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ワルシャワで一番熱い場所〈ワルシャワ蜂起博物館〉

32日目  2016年2月6日 ワルシャワ

 2日前に行ったワルシャワ博物館が工事中だったのはあまりに残念だった。その夜そして昨日とインターネットで検索を重ねてみた。休館になっている博物館のなかの展示物を他で見ることはできないかどうかを調べるために。

 見つけた。そこはワルシャワ博物館よりもっと見ごたえのある場所のようである。ワルシャワ蜂起60周年の2004年に開館していた「ワルシャワ蜂起博物館」。

 他にも2つほどあった。ポーランド・ユダヤ人歴史博物館とパヴィアク刑務所博物館。

 ポーランド・ユダヤ人歴史博物館は、迫害されてきたユダヤ人の文化と背景を1000年の歴史を通して紹介した博物館である。2013年、ユダヤ人地区街であったムラヌフ地区に建設されている。

 パヴィアク刑務所博物館は、パヴィアク刑務所に関する博物館である。刑務所には12万人が捕られ、数万人が射殺された。あるいは強制収容所に送られた。ワルシャワ蜂起後は残りの収監者全員が射殺され、最後に刑務所は爆破された。テーマとして絞られているので、ポーランド・ユダヤ人歴史博物館よりリアルな感じがする。場所はポーランド・ユダヤ人歴史博物館から300mの場所にあった。

 ポーランド・ユダヤ人歴史博物館とパヴィアク刑務所博物館には行かないで、ワルシャワ蜂起博物館に行くことにした。

 まず[ワルシャワ蜂起]について、ウィキペディアからの文章を引用しておく。

 1944年6月22日から開始された赤軍(=ソビエト軍)によるバグラチオン作戦の成功によりドイツ軍の中央軍集団は壊滅、敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。

 赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日には赤軍はワルシャワの10kmの地点まで進出。占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することを赤軍と打ち合わせた。

 7月31日、ドイツ軍が猛反撃を行い赤軍は甚大な損害を被る。さらに赤軍は補給に行き詰まり、進軍を停止した。(ポーランド)国内軍には赤軍の進撃停止の情報は伝えられなかった。にもかかわらず、その直前の7月29日にはモスクワからは蜂起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けており、赤軍の位置からそのワルシャワ到着は大きくは遅れないと判断された。8月1日17時ちょうど、約5万人の国内軍は蜂起を開始。兵士達は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。

 この時刻は「W」と呼ばれ、現在でも毎年8月1日の同時刻にワルシャワではサイレンが鳴り渡り、市民がその場で動きを止め、各自で1分間の黙祷を捧げるのが恒例行事となっている。


 ウィキペディアには、上記の記述のあと「ドイツ軍の反応」「ソ連の対応」「終焉」「ワルシャワの破壊」「ソ連軍の進駐」といった項目についての記載があった。

 これらの内容を、極端な大ざっぱさでまとめると、ソビエト軍(赤軍)が手を出してこないと判断したヒトラーはワルシャワの破壊を命じた。ワルシャワ市民を巻き込んだポーランド国内軍とドイツ軍の戦いになった。それとは別にソビエト連邦軍とともに行動していた第1ポーランド軍があった(シベリアの収容所などに送られていたポーランド人を集めた軍隊。おそらくソビエト連邦が組織したと思われる)。この軍はワルシャワの東側からヴィスワ川を渡ったが、ソビエト連邦軍は手を貸さなかった。即ち、ポーランドの国内軍を見殺しにした。
 
 なぜソビエト軍がヴィスワ川を渡らなかったのか。直前に甚大な被害を被ったことによる戦力不足という問題はあるだろうし、あとからそう言うこともできる。おそらく大きな戦争に対する立場、利害の問題でそういう結果になったのだろうと思う。

 資本主義対共産主義は戦後の問題ではない。たとえば日本のシベリア出兵は共産主義の阻止が名目である。日独伊三国同盟は最初日独伊防共協定だった。1930年代に資本主義対共産主義の構図が誕生している。そもそも独ソ不可侵条約でポーランド分割を決めたソビエト連邦がポーランド国民軍を守らなければならない理由はない。東部戦線がモスクワ・ペテルスブルグ(サンクトペテルブルグ)からポーランドまで押し戻された時点で、ソビエト連邦の祖国防衛戦争の性格は終わっている。ワルシャワ蜂起が成功すればドイツが後退するのでそれをよしとし、失敗してもドイツはそこで戦力を割かれる。スターリンは状況をそう読んだのだろう。あとは米国が上陸してきた西部戦線の状況を把握しながら、出方を考えればよい。戦後は米ソの資本主義対共産主義の陣地争いになる。そういうことがスターリンの思考の根底にあったのではないか。

