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アジアンカフェをよろしく!

旅の夢をみよう いつかその場所を訪れるまでは  /  旅はヒーローになれる! 初めての街にはその舞台が用意されている。
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ユダヤ人居住区“カジミエシュ地区”

25日目  2016年1月30日 クラクフ

 列車の位置を確認するため立ち上げたスマートフォンの時刻が狂っていた。3時間45分進んでいた。

 1:00、ウクライナ国境。止まった列車に係官が乗り込んでパスポートを集めていった。その後、列車は動いては止まるを繰り返した。動いているときの時速は10~20kmぐらい。10kmぐらいは移動したはずである。

 隣のコンパートメントにいた人に、今の場所を訊いた。モステスク(Mostysko)。

 2日前から「フリーゲージトレイン」をネットで検索し続け、にわか勉強をしていた。フリーゲージトレインの軌間変換装置がある駅としてそういう名前があった。

 国境で、列車は車両単位で封鎖状態になっている。車掌は動くな、と言う。車掌にしてみれば、パスポートコントロールがうまくいき無事に列車を発車させたいだけだ。身動きが取れない。止まっては動く列車のなかで最後までモステスク駅を見ることはなかった。

 1:50、パスポートがもどされた。にじんだウクライナのスタンプがあった。かろうじてモステスクと読めた。ウクライナ側国境はモステスクである。スマートフォンのグーグルマップには出てこなかった。あとで試したとき、パソコンのグーグルマップには町名が現れた。

 2:00、ポーランド側の税関が乗り込んできた。リュックのなかを開けさせられた。なかのものを2つほど取り出したとき、もういいから。

 2:20、列車に乗り込んできたポーランドの入国管理官が私のパスポートをぱらぱらとめくった。その場でスタンプを押した。入国完了。

 ここまでの時刻表記はウクライナ時間に基づいている。これ以降はポーランド時間になるので時計を1時間遅くした。

 スマートフォンの位置情報が反応した。プシェミシルの名前が出てきた。列車がプシェミシル駅に止まったことはホームの駅名表示でもわかった。

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 ある家族が降ろされた。子供連れである。うつくしい街を造り上げた欧州の、民族の興亡の歴史は今なお続き、今を生きる人たちの現実と絡み合い、外から窺い知ることのできない軋轢を生んでいる。こういうときに降ろされるのがスマートなビジネスマンであった試しがない。大きな荷物を持ち黒い服を着た、一見してマイノリティと思われるような人たちだ。国境で働く者は仕事を忠実にしているだけである。境を越える者には少なからず夢や希望がある。働く者の仕事への忠誠心はしばしば夢を終わらせる。遠くから来た者はたとえ一時いっしょに乗り合わせたとしても、見ていることしかできない。

 列車はこの駅に長く止まっていたが、突然、後ろに進み始めた。そのあと、また前進した。線路には今までに見たこともない機械があったが、夜なのでよくわからない(使われていないようだった)。

 フリーゲージトレインを開発したのはポーランド国鉄である。ウクライナではない。そうだとしたらモステスクではなく、ポーランド側の国境駅であるプシェミシルに軌間変更装置を置くのではないか。

 推測で書いてみる。停車した場所はウクライナの軌道幅の線路で、バックしたあとに前進して止まったところには3本の線路がある。青函トンネルには、北海道新幹線の車両(標準軌)と在来線のJR貨物の車両(狭軌)が通る。両方を通すことができるように線路は3本用意されている。それと同じである。

 そこから一定の区間、線路が徐々に狭くなっていく。その上を通過する車両の車軸がそれに合わせて狭くなる(反対の場合は広くなる)。ポーランド側の標準軌になったところで、一度列車を止める。狭くなった車軸を、スピードを上げても問題ないように固定する。

 ざっとこんなところではないかと思うのだが、これについてはまったく自信がない。

 その後、列車は夜のポーランドを走った。

 4分遅れの6:00にクラクフ駅に着いた。フリーゲージトレインの旅は終わった。1980年のカタラン・タルゴがそうだったように、まったくおもしろくなかった。あとで「フリーゲージトレインに乗った」と語ることができるだけである。

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 東口のバスターミナルに行ってみた。2階にチケット売り場があり、発着場は1階と2階に分かれていた。チケット売り場はまだ開いていなかった。

 コンセントが使えてWifiが使えるバーガーキングでコーヒーを飲んだ。

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 バスターミナルでバスチケットを購入した。

 2日前にインターネットで予約をしようとした。リュクスエクスプレスはクラクフからワルシャワへの路線しかなく、ペーカーエスという元国営のバスはサイトの存在がわからず、PKSPolonusはワルシャワ経由の便しかなかった。唯一ポルスキブスのバスだけが、ダイレクトにグダンスク行きの路線を持っていた。ところが、予約の支払い画面のところで止まってしまった。だから窓口で買うしかなくなった。窓口では問題なく買えた。グダンスクには鉄道でも行けるのだが、バスのほうが安い。

