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37日目 2017年1月23日 ドーハ 羽田 旅のまとめ(フライト選択/LCCのチェックインと搭乗券/宿泊先と宿泊費)

ハマド国際空港から羽田空港へ

 2014年、開港3ヶ月後のハマド国際空港はすばらしかった。空港内で20時間ほどいたが、客は少なくすべてに余裕があった。スタッフは親切だった。その後、2016年の1月、2月、12月そして2017年1月と、来るたびに粗が目立つようになってきた。マルチコンセントがあちこちに付けられ、空港建物内をシャトルが走るようになったが、狭いトランスファーはまったく管理されておらず、醜悪ですらある。またゲートの位置と使い方は偏っており、ハード、ソフト両面で改善の余地は多くある。乗客増加への対応を早急に行ったほうがいい。

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 QR812 ドーハ7:10発 → 羽田22:30着

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旅のまとめ(1) フライト選択

 日本とヨーロッパの往復フライトはカタール航空である。

 12月18日/19日 羽田 → ドーハ → バルセロナ  カタール航空 
 1月22日 /23日 バルセロナ → ドーハ → 羽田  カタール航空 
 
 羽田・バルセロナの往復料金は51,920円である。

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 欧州の辺境から辺境への旅を可能にしたのはLCCである。下の金額には手数料などのすべての費用が含まれている。ちなみに1月11日の[ミラノ→ラルナカ]の費用6,477円のうち航空料金は2,267円である。

 12月21日  バルセロナ → レイキャビク    ノルウェジアン   15,963円
 12月23日  レイキャビク→ ダブリン      wowエアー    26,110円
 1月1日    ダブリン  → ブリュッセル    ライアンエアー    7,685円
 1月11日   ミラノ   → ラルナカ(キプロス)イージージェット   6,477円
 1月14日   ラルナカ  → アテネ       エミレーツ航空    7,242円
 1月14日   ローマ   → マルタ       ライアンエアー    6,027円
 1月20日   マルタ   → バルセロナ     ブエリング航空    5,177円

 [バルセロナ→レイキャビク]のフライトは、両都市の距離を考えると高いとはいえない。

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 一方[レイキャビク→ダブリン]のwowエアーは高すぎる(26,110円)。12月末の1週間は料金が高止まりしていた。2017年1月1日の料金は3分の1ほどになっていたが、そこまでレイキャビクにいることはできなかった。

 1月14日の[ラルナカ→マルタ]の直行便はあったが、フライト数は少なく料金は高かった。アテネ経由あるいはローマ経由が安かったので乗り継ぐことにした。ローマ経由の場合は、ローマで空港間移動をしなければならなかった。空港が1つで、ターミナルも1つしかないアテネ経由とした。

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 より最安値のフライトを狙って乗機することはできたが、空港での待ち時間が長く過ぎたり、不当に長い距離を飛ぶはめになったりするのでそれは止めた。

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旅のまとめ(2) LCCのチェックインと搭乗券

 予約はネットで行った。LCCではないエミレーツ航空を除いてEチケットと呼ばれるものは存在しない。各社が独自に設定した予約情報をプリントアウトするかスマートフォンにダウンロードさせておく必要がある。

 空港のカウンターで予約番号を伝えるか、ダウンロードしたスマートフォンの画面を見せるだけでチェックインが可能であるが、予約完了後にすべての航空会社で「プリント」という文字が画面上に表示された。つまり航空会社側からは、プリントしたものを持ってこいという意思表示はされている。

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 スマートフォンには決定的な欠陥があることは頭に入れておいたほうがよい。1つ目は故障、2つ目は電池が切れてしまうことである。もちろんパソコンの画面を見せることはできる。

 旅の途中で航空券の手配をしていく場合、街中のプリントサービスで印刷しておく必要がある。多くの場合、日本のコンビニエンスストアのようにネット対応ができていないので(あったとしてもそれを見つけるのは難しい)、USBなどのメディアに入れたものを持っていくか、プリントサービスの店頭でそこのメールアドレスを教えてもらい、添付ファイルで送ったものを印刷してもらうことになる。2013年のインド、フィリピンで何度かそれをやった。2014年のニュージーランドのホステルで同様のことをやってもらったこともあった。

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 レイキャビク空港のwowエアーカウンターは完全な自動チェックイン方式だった。予約時にパスポートを登録していなかったが、自動チェックイン機でパスポートのスキャンからはじめて、自動チェックインができた。航空会社が発行するリファレンスナンバーが必要なかったというのは不思議であるというより奇跡に近い(リファレンスナンバーを私は持っていたけれど)。

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 ライアンエアーの自動チェックインをしていない場合、よからぬ噂があった。

 ①飛行機に乗せない
 ②(カウンターで搭乗券を印刷してもらうと)60ユーロを払わなければならない
 ③60ユーロはその後4,000円くらいになった
 ④イギリス人がそのようなことをフェイスブックに投稿し、30万件の「いいね」を集めた

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 イージージェットにも噂はあった。4,000円を払わなければならない。

 上記の噂の真偽を確かめることはできない。推測で書くと、最初はそういうルールが存在していた可能性がある。今も継続されているのかどうかはわからない。イージージェットのサイトを読んでみると、それについて書かれた項目を見つけることはできなかった(ざっと目を通しただけである)。

 ライアンエアーについては準備をしてきたが、イージージェットの噂を知ったのは、フライト前日の19:00である。いきなりピンチになった。イージージェットに限り、私はリファレンスナンバーを持っていなかった。