 もちろんヒトラーの野望もスターリンの思惑もポーランドの国内軍には関係がない。

 もう1つデータを提示しておく。

 あるブログに紹介されていた戦没者比率。第2次世界大戦での戦没者数とそれが1939年の人口の何%にあたるのかという数字の国別表である。ブログの管理人はウィキペディアに掲載されていたものとしているが、私はそれを確認していない。

 日本の戦没者数     3.6~ 4.3%。 (260万~310万人)
 中国の戦没者数     1.9~ 3.8%
 ドイツの戦没者数    7.9~10.0%
 ポーランドの戦没者数 16.1~16.7%
 戦没者数がもっとも多いのはソビエト連邦である。

 2日前の夜と昨日、わりと多くの時間をかけ「ワルシャワ蜂起」を勉強した。にわか勉強である。

 映画「地下水道」(監督アンジェイ・ワイダ)の内容を忘れてしまったと2月2日の旅日記(グダンスクに着いた日)に書いた。今日はそれを思い出すために行くようなものである。

 9:30過ぎにフェスタホステルをチェックアウトした。5分のところにあるCosta Coffeeに入った。ワルシャワで3軒目のCosta Coffee。カプチーノとサンドウィッチ。

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 11:00前にCosta Coffeeを出た。NowySwiat-Uniwersytet駅からメトロ2号線に乗った。ワルシャワの東西を結ぶ2号線は32kmの予定だが、現在開通しているのは6.3kmに過ぎない。現在の西の終点であるロンドダシンスキェゴ駅で降りた。

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 道を尋ねながら、ワルシャワ蜂起博物館に到着。外にあったコインロッカーにリュックを預けた。チケットを買い、日本語の音声ガイドを借りた。

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 館の外も、なかもポーランド人でいっぱいだった。彼らは続々とやってきた。

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 展示は細部に渡っていたが、断片的だった。例えば、「印刷物」のコーナーがあるかと思えば、別のところでは武器が展示されていた。ヨハネ・パウロⅡ世(19歳のときナチス・ドイツの侵攻にあった)の影響力に関するコーナーもあった。それぞれ重要な角度からワルシャワ蜂起を表現しているのだが、通史としての理解は難しい。

 それらをつなぎ合わせるためには、まず1939年から1945年までの欧州戦線の把握が必要であり、何人も登場してくる人物の名前(ヒトラーとスターリンしか知らないのでは話にならない)、ポーランドとドイツあるいはソビエト連邦との関係などを知っておかないといけない。とりわけソビエト連邦の動きは重要だった。地名も重要だった。あの有名な、カチンの森の場所を知らなかった。ワルシャワの**地区などといわれても、どこなのだろうという程度では多くを理解できない。

 それでもわからなかったわけではない。付け焼刃の勉強はところどころで間に合った。

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 ワルシャワの地下水道は19世紀にイギリス人により設計されたらしい。蜂起の始まった頃、ポーランド国内軍は地下水道を利用して行き来していたが、それを8月中旬にドイツ軍に知られることになった。ある所では封鎖され、ある所では毒ガスを撒かれたらしい。アンジェイ・ワイダの「地下水道」は簡単に忘れてはいけない映画だった。

 以下は、ウィキペディアの映画「地下水道」のコピーである。
 
 第二次世界大戦末期、1944年のワルシャワ。ポーランド国内軍による武装蜂起は、ドイツ軍による容赦ない攻撃で追い詰められ、悲惨な最終段階に達していた。

 その中の一つ、ザドラ中尉の率いる中隊は事態打開のため、地下水道を通り、市の中心部に出て活動を続けることにする。夜になって隊員は地下水道に入っていくが、やがて離ればなれになり、ある者は発狂し、またある者は暗闇と悪臭と恐怖心に耐え切れず、マンホールから外に出てドイツ軍に発見され、射殺されていく。

 負傷したコラブと、彼を助けて道案内してきたデイジーの2人も、やっと出口を見つけたと思ったのもつかの間、そこは河へ注ぐ水路であった。一方、先を行くザドラと二人の隊員は遂に目的の出口を見つけたが、出口には頑丈な鉄柵が張られ、爆薬が仕掛けられていた…。


 上記の「河へ注ぐ水路」の「河」がヴィスワ川だったはずなのだ。1980年、私はそれを見に行った。

 ワルシャワでは、1943年に「ワルシャワ・ゲットー蜂起」が起こっている。これはユダヤ人の蜂起で、ワルシャワ蜂起とは別のものである。それ以後、ユダヤ人は身をひそめるしかなかった。ゆっくりとやってきた赤軍に解放されるまでは。それは、映画「戦場のピアニスト」に描かれている。脚色はあるらしいが、実話に近い。

 館内には多くの子供たちがいた。アウシュビッツ博物館は14歳未満の入場を制限している。ワルシャワ蜂起博物館に年齢制限があるのかどうかを知らない。彼らはカレンダーを集めていた。館内には1日ごとにカレンダー(日めくり)が用意されていて、自由に持っていってもよい。カレンダーは蜂起の始まった8月1日(17:00)から10月2日(降伏)までの66日分が1日ごとに用意されている。そこにはその日に起った重要なことが書かれてある(のだろうと思う。ポーランド語で)。もしかしたら学校の宿題か何かで出されている可能性もある。私も20枚ほどもらってきた。もしポーランド人の知り合いができたら、見せるだろう。

