定時刻のボローニャの気温は6℃の予想。

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ボローニャに着いた

 宿泊先であるウィーボローニャはボローニャ中央駅から遠く離れてはいない。ただ、駅の裏側に位置するので、まずその裏側に出ることに注意した。駅裏の線路に沿ったデ・カッラッチワー通りを西に歩き、線路を越えたところを北に歩いた。ここもデ・カッラッチワー通りだった。

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 予約直後、ウィーボローニヤからは3回ほどメールが届いていた。やっかいなメールではない。宿泊先として選んでくれてありがとうといった感謝の趣旨のメールである。途中のキャンセルを防ぐ意味でもある。

 ウィーボローニャはすぐに見つかった。チェックインしてリュックをロッカーに放り込む。今日は1部屋4ベッドである。部屋にトイレもシャワーも付いており、きれいである。ここまでの旅で最高の宿泊先である。1泊21.5ユーロ。

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ボローニャを歩いてみた

 すぐに外に出た。来た道を駅までもどり、ボローニャ中央駅の地下のホームを通り抜け表口に出た。バスに乗ろうかどうか迷ったが、バスを探している間に10分歩けると考え、街の中心に向けて歩くことにした。

 南のほうに歩けばいいだけだ。インデイペンデンツァ通りという、アメリカの映画のタイトルのような通りに入った。歩道は古さに満ちた厳かなアーケードになっていた。華麗さでミラノには劣るが、厳かさでは日本の商店街のような雨除けのアーケードの敵ではない。

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 マッジョーレ広場が見えてきた。ここがボローニャの中心である。見どころはすべてこの周辺にあるので、観光は楽である。

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 レイキャビク、ダブリン、ルクセンブルグ、リヒテンシュタインと随分南下してきた。陽は長くなってきているし、なんとか陽が暮れるまでに周ることはできるだろう。

 広場に市庁舎(コムナーレ宮)があるのはヨーロッパの街のお約束である。日本は街道の文化であるが、ヨーロッパは広場の文化である。アゴラはギリシャが発明しローマが発展させた。フランスは自分たちがその正当な嫡子だと思っている。今日フランスのプライドを支えるのはその点だけだろう。長い間シュヴァルツヴァルトにいた野蛮な森の民ゲルマンにたいし、フランスはそういう区別の付け方をしている。

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 サン・ペトロ二オ聖堂に入った。内部を撮影する人は2ユーロ払いなさい。昨今のヨーロッパの大聖堂には困ったものである。大聖堂や教会の維持費を捻出する方法を模索していることが浮き彫りである。博物館風にしたり鐘楼までエレベーターを設置し展望料金を取ったり写真撮影費を請求したり、知恵を絞っている。

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 ポデスタ館は神聖ローマ帝国皇帝の任命した都市長官の住まいだったところである。フレデリック1世の命でやってきた長官をボローニャ市民が追い出し、自由都市ボローニャが誕生した。エンツォ王宮殿は皇帝フレデリック2世の子供が幽閉されていた場所である。ともにボローニャの歴史と密接な関係がある。

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 アルキジンナージオ宮はボローニャ大学だった場所である。

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 サン・ドメ二コ教会はその素朴な外観とは異なり内部は新しかった。ドメニコ会の創設者のドメニコを祀っている教会である。

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 ピサの斜塔に上ったことがある。欄干のない、らせん階段(だったのか坂だったのかを覚えていない)を上った。ボリーニャの斜塔のほうが傾いていた。高い塔(アシネッリの塔)と低い塔(ガリセンダの塔)がある。低いほうは傾き過ぎたので少し削ったらしい。高い塔の下は60人ほどの行列ができていた。待ち時間は1時間ほどのようである。

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 サン・ジャコモ・マッジョーレ教会はピサの斜塔の東北側にあった。美しい装飾の教会だった。

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 17:00頃、すっかり暗くなった。食べるところを探しながら、ボローニャ中央駅まで歩いてきてしまった。

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 ボローニャ中央駅に、旅行者を対象にした注意喚起のリーフレットがあった。日本語と中国語は同じ冊子になっていた。項目は10項目に及ぶ。

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 リーフレットのなかの2項目を取り上げてみる。わざわざこういうことを書かなければいけないところに深刻さがあるのかもしれない。

 典型的なスリの「労働」環境(ホールおよびロビー、切符売り場、セルフサービス・エリア、鉄道の到着・出発プラットホーム)ではお気をつけ下さい。スリがよく好むのは混雑した場所です。

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 セルフサービスの券売機を使用する際には周囲にご注意下さい。財布を覗かれないように、購入代金は前もって準備しておきましょう。

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 駅の中の自動券売機で、明日の列車のチケットを購入した。自動券売機は使いやすくできていたが、時間がかかる。イタリアでは列車の予約は基本(そうでない列車も多くある)なので、乗車日の決定までを原則として行わなければならない。ときとして列はなかなか進まない。普通列車の予約は簡単なようだが、優等列車の場合は1本の列車のなかでも選択肢が広がるようだ。

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 ピザを食べようと思っていた。駅の近くのBAR BIANCOという店でピザ・ロマーナを注文した。ローマ風ピザである。ピザだけなら9ユーロである。イタリアの物価は高くない。スイスの半分くらいである。

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ホステルで聴こえてきた♪戦場のメリークリスマス♪

 ウィーボローニャにもどった。22:30頃、旅日記を書きながらロビーで紅茶を飲んでいた。どこかで聴いた音楽が流れてきた。♪戦場のメリークリスマス♪だった。

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 1980年ドーバー海峡を渡る船が出るオーステンデ(ベルギー)の港で、今YMOがロンドンに来ているとイギリス人が言っていた。

 1983年『Furyo(=俘虜)』という映画がフランスで公開された。『戦場のメリークリスマス』のことである。『俘虜』は大岡昇平の小説のタイトルでもある。

 映画『Furyo(=俘虜)』(=『戦場のメリークリスマス』)は映画『泥の河』(原作/宮本輝)といっしょに上映されていた。スクリーンのなかで、デビットボウイは英語で、たけしと坂本龍一は日本語で話し、字幕はフランス語だった。上映が終わったとき、サンジェルマン・デ・プレの映画館の観客は立ち上がり拍手を送った。映画館にいたおそらく唯一の日本人である私にフランス人たちから声が掛けられた。映画はル・モンドをはじめとした新聞各紙が絶賛し、ラジオでは毎日何度も坂本龍一が流れていた。それが1983年のフランスにおける日本だった。
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