 エニグマホステルはクラクフ駅東口5分のところにある。すぐに見つかった。リュックを置かせてもらうつもりでいったのだが、9:00過ぎにチェックインをさせてもらった。3人部屋の1ベッド。2泊20ユーロ(1泊10ユーロ)。

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 少し休んで街に出た。クラクフ駅のバスターミナルから駅の地下を通り、表口に出た。鉄道、中長距離バス、トラム、市内バスのバリアフリーが駅の表裏で実現している。それに商業施設が加わり、魅力的で人が集まるエリアが造られていた。都市の空間プロデュースの成功といっていい。日本ではちょっとできない。

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 駅の表口のパヴァア通りを南に歩いて最初の角を右に曲がり、さらに進んでみた。

 今日の気温は6℃だが、体感温度はもう少し高いように思う。歩きながら食べられると思った最初の日である。欧州の街を何かを食べながら歩くのは楽しみの1つだが、今までにそんな日はなかった。駅の地下街でサンドウィッチを買っておいた。

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 食べながら歩いているのは私だけだった。

 左手に公園が現れ、その奥に何やら観光地っぽいものが見えた。細長い公園に沿って歩いてみた。長方形の公園の長い辺にはきれいな建物が並んでいた。

 近づいてきたのはバルバカンと呼ばれる砦である。15世紀に建てられたものらしい。その先にあるクロリアンスカ門を潜った。ここが旧市街の入り口らしい。

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 旧市街を南北に貫いている通りを南のほうに歩いてみた。フロリアリンスカ通りの両側の建物は自己主張をし過ぎない端正なもので、1階にはレストランやカフェ、ショップが軒を連ねていた。店の広告の文字には大きいものもあるのだが、それでも過剰さが前に出てこないのは通りと建物の抑圧効果なのかもしれない。

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 聖ヤン教会を過ぎると聖マリア教会が見えてきた。中央広場があった。奥に向かって右手にうつくしい建物があった。織物会館(織物取引所)らしい。すばらしい広場だ。

 聖マリア教会の西の入り口は礼拝者用で、南に入り口がある。ポーランド人たちと待っていたが、今の時間は入れないと言われた。出口からちょっと覗いてみた。なかは礼拝の最中だった。黒と金色と灯が教会内を支配していた。

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 織物会館はベネティアを思い出させてくれた。繊維会館のなかに入ってみた。博物館ではなかった。1階には古い店構えの土産物がいくつもあった。

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 繊維会館の奥にもう1つ広場があった。驚いた。広場の向こうにもう1つ別の広場がある街を欧州で初めてみたと思ったが、それは勘違いだった。広大な広場の真ん中にぽつんと繊維会館の大きな建物があったのだ。

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 中央広場の南には聖ヴォイチェフ教会がある。その横にあるグロツカ通りを南のほうに歩いていく。さっきのフロリアリンスカ通りよりぐっと地味になる。建物の感じも通りにも大きな変化がないのに、印象が変わるのはレストラン、カフェ、ショップが少なくなったからだ。

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 通りの左手には聖ペテロ聖パウロ教会、聖アンドリュース教会、聖マルチン教会と風貌の異なる教会が3つ並んでいた。

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 中央広場から10分ほど歩いたところでグロツカ通りは終わった。聖イジー教会の向こうは視界が開け、ヴァヴェル城の旧王宮が見えた。旧王宮はまったく派手ではなかった。洗練もされていないし、田舎の大きな家のような感じがした。

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 ヴァヴェル城の南にある教会には入れなった。

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 ヴァヴェル城を囲むように坂道が2本あった。どちらにも人の流れがあり、入り口の方向がわからない。左手の坂を上がってみた。その先に入り口があるらしいが、先にヴィスワ川が見えた。ヴァヴェル城は高台にある。ヴィスワ川はちょうどヴァヴェル城に向かって流れ、城のふもとで蛇行するように流れの方向を変えていた。

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 入り口を抜け、ヴァヴェル城のなかに入った。「地球の歩き方」に、チケットは「それぞれのチケット売り場で購入する」と書かれていたので、チケットセンターを無視して歩いた。

 ヴァヴェル大聖堂に入った。ここは無料である。聖堂というより博物館だった。人はごった返していた。見るべきもの(内容をよく理解できない)は聖堂内の各所にあり、人の流れに逆らう動きはできない。撮影は許されておらず、スマートフォンで撮ろうとした人の両側には警備員がすかさず付いていた。着工時はゴシック様式、その後ルネサンス様式、バロック様式が加えられていた。ここでポーランド王の戴冠式が行われたらしい。日本の皇居の関連の神社に行くようなものである。

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 旧王宮は端正で繊細な建物だった。少しはかなげだった。

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 旧王宮に入るにはさっきのチケットセンターでのチケット購入が必要らしい。チケットセンターには列が出きていた。旧王宮は、「王宮の展示」、「王族の私室」、「宝物・武具博物館」、「オリエンタル・アート」、「ヴァヴェル城の遺構」の5つの博物館に区分されていた。「王宮の展示」のチケットを買った。「オリエンタル・アート」には興味があったが、これについては行きたいところが別にあったので、止めた。