 [ミラノ→ラルナカ/イージージェット]、[ラルナカ→アテネ/エミレーツ航空]、[マルタ→バルセロナ/ブエリング航空]の3フライトを、旅行会社のCtrip(本社/香港)で予約をしていた。エミレーツ航空、ブエリング航空についてはリファレンスナンバーをもらっていたが、イージージェットについてはリファレンスナンバーが届いていなかった。Ctripは、パスポート登録をしているので、予約確認書をカウンターに持っていくことで対処できるという解釈をしていた。つまりリファレンスナンバーは必要ではないということである。

 フライト前日の19:00頃、ミラノのホステルでいくつかの対処を試みた。

 イージージェットのサイトにアクセスしたが、リファレンスナンバーなしで自動チェックインにたどり着くことができなかった。アカウントを新たに作成し、氏名やパスポートナンバーから自動チェックインを試みようとしたが、同じである。どの角度から入ってみても予約してあるフライトにたどり着くことはできなかった。自動チェックインができない場合で、直接イージージェットからチケットを購入していない場合(旅行会社などから購入した場合)は、「購入先に問い合わせてほしい」というメッセージがサイト内にあった。一応、HELP欄から自動チェックインができない旨のメールを送っておいた。翌日、チェックイン・カウンターでこちらの正当性を主張しなければならないからである。

 同時にCtripに、事情を伝え、リファレンスナンバーを届けるようにメールした。Ctripのサイト上でも私のフライト情報を確認できるのだが、その画面上でも[ラルナカ→アテネ/エミレーツ航空][マルタ→バルセロナ/ブエリング航空]の2つのリファレンスナンバーが表示されているのに、[ミラノ→ラルナカ(キプロス)イージージェット]だけは表示されていなかった。

 イタリア時間の19:00はイージージェット(19:00)もCtrip(3:00)も営業時間外だった。

 翌朝Ctripからのメールが届いていた。メールのなかにイージージェットのリファレンスナンバーが記載されていた。あいかわらず「予約確認書をカウンターにもっていけば大丈夫である」と書かれていたけれど。

 すぐにイージージェットのサイトにアクセスした。自動チェックインが完了したのは、締め切り時刻(=出発の2時間前)の約2時間前である。この旅の最大のピンチだったといえるかもしれない。これについては[25日目 2017年1月11日 ミラノ ラルナカ]に詳しく記載してある。

・・・・・・・・・・・

 LCCに乗る際の注意点は荷物のサイズと重さである。もっとも厳しいといわれるライアンエアーの指定するサイズ、重さ(10kg以内)に対応できるようにしておいた。これですべてのLCCに対応できるはずである。リュックはスーツケースとは異なり、形状を変えることができる。各航空会社のカウンターに用意されているカゴ(そのカゴに入らない荷物は追加料金の対象になる)に収めることができれば、サイズ面でクリアとなる。

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 また荷物の分離・合体を、乗り換え時間の長短、空港着の時間帯に合わせ対応できるようにした。ライアンエアーやイージージェットのカウンターでは荷物を1個口にまとめ、そのうえで10kg以内に収めれば、手荷物として機内に持ち込める。保全検査を通過したあとは、分離して2個にしてもかまわない。

 もちろん機内持ち込みではなく、機内に預け入れることはできる。しかし乗り換え時間が少ない場合で、荷物が自動的に次の便に乗せられない場合は、自分で一度ピックアップしなければならない。乗り換え時間に余裕があればよいが、遅延の可能性は常にある。手荷物として自分で持ち込むほうが到着空港内で機動性を発揮できる(夜遅くの空港着でも事情は同じである)。その回数を増やすことによってロスト・バゲッジの確率を下げることもできる。「荷物の合体ロボ化」である。


旅のまとめ(3) 宿泊先と宿泊費

 宿泊先はブッキングドットコムで予約した。ブッキングドットコムで安いホテルを見つけることができない場合はホテルズドットコムとアゴダのサイトをチェックした。実際に予約をしたのはブッキングドットコムとホテルズドットコムの2つである。

 予約の良い点と悪い点がある。早く予約をすれば比較的安い料金で宿泊先が確保できるが、当日割引ということもあるので一概にはいえない。宿泊先が決まっていれば、夜でも安心して新しい街に入れるというのは大きな利点である。悪い点は自由な旅ができにくいという点に尽きる。また予定が変わってしまった場合、ペナルティが発生することが多くなる。

・・・・・・・・・・・

 フライトが遅れても、その日に予約先に着くことができるのなら一応問題はないが、フィジーで72時間待ち、バヌアツで50時間待ちを経験した。そのとき宿泊先の予約をしていなかったのでキャンセル料金などを払わずに済んだが、それはたまたまである。ラッキーだったのだ。

 フライトが遅れ、たとえその日に宿泊先に着くことができても、宿泊先のレセプションが24時間開いていない場合がある。ホステルではたまにそういうことがあり、民泊がホステルのなかに混じっていることもある。ホステルの予約をする際に、レセプションのオープン時間は、優先順位の最上位としてチェックしておくべき項目である。普通は、注意書きとしてその旨が記載されているはずであるが、予約時にこれを見落とす人は多い。私は夕方以降に飛行機で着く場合、24時間オープンのレセプションを持つ宿泊先以外を選ばない。飛行機の遅れの心配に加え、宿泊先の心配が加わるからである。メールや電話で連絡を入れれば何とかなる場合はあるが、常にそれができる環境にあるとは限らず、またホステル側がチェックインの遅れに対応ができないこともある(時間外の対応をしないとあらかじめ断っているホステルもある)。

 スタッフが帰ってしまったブリスベン(オーストラリア)のホステルで、宿泊客が私のチェックインの対応をしてくれたことがあった。スタッフが宿泊客に私の対応をするように依頼していたからである。

・・・・・・・・・・・

 宿泊先のほとんどはホステルである。4人~16人部屋の1ベッドである。トイレ、シャワーは共有である。宿泊料金はその街の最安値レベルになる。最安値付近の料金で、立地、料金、口コミ、写真などを考慮し選択していく。ベッド脇のコンセントの有無はチェックポイントの1つであるが、口コミに書かれていなければ、写真から判断するしかない(多くの場合はコンセントの有無は判断できない)。旅を長く続けるために節約は必要なことである。それがホステルに泊まる理由である。

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 下の一覧は今回の宿泊都市と宿泊料金の総額である。リネンなどが付いている場合と追加で支払う場合があり、その種の追加料金は宿泊費に含めている。市の滞在税などについては除外している。

 ほとんどのドミトリーに朝食は含まれているが、食べたり食べなかったり(早朝出発などの理由による)している。ほとんどの場合は、シリアル、パン、コーヒーまたは紅茶である。

 カタール航空       機内泊
 バルセロナ(西)     12.6ユーロ × 1泊
 バルセロナ空港      空港泊
 レイキャビク(アイス)  27.0ユーロ × 2泊
 ベルファスト(英)    27.0ユーロ × 3泊
 ゴールウェイ(アイル)  17.0ユーロ × 2泊
 ダブリン(アイル)    15.0ユーロ × 2泊
 ダブリン(アイル)    30.0ユーロ × 2泊
 ブリュッセル(ベ)    23.0ユーロ × 1泊
 チューリヒ(ス)     38.7ユーロ × 2泊
 ボローニヤ(伊)     21.5ユーロ × 1泊
 リミニ(伊)       15.0ユーロ × 1泊
 フェッラーラ(伊)    25.0ユーロ × 1泊  (民泊/個室ツイン)
 モデナ(伊)       17.1ユーロ × 1泊
 パルマ(伊)       20.0ユーロ × 1泊
 ミラノ(伊)       19.0ユーロ × 1泊
 ラルナカ(キ)      18.0ユーロ × 3泊 (相部屋のドミトリー)
 セント・ジュリアン(マ) 15.1ユーロ × 1泊 
 ゴソ島(マ)       28.0ユーロ × 2泊 (個室ツイン)
 セント・ジュリアン(マ) 15.1ユーロ × 3泊
 バルセロナ(西)     11.5ユーロ × 2泊
 カタール航空       機内泊

 *レイキャビク、ベルファスト、スイスの通貨はユーロではないが、予約時のユーロで記載した。

 *(西)=スペイン / (アイス)=アイスランド / (英)=イギリス / (アイル)=アイルランド   (ベ)=ベルギー / (ス)=スイス / (伊)=イタリア / (キ)=キプロス / (マ)=マルタ

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 バルセロナ、マルタ、イタリアの各街の宿泊先は安かった。それでも東ヨーロッパに比べれば高い。東ヨーロッパの冬は5~6ユーロで宿泊できるところはある。

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 スイス、アイスランド、マルタのゴソ島は高かった。ゴゾ島にホステルはないと思われる。

 ルクセンブルグでは奇跡的に安い宿泊先を見つけることができた。ダブリンのドミトリーの数は少なくないが、早く予約していかないと空室がなくなってくるということを実感した。

 終
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36日目 2017年1月22日 バルセロナ ドーハ

ウルバニーホステルをチェックアウト

 この旅のなかで最悪のホステルだった。宿泊者の層が悪すぎた。早朝の4:00過ぎに部屋にいたのは私ともう1人だけである。12人部屋の10人は外出し(問題ない)、部屋に頻繁に出入りした(一応は問題ない)。そのとき灯りを点け、しばしば声を出していた(マナー、モラル違反である)。

 部屋の宿泊者のうち2人は旅人ではない、おそらく夜の女である。ホステルが客を拒絶することはできない。2人は(おそらく)化粧などをするために、部屋のトイレを1時間半にわたって交代で占拠した(大きな問題である)。

 ウルバニーホステルではないが、レセプションが(24時間オープンではなく)例えば22:00で閉まる場合、そのあとに宿泊者が友人を連れ込んできて、空いているベッドにタダで宿泊させる場合もなくはない。

 昨日もうまく眠れず今朝も同じ状態である。この旅でしっかり眠れなかったのは、このホステルだけである。

 10:00前にウルバニーホステルをチェックアウトした。

 朝からの雨は止んだようだ。気温は低くはないが風が強い。街路に設けられたテーブル席の上のテントが風にあおられ、街路樹が震えている。スペインの旅のほとんどが雨のなかだったが、晴れ間が広がる気配はあった。

 多くの人がランニングをやっていた。長距離ではなく単なるランニングのようだ。何かのイベントかもしれない、今日は日曜日である。最後尾を走る人たちのあとに主催者の車が付いていた。

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 ウルバニーホステルの近くのカフェに入った。メニューにハモン・イベリコがあった。ハモンはハム、イベリコはイベリア半島のことで、イベリアンハムということになる。はたして本物かどうかはわからない。特長のない味だった。

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ランブラス通りの周辺を歩いてみた

 カフェを出たとき青空が見えていた。行きたいところがあるわけではない。ランブラス通りを歩くことにした。カタルーニャ広場の南西側から南に歩いた。

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 通りの東にあるゴシック地区に入った。13世紀から14世紀の建物が残っているエリアである。

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 ゴシック地区にあるカテドラルは13世紀の終わりに建設が始められ、完成したのは1450年である。完成までに150年かかっていることになるが、サグラダファミリアのあるバルセロナではあり得ることだと思ってしまう。カテドラルにはバルセロナの守護聖人サンタ・エウラリアが祀られている。サンタ・エウラリアは、キリスト教の信仰を捨てなかったために、ローマ人によって13の拷問を受け13歳で殉教したといわれている。

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 ボケリアと呼ばれているサン・ジョセップ市場は閉まっていた。閉鎖されているのではないようだ。

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 ランブラス通りの中間点にあるリセウ劇場ではオペラが上演される。ファザードはホテルのようでもあるし市庁舎のようでもある。裏側のラバル地区は治安がよくないといわれているが、それほど悪いとは思わなかった。

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 リセウ劇場の裏のほうを歩いていたらグエル邸の前に出た。

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 レイアール広場は中央の噴水を取り囲むようにレストランやカフェが並んでいた。蚤の市が開催されていた。コインやバッジなどを売っている店(や個人販売)がいくつも並んでいた。街灯はガウディーの作品。以前スリが多かったといわれている。蚤の市を見ているときに被害にあうのだろう。荷物に注意しながら歩いていた。

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 カターニャ広場にもどった。時間が少しあったのでバーガーキングでコーヒーを飲んだ。

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バルセロナ空港へ

 カターニャ広場からバルセロナ国際空港行きのバス(Aerobus)が出ている。バス停に貼り紙があった。乗り場変更の案内である。フライトまでの時間がない場合は焦るだろう。変更場所の地図が貼られていた。その場所はカターニャ広場の400mほど北である。

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 その場所まで歩き、バルセロナ国際空港ターミナル1行きのバスに乗った。

 フライト時刻の3時間前に空港に着いた。カタール航空のチェックインは始まったばかりのようだ。前のほうの通路側の席を希望した。満足のいく席が割り振られた。

 出発ゲート前にあったカフェはマグドナルドだけだった。セットメニューなどがわかりにくい海外のマグドナルドで、自動販売機での注文は便利だった。

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 QR146 バルセロナ16:35発 → ドーハ(+1)00:50


『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の日本に帰る

 2016年12月19日の旅日記に、カタール航空の機内で観た映画『シン・ゴジラ』がおもしろかったことを書いた。帰りの機内でも観ようと思っていた。

 やはり石原さとみのシチュエーションは奇妙である。リアリティがあるようで、ない。過剰である演技が成功しているのかどうか判断できない。監督の作為であることはわかるが、結果として1人だけ浮いている。

 辰野金吾が設計し関東大震災を持ちこたえた東京駅は、近代日本の建築が一流であることを証明した。その東京駅をシン・ゴジラは木っ端みじんにした。そして東京駅丸の内側でシン・ゴジラの進撃は止まる。解釈のしようによっては東京駅が止めたということになる。2016年12月19日にも書いたが、その先にあるのは皇居である。シン・ゴジラが破壊した、丸の内側の駅舎の南側から日比谷通りのすぐ西にある堀までわずか300m。そこがシン・ゴジラの停止位置である。

 日本の政治の決断の遅さはカリカチュアとして映画の前半部に凝縮されていた。そこでは平時の日本の政治システムとその動き方を描いていたわけだが、後半に描かれていた、非常時における精鋭科学者たちの切れのよさは秀逸であった。日本の隠れた才能たちが集結しかろうじて日本を救うのである。

 映画の前半部分において、シン・ゴジラ対策のヤシオリ作戦(ポンプ車で「血液凝固剤」と「活動抑制剤」をシン・ゴジラに流し込む)はできあがっていた。それを後半に持ち出してきただけで、日本は見事に平時から緊急時への対応をしたのである。だから映画の評論にあるような、日本の政治システムの決断の遅さは見せかけである。もし本当にいつまでもばかな政治家が居座っていたら(清朝末期の中国のように)、国連と多国籍軍の原爆が東京に落ちていただろう。

 竹野内豊によって語られる、ゴジラの襲撃場所がニューヨークであっても国連は同じ決断をしたという話は人類の生存本能の強さをあらわすものである。

 同時に竹野内が語る「スクラップアンドビルドで日本はのし上がってきた」という言葉については間違っている。むしろ日本は過去のものをスクラップ化しなかった国である。明治維新で残ったもの(残したもの)、戦後に残ったものは多くある。

 石原さとみが、アメリカの協力を「日本は愛されている」と語った。そういう側面がないわけではないと思う。好かれる国を日本人は残したいのだと思う。

 前田敦子が避難民として登場していたらしいが、2度観ても、見つけることができなかった。一避難民が目立ってよい映画ではない。そうだとすると前田敦子はよい演技をしていたことになる。エンドロールは一部の俳優を除いて、あいうえお順に並んでいたので、名前を見つけることはできた。

 コンピュータをつないで、ゴジラ凍結プランのxxxの分量の解析など(ヤシオリ作戦)に世界の協力が得られたのは、人類の未来を示すものである。

 「ヤシオリ作戦」という命名が、『新世紀エヴァンゲリオン』の「ヤシマ作戦」と似ているのは作者が共通だからである。観客が2つを結び付けてマニアックにおもしろがることはおそらく制作側が想定している。

 若い政治家や官僚たちは寝る間も惜しんで頑張る姿は日本のよい一面である。

 ゴジラがなぜ日本に出現したのか。それは『新世紀エヴァンゲリオン』において使徒が日本に現われ続けたのと同じ意味である。

 ゴジラを国連の監視下に入れてしまう。その場合、中国、ロシアも加わることになる。
 日本と共同で対処をしようと米国は提案してくる(この提案を日本は飲むことができる)。
 国連はゴジラを消滅するために原爆を東京に落とそうとする。

 福島での原発事故を経験した日本に、広島、長崎に続く3発目の原爆を落とそうという国連の決定に対して日本政府がどれほどの抗議と反対の意思を示したのかは映画では十分には描かれていない。日本が非常任理事国であるという設定をしたうえで、国連内部に日本人を登場させ、安全保障理事会での攻防を描いてほしかった。

 それができなかったのは全体の上映時間の制約からくるものだろう。しかしこの部分を登場させなかったことによって、国連本部のあるニューヨーク湾に乗り込んで論戦を挑んだ『沈黙の艦隊』の海江田四郎の挑戦より国際政治的な内容ははるかに劣るものになってしまった。

 30年くらい前に大江健三郎が書いていた。『ヒロシマ・ノート』だったと思う(その本はもう私の本棚にはない)。彼は誰かに言われたそうである「3発目の原爆が落ちるとしたら、日本で、だと思う」と。

 シン・ゴジラはゴヤの『巨人』なのか。プラド美術館が、この画はゴヤではなく弟子の作であるとしているのだが、画のなかの巨人は村を破壊しようとしていない。それどころか外敵から村を守ろうとしているように見える。逃げ惑う人たちは巨人の後ろでパニックになっているので、巨人から逃げようとしているようではないように思える。その逃げようとしている人々のなかに1頭の白い馬だけが立ち止まっている。それがゴヤだと言われていた。

 福島の原発事故を世界がどう眺めていたのかを如実に表現した映画だった。5年以上が経った今、シン・ゴジラがそれを気付かせたといっていいかもしれない。

 現在の自衛隊の装備では想定外の災厄(シン・ゴジラ)にたいして力不足であるというのは、中国、ロシア、北朝鮮に隣接する日本の地政学上の位置を勘案すると、アイロニーでさえある。自衛隊と米軍との力の差というのは対シン・ゴジラにたいして使用した武器の差によって明らかになってしまった。それは空母を保有している、していないというレベルの差ではなかった(もっとも米軍もシン・ゴジラにたいしては無力だった)。解決したのは、日本の異端の頭脳たちとインターネットによる世界の連携であった点に日本と世界の未来があるのかもしれない。

 最後のテーマはシン・ゴジラの進撃がなぜ東京駅で止まったのかということだろう。新幹線や在来線を突っ込ませ、ビルの倒壊でゴジラの口元に凝固剤を投入するためには、その場所が高層ビルのある駅である必要があったからであるというのは映画都合上のことである。しかしおそらくそういうことではない。

 問題は、東京駅の西側に皇居があるということである。つまりなぜ皇居の手前で、進撃のシン・ゴジラは止まったのか。皇居を破壊していたら世論の反対や右翼の街宣車の攻撃を受けて興行に影響を及ぼすという阿呆な話でもない。

 進撃のシン・ゴジラはとにかく皇居前で止まるのである。

 現実世界で、つまり2011年3月11日に東日本大震災が皇居直下で起こり、近隣に原発があったなら、2Q16年の映画でシン・ゴジラは東京駅を越えて皇居に進撃していただろう。

 2016年10月に『君の名は。』(監督/新海誠)を観た。

 『シン・ゴジラ』は2016年を代表する映画であるが、『君の名は。』には劣る。社会性が欠如している『君の名は。』の、マーケティングは大成功した。成功のカギは若年層にターゲットを絞った広告宣伝の手法にあると思うが、上の年齢層が観ても、十分理解できる内容である。上映中である現在、追加のマーケティングを行うのなら、年齢層を上げて訴求してほしい。一方、内容豊富な『シン・ゴジラ』は若年層には古すぎるだろう。

 東日本大震災を想起させるのは2つの映画の共通項である。それは2つの映画が意図的に映像のなかに取り上げたからというより、大震災が日本人の精神の深底部を揺さぶったからである。

 私たちは2011年3月11日をようやくかたちあるものに昇華しようとしている。それはハードウェアではない分野で、という意味である。

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35日目 2017年1月21日 バルセロナ ジローナ

バルセロナ動物園。そこにいたのは「白のライオン」だったのか。

 ♪白のパンダを どれでも 全部 並べて~♪ 

 『アジアの純真』を聴くたびに思い出す。そこにいたのは「白のライオン」あるいは「白のゴリラ」。

 1983年のクリスマス、私はバルセロナ動物園のなかを速足で歩いていた。

 このときバルセロナが2度目だということもあり、バルセロナ動物園に直行した。目的は白いライオンを見ることだった。

 動物園の入り口にあった案内図で、ライオンは一番奥にある檻にいることがわかった。珍しい動物は奥に配置するのだ、奥にあるのは当然である。他の動物には目もくれず動物園の奥に突き進んだ。掻き分けるはずの人混みはなかった。動物園はがらがらだった。

 ライオンの檻を見つけた。檻のなかに白いライオンはいなかった。しかしライオンはいた、当たり前である、そこはライオンの檻である。普通のライオンだった。目を見開いてまじまじと見た。冬の淡い光のなか、毛の色を観察した。普通のライオンは普通のライオンらしい色をしていた。

 ひどいじゃないか。わざわざ見に来たのに。

 ライオンの檻の左隣りに別の動物の檻(何の動物か忘れてしまった)があり、その横に別のライオンの檻があった。そうか、その檻にいるのが白いライオンなのだ。

 もう1つの檻に入っていたライオンはさっき見たライオンより、やや、ほんの少しだけ、無理に比べてみればわずかに白かった。

 きっとこいつが白いライオンなのだ、そう思うしかなかった。そのとき2つのライオンの檻を3往復くらいしたと思う。

 白いライオンといいながら、この程度の白さだから客を呼べないのだ。ダメな動物園だ。そう解釈した。

 このときバルセロナ動物園では「世界のヘビ展」をやっていた。ライオンに満足できなかったので「ヘビ展」を見て帰った。トラもサルもゾウもサイもワニも見なかった。ゴリラも。

 真相に気が付くまでに多くの時間がかかったわけではなかった。3ヶ月ぐらいあとになって知った。バルセロナ動物園にいたのは白いゴリラだった。

 バルセロナ動物園にいるのが白いゴリラであることを(最初は)知っていたのだと思う。白いゴリラを見るつもりでバルセロナにやってきたのだ。それがいつの間にか、おそらく南フランスのエクス・アン・プロヴァンスやセートを旅しているときに、白いライオンにすり替わってしまったのだ。なんとなくそうなってしまったとしか思えない。スペインのガイドブックをそのとき持っていなかった。

 2017年1月21日の今日、再びバルセロナ動物園に行くことはできる。しかし行くつもりはなかった。


あのときの川の街、ジローナ

 時間を24時間ほど前にもどす。同じ1983年の、バルセロナ動物園に行った日の前日、つまりクリスマスイブ。

 南フランスから列車でスペインとの間のポルトボー国境を越えた。地中海を見下ろす国境である。その日フィーゲラスで下車しダリの絵を見たあと、列車でバルセロナに向かっていた。

 列車はスピードを落とし川を渡った。まもなく町に入るようだった。その川の周辺にくすんだような町があった。車窓に釘付けになった。どこなのだろう、何という町なのだろうと思った。下車するかどうかを迷った。列車は少し進んで駅に入っていった。夕暮れだった。その頃宿泊先の予約をしておくということは考えもしなかった。着いた町の駅周辺でホテルを探すのは当たり前だった。バルセロナの宿泊先を決めていなかった。だから川のある町で途中下車してもよかったのだ。

 私は下車する決断ができずにバルセロナまで乗ってしまった。白いライオンを見るために。

 あとで調べたその町の名はジローナ(Girona)だった。名前はすぐにわかったが、そのあとずっと放りっぱなしにしていた。ジローナという名前は頭のなかから消えなかった、くすんだ夕暮れの風景とともに。しかしスペインに行くことは今日までなかった。

 今日バルセロナ動物園には行かないが、ジローナには行ってみる。


列車でジローナへ

 早朝の暗い道を歩いて地下鉄ウニベルシタ駅に着いた。地下鉄1号線に乗りエスパーニャ駅で3号線に乗り換え、サンツ・エスタシオ駅に着いた。バルセロナの地下鉄の駅は暗いうえに案内の掲示が十分ではなかった。地下鉄エスパーニャ駅での乗り換えで歩かされた。地下鉄サンツ・エスタシオ駅からRENFE(スペイン国鉄)サンツ駅までも随分歩いた。

 RENFEのサンツ駅は空港ロビーを思わせる近代的な駅だった。ジローナ行きのチケットを買うため、あるチケット売り場に並んだが、そこは優等列車専用のチケット窓口だった。別の窓口でチケットを買った。ジローナまでの往復は16.8ユーロ。1日数本ある中距離用の一番安いチケットである。列車番号や発車時刻の印字はされていなかった。AVEやAVANTで行った場合の所要時間は38分であるが、私の乗る列車は1時間36分かかる。

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 ジローナ行きの列車は13番線か14番線からの発車になっていた。この2つの番線の改札は他のプラットホームと別になっていた。

 15842 R11 バルセロナ8:46発 → ジローナ10:22着

 [R11]の[R]は[Regional]である。行き先はCERBEREとあった。まさかと思い調べてみた。ポルトボーの1つ先(東)の、フランスの駅である。列車はうつくしいポルトボー国境を越えるのだ。

 列車はバルセロナ市内を地下線路で抜け、地上に出た。鉄道脇の塀や壁には落書きがあふれていた。これほど多くの落書きのある街を知らない。アテネも多かったが、それ以上である。

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 つまらないと思われたバルセロナの郊外の風景は、ジローナに近づいた頃、それほど悪くないと思えるようになっていた。列車はCERBEREに向けて走っていた。途中、新線を走る高速列車が追い抜いていった。

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ジローナを歩いてみた

 ジローナ駅前に立った。雨が強く降っていた。傘を持ってこなかったのは明らかに失敗だった。

 ジローナの駅舎は何の変哲もない横長の建物だった。駅の東を通っているバルセロナ通りを北東に歩いた。Glan Via de JauneIが交わってきたところから東に延びる通りを歩いていくとオニャー川に出た。

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 1983年に見た川らしい。建物にある住宅はくすんだ中世のもののように思っていたが、そうではなかった。それは私がそういうふうに思っていたというだけである。駅に入る手前で、列車がスピードを緩めていたとはいえ、私が見たのは一瞬である。それにそんな古い記憶があでやかであること自体がおかしい。だから今日その場に立ってみたところで、どうせがっかりするだろうと思っていた。

 住宅のある建物は黄色やオレンジ色などカラフルだったが、光沢はなく抑えられた色調だった。

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 がっかりはしなかった。なにかが埋まった、そういう感じだった。

 橋を渡って旧市街のほうに歩いてみた。古く暗い建物の石畳を歩いた。

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 雨が止む気配はなかった。ところどころで建物の軒で休みながら、再びオニャー川の橋を渡り新市街に出た。

 鉄道の高架が見えてきた。新市街側の鉄道橋のふもとに立ってみた。列車の窓より6、7mほど低いが、1983年に見た風景とほとんど同じ場所である。ただそういうことをしてみただけである。

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 オニャー川にはいくつかの橋がかかっているが、最初に渡った古い魚屋の橋以外におもしろそうな橋はなかった。鉄道橋のすぐ近くで見つけたツーリストインフォメーションで地図をもらった。雨が弱まる気配はなかったので、ツーリストインフォメーションに少し居させてもらった。ジローナに来る日本人は増えていると若いスタッフは言っていた。

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 ツーリストインフォメーションの隣りのカフェに移動した。しばらくそこにいたが、いつまでもカフェに居られない。仕方がないので動き出すことにした。

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 「地球の歩き方スペイン」を持ってきていない。昨夜ウィキペデアで検索して見つけた5つほどのスポット(サンタ・マリーア・デ・ジローナ大聖堂、旧ユダヤ人居住区、アラブ人浴場、リベルター通り、独立広場)をメモしてきていたが、そこに行きたいわけではなかった。

 もらった地図にはカテドラル、バシリカ・サン・フェレイユ、アラブ浴場などが載っていた。カテドラルとは、サンタ・マリーア・デ・ジローナ大聖堂のことなのだろう。カテドラルに入ることができなかった。

 BASILICA DE SANT FELIUとEL MUSEU TRESOR DE LA CATHEDRALが共同で「ジローナ/スペイン」という常設展をやっていた。

 カテドラルとオニール川周辺を歩いてみた。旧市街は中世のようであるが、オニャー川沿いにある建物はそうではなかった。新市街の郵便局の近くにプラサ・デ・インデペンデンシアがあった。広場を囲むようにレストラン、カフェが軒を連ねていた。

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 派手ではない、落ち着いた街である。

 13:00に駅前にもどってきた。街歩きを終えたとき、雨は止んでいた。駅の近くのビュッフェのようなカフェに入った。バッグの表側のポケットに入れてあった地図や紙類は、雨が浸みてびしょびしょになっていた。昼ご飯を食べながら、バッグのなかの紙類を外に出して乾かした。

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 最安値の往復チケットを買ってある私が乗車できる列車は多くない。14:19発の次は15:36発になってしまう。

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 下の1枚はジローナ駅の、向かい側ホームにあった案内板[フィーゲラス フランス国境]。行きたくなった。

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バルセロナにもどった

 ジローナ14:19発 → バルセロナ15:39着

 思ったより早くバルセロナ・サンツ駅にもどって来ることができた。サンツ駅から1.5kmほどの距離にある場所に行くことができそうだ。明日の朝ウルバニーホステルから出かけるよりは近い。

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 サンツ駅の東北側にあったサンツ・バスターミナルにはユーロラインズやアルサなどのバスが停車していた。そこから北に歩いて、マドリット通りに入った。西に1kmほど歩いた。途中のアパート群は高さが10階建てで統一されていた。それぞれの建物は個性的でここがバルセロナであることを感じさせてくれる建築群だった。

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 グラン・ビア・カルロス3世通りを過ぎたところを北に歩いた。何の変哲もない住宅群のなかにそれは出現した。


カンプ・ノウ・スタジアムに入ってみた

 巨大な円形の駐車場のようだった。日本の地方にあるショッピング・モールといってもいい。外観はぱっとしなかった。しかしネイマールとカタール航空が迎えてくれた。カタール航空の機内で、FCバルセロナのメンバーが演じている「機内での注意事項」の映像を初めて見たときはおもしろかったが、何度も見れば飽きてくる。明日と明後日の帰国便でも見ることになるだろう。バルセロナのスポンサーは2006年のUNICEFが最初で、そのあとカタール財団、カタール航空と続いている。

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 来年度からは楽天のロゴがネイマールのユニフォームに入ることになる。

 FCバルセロナの見学ツアーはネットで予約しなければならないとネット上に書かれていた(と思う)。だからスタジアムを一周して帰るつもりでいたが、当日でも見学ツアーに入ることはできた。

 この日入場は特別に制限されているようだった。ピッチに入れないかもしれないと言われた。どこかのVIPが来ているらしい。(彼らの)視察が終われば問題ないようではあるが、入場料を払ってまで入る価値があるのかどうかを迷った。サン・シーロ・スタジアムではインテル側には入れないと言われたのに続いてである。

 入場料は25ユーロという高さである。15ユーロのサン・シーロ・スタジアムより高いが、入ることにした。

 サン・シーロとは雲泥の差だった。展示物があまりない殺風景なサン・シーロに比べ、カンプ・ノウは、FCバルセロナを誇りに思い応援しようという内容に満ち溢れたものだった。博物館では、FCバルセロナの歴史上の展示物(トロフィーなど)が並んでいた。そういった展示物や掲示をじっくり見ている人は大勢いた。

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FCバルセロナとリバウド、ペップ、ロナウジーニョ、メッシ

 FCバルセロナに注目し始めたのは、2000年頃からである。レアルマドリードやバレンシアに負けていたときである。ゴム人間と呼ばれたリバウドがチームの中心だった。いつも哀し気な顔をした寡黙なブラジル代表はサポーターから批判を浴びていた。

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 レアルマドリードにはジダンをはじめとしたタレントが揃っていたが、ロナウジーニョはまだパリ・サンジェルマンにおり、デコはポルトにいた。勝利のためのパス交換ができるチームメイトにイニエスタはまだ巡り合えていなかった。FCバルセロナにはもう少し時間が必要だった。

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 ポゼッションを完成させるために“ペップ”はやって来た。ジョゼップ・グアルディオラである。ペップは、ジュゼップの愛称である。ペップはFCバルセロナ快進撃のための、パズルの最後のワン・ピースだった。

 名将ペップは、バルセロナ以外を勝たせることはできないという評価を得てしまった。どのチームをも勝たせることができるという、モウリーニョとは異なる表現の評価である。そしてFCバルセロナはペップによって110年を越える歴史のなかで黄金時代を迎えることになった。

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 ロナウジーニョを追い出すように退団させてしまったのは残念でならない。ロナウジーニョとメッシのパス交換をあと2年くらいは見たかった。

 カンプ・ノウにはバルセロナのユニフォームを着ている人たちがいた。FCバルセロナを愛する人たちである。サポーターというのはこういうものなのだ。宝塚歌劇団などにも強烈なファンはいるのだろうが、FCバルセロナは限定された少数ではなく、国境を超えたサポーターがあまねくいる。

 スタジアムの外の建物が博物館やオフィシャルショップになっており、そこからスタジアムに入場できる。

 サン・シーロを見ていたせいか特に感激はなかった。スタジアムはどこも同じである。

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 一方で、FCバルセロナの商魂はすさまじかった。カメラの前でみんな写真撮影をしていた。詳しくは見なかったが、撮影した自分の写真の背景にカンプ・ノウ・スタジアムを合成するなどの加工を施し、最後に購入させるというものである。写真のなかで自分の姿を加工することももちろんできる。何人もが順番を待って写真撮影をしているなかで、そこをスルーしたのは私だけだった。

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 グッズは一様に高かった。1本100円程度のボールペンにキャラクターをプリントし3倍で売るディズニーストアと同じである。

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 スタジアムを出てきたときに思った。そういえばルイス・フィーゴの写真がなかった(見逃しただけかもしれない)。彼はレアルマドリードに移籍した。

 ライバルチームであるインテルとACミランの両方に所属したフットボーラーはいる。ジュゼップ・メアッツァはもちろんバッジョ、セードルフ、ロナウド、イブラヒモビッチなどである。レオナルド(元鹿島アントラーズ)は両チームの監督に就任したことがあるが、それほど批判されなかったように思う。

 FCバルセロナからレアルマドリードに移籍したドリブラーを許せなかったのかもしれない。

 明日FCバルセロナは、乾貴士が所属するSDエイバルと対戦する。スタジアムはカンプ・ノウではなく、遠く離れたバスク州ギプスコア県エイバルにあるエスタディオ・ムニシパル・デ・イルプーアである。

 結果を2日後の、1月23日のドーハ国際空港での乗り継ぎの際に知ることになった。

[1.22 リーガ・エスパニョーラ第19節 エイバル0-4バルセロナ]  ゲキサカ 1/23(月) 6:37配信

 リーガ・エスパニョーラ第19節3日目が22日に開催され、MF乾貴士が所属するエイバルとバルセロナが対戦。前半32分にMFデニス・スアレスのゴールで先制したバルセロナが、後半に3点を加点して4-0の完封勝利を収めた。11試合連続先発出場を果たした乾は後半33分までプレーしたが得点には絡めなかった。

 昨年の12月21日にアンドラからもどった時刻に、カンプ・ノウでスペイン国王杯(Copa del Rey)が行われていた。対戦相手のエルクレスCFは3部(ゼグンダ・ディビジョンB)所属のチームである。FCバルセロナはターンオーバーを行うので、メッシ、ネイマール、スアレス等は出場しないだろうと判断した。高齢化してきたイニエスタも休ませるだろう。その結果がどうなったのかを今も知らない。この日のチケットはそれほど高くはなかった。売れ残っていたかもしれない。

 リーグ・オブ・アイルランドは3月から10月の間しか試合がないことを旅の途中で知った。

 フットボールが行われている土曜か日曜のどこかの街が、旅先であることは思った以上に難しかった。

 カンプ・ノウ・スタジアムを出た。500mほど南にあるバダル駅から地下鉄5号線に乗った。Placa de Sants駅で1号線に乗り換え、ウニベルシタット駅で下車した。
 
 パエリアを食べるためにレストランに入った。なぜかサンミゲルがメニューにあった。

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 レストランに備え付けられていたテレビではフットボールの中継をやっていた。プレミアリーグの映像を流すヨーロッパの国が多いなかで、スペインではもちろんリーガ・エスパ二ョーラ(レアルマドリード対マラガ)の試合が中継されていた。

34日目 2017年1月20日 セント・ジュリアン バルセロナ

すばらしかったマルタを去る

 セント・ジュリアンの海辺のカフェでゆっくりと朝ご飯を食べたかった、フライトは午後なのだから。

 8:30頃、マルコポーロホステルをチェックアウトして、バス停近くのカフェで朝ご飯を食べた。あまりゆっくりというわけにはいかなかった。

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 昨夜ネットでバスの発車時刻を確認していたとき、セント・ジュリアンからマルタ国際空港行きのバスが、異常に時間がかかることを知った。マルタ国際空港からセント・ジュリアンに向かうバスの所要時間は47分である。それでも長いと感じていたのに、セント・ジュリアンからマルタ国際空港まで1時間22分がかかる。空港までの直線距離は10kmほどである。うねうねとあちこちを回遊するのだろう。しかもバスの本数は1時間に1本である。昨日確認しておいてよかった。

 バスX2番 セント・ジュリアン9:47発 → マルタ国際空港11:09着

 バスはスリーマまでの間に多くの空港行きの客を乗せた。途中から乗った人は席に座ることができず、いらいらしただろう。バスに乗るたびに感じていたが、マルタの道路は曲がりくねっており直線道路はほとんどない。道幅は狭い。それに加え、空港行きのバス路線の設定が悪すぎる。あちこち寄りながら迂回に迂回を重ねのろのろと走るのである。東西南北のすべての方向にそれぞれ数回はハンドルを切っただろう。このバスを空港アクセスとするのは無理がある。

 済州島(韓国)を一周するのに19本のバスに乗ったことがあった。マルタで乗車したバスは25本(そのうちゴゾ島では12本)になった。2日目に買った7日間乗り放題チケットは21ユーロである。元を取ったと思うが、得をしたという感じはなかった。


なんてやさしいブエリング航空

 今日のフライトはブエリング航空(Vueling Airline)である。Ctripから予約をした。5,177円。ブエリング航空はLCCであるが、ライアンエアーやイージージェットほど過激な方針を採っていない。その分、航空料金はそれほど安くないといわれている。オンラインチェックインをして印刷した搭乗券をチェックイン・カウンターまで持