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 3時間半いたが、飽きなかった。

 他国に占領され続けたポーランド人が誇りを取りもどすための場所だった。2010年以降のポーランド経済が順調なのかどうかを知らない。もし経済が順調でない場合、政権はまちがなくナショナリズムを鼓舞する方向に動くだろう。仮に今のポーランドがそうであったとしても、この場所はポーランド人にとって必要なのだろう。

 アウシュビッツは場所貸しである。借りたのはユダヤ人、無料で半永久的に。しかしそれだけではない。欧州各国がドイツを封じ込めておくための手段として活用するための場所をポーランドは貸したのだ。EUで歴代フランス大統領は、ドイツの首相と仲の良い演出をしながら、たまに「忘れてはいないよね」というサインを送っているかもしれない。そのときプーチンは何も言わない。それがプーチンの戦略である。アウシュビッツ博物館の14番ブロックはアウシュビッツを解放したソビエト連邦のブロックである。

 「地球の歩き方2015~2016中欧」は、2014年から2016年までの間、入場できなくなっているワルシャワ博物館を載せたままにしているだけでなく、2004年に設立されたワルシャワ蜂起博物館を取り上げていない。ワルシャワ広域地図でその場所がわかるだけである。今一番熱いこの場所を取り上げるべきだろう。

 さて終わった。日本に帰る。

 カスブジャカ通りからシフィエントクスカスカ通りに入ると、遠くに、ワルシャワ中央駅の近くにある文化科学宮殿の尖塔が見えた。シフィエントクスカスカ通りを東に歩き、途中で交差してきたアレヤ・ヤナ・バブワⅡ通りを南に行くと、ワルシャワ中央駅北口のバスターミナルのところに出た。ワルシャワ蜂起博物館から歩いて30分だった。

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 この旅の初日に食べたフードコートで食事をした。店は変えたけれど。

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 今日はホテルを変更する。ワルシャワ・ショパン国際空港の近くのホテルを5日ほど前に予約したのだが、予約したあとで失敗したかもしれないと思った。

 ホテルはワルシャワ・ショパン国際空港まで確かに近い。しかし徒歩3kmぐらいの距離にある。一番近い鉄道駅までは2kmほどである。結局、どちらも遠いのだ。

 時間があるので、ワルシャワ中央駅から空港行きの175番バスに乗ることにした。空港まで行くのだから、途中で降りてホテルまで歩けばよい。うまく行けば、ホテルの前を通る可能性だってある。ちょっとした遊びである。

 ワルシャワ中央駅の南口のバス乗り場(ここを探すのに15分くらいかかった)から乗った175番バスは空港に向かった。ホテルにもっとも近いと思われるバス停で降りた。そこで降りなければ空港まで行ってしまう。そこからホテルまで2.5kmぐらいの距離だった。鉄道で行くほうがましだった。これで明日、バスで空港まで行くことはなくなった。

 バスはジビルキ・イ・ビナリ通りを走っていた。私が下車したのは、その通りがアレヤ・ビラノフスカ通りと交差したところだった。アレヤ・ビラノフスカ通りを東に500mほど歩くと、ワルシャワStuzewiec駅(実際の表記とは異なる)が見えてきた。駅を越え1.2kmほど歩いた。途中、いくつかのカフェやレストランがあった。ビンツェンテゴ・ジモフスキエゴ通りを右に曲がり南に800mほど歩いた。

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 ノツレギ・ソーサウはわかりにくい場所にあった。現地に到着してから見つけるのに10分ほどかかった。1泊58.5ズウォティ。ドミトリーではない。トイレ、シャワーは別だが、シングルルームである。

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 夜ご飯を食べに出た。歩いてきた通りを引き返した場合、一番近いレストランまで1km以上ある。ノツレギ・ソーサウを出て、ビンツェンテゴ・ジモフスキエゴ通りに立ったとき、南のほうに見慣れたMの文字が見えた。距離は500mほどだった。

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Comment

No title
編集
Maxさん。8日の夜に帰ってきました。

エストニアの-20℃は30分間、外にいたくない気温です。最後のポーランドは日本並みの気温だったのでよかったのですが、根本的な寒さをなめしましたね。30ベラルーシ入国についても、ですけど(笑)

NHKのワルシャワ蜂起の番組のことはまったく知りませんでした。見ておけばよかったです。
2016年02月10日(Wed) 22:13
編集
お疲れ様です
昨年末にNHKでワルシャワ蜂起のカラー化映像を交えたドキュメンタリーをやっていたので見ました
ポーランドの壮絶な歴史でした
2016年02月08日(Mon) 19:36












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