 チケットには、時刻が印字された。その時刻からツアーが始まるのかと思ったが、そうではなく、その時刻までに入ってくださいというものだ。見学は自由だった。2つ以上を見る場合は、時刻を調整してもらうことができるようだ。ただし夏のオンシーズンにはどうなるかわからない。ごった返していることだけはまちがいない。

 王宮の展示の目玉はタペストリーである。アンジェ城のタペストリーはフランスで最も有名なものの1つだが、それより大きなものが何枚もあった。それにしても王宮というのはどうしてこうも多くの物品を溜め込むのだろう。

 ここは日本人が皇居で使われたものを見に行くような場所なので、ポーランド人にとっては見ておきたい場所なのだろう。私はあまり関心がない。巨大な王宮にたいして小さな玉座が置かれてあったのは印象に残った。権力は大きくなっても人間が座るスペースはみんな同じくらいである。

 龍の洞窟のチケットも、さっきのチケットセンターで買うことができたのだ。また列に並び直したのに、今は閉鎖されているという。オフシーズンだからなのかもしれないが、詳しいことはわからなかった。ここに来る人はあらかじめ計画を立て、どの施設に入り、どこでどの程度の時間を使うのかを決めてから来たほうがよい。

 日本人はイギリス、フランス、ドイツ、スペインの歴史や文化を知っている。高校で学習するからだ。ポーランドにもすばらしい文化があったことはクラクフに来ればわかる。しかしこれだけの文化があっても、他国に占領されてしまったのがポーランドだ。文化の力ははかない。ポーランドの建物を見ていて、その色の薄さにはかなさを感じてしまうのは、この国が占領されてきたからかもしれない。民主主義の原型を作ったアテネでさえ、スパルタとの戦いで疲弊していったのだ。

 王宮を出てストラドムスカ通りとカラコウスカ通りを歩き、カジミエシュ地区に行ってみた。この地区はクラクフとは別の町として造られた。映画「シンドラーのリスト」の舞台にもなったユダヤ人居住区があった場所である。今もポーランド最古のユダヤ教会スタラシナゴーク(ユダヤ博物館)がある。

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 この地区には長く続く道はない。道は細切れで、狭くはないが全体が路地のようなのだ。わかりにくくはないが複雑ではある。そして実におもしろい。

 カフェは多く、ホテルもある。新しいカフェもあるが、古くパンクな感じのカフェもある。レトロとキッチュと変わったセンスの良さがある。ホテルは小さいものばかりだ。エリア全体が大きくはないので、ホテルの数は限られるかもしれない。肝心のホテル数やホテル料金を加味したうえで論評できないのだが、この地区をバックパッカーの溜まり場とするにはすごくいい。

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 PLAC NOWY 1でピザ・イスパー二ヤを食べた。ピザにもパプリカ。

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 プラカ(アテネ)はインドに向かう欧州のバックパッカーたちの前線基地だった。東洋人バックパッカーが日本人でしかなかった時代に全盛期を迎えて、そして終わった。最初から好きにはなれなかったカオサンは、かろうじて残っていた暗さと凄さはすっかりはぎ取られ、ものわかりのいい、心底どうでもいい繁華街になってしまった。バックパッカーのスタイルが変われば、宿泊先のスタイルも変わる。インターネット上にあるホテル予約サイトの存在は、エリアとしての宿泊地を求める必要をなくしてしまった。つまりネットを検索すれば、部屋はどこかにある、心配するな、旅人よ。行けば必ず部屋があったサダルストリート(コルカタ、いやカルカッタと書いておこう)はもう必要ない。

 「むやみに行くな、行く前に検索しろ!」。ビルゲイツさん、見識あるあなたがこんなことを旅人に語るわけがない。しかしビルゲイツが語った言葉とするのが、最もふさわしい気がする。そうしてしまったのだよ。旅人は旅に日常を持ち込む。情報機器を持って旅に出る以上、それは当然の結果だった。

 しかしパンクなゲストハウスには、たとえばゲバラの絵があったりする。それゆえ、そういう雰囲気を好むバックパッカーが居つく。それは旅人たちのなかにそういう性癖、性向が消えていないことを意味している。ユダヤ人の世界であるカジミエシュ地区には新しく集う場を作る可能性がある。そんなことを考えながら、この地区を歩いた。

 午前中から昼過ぎにかけて見たクラクフの文化はぶっ飛んでしまった。

 STAROWISLNA通りを3番トラムが走っていた。駅前に行く唯一のトラムである。乗ってもいいが、沿線を歩いてみることにした。特におもしろくはなかった。

 ハヴァイア通りとクビチ通りの交差点のところに出た。地下道を渡り、ショッピングモールのなかに入った。かなり大きい。中央部まで来て、駅を東西に渡りバスターミナルに出た。

 エニグマホステルにもどった。3人部屋にポーランドの女の子が入ってきた。童話の勉強をしているらしい。童話の論説的なものを読んでいると言った。童話にたいしてその角度からアプローチする必要があるわけだ。まあ考えればわかることだけれど・・。深夜の国境通過と早朝のクラクフ着であまり寝ていない。10:00頃に寝た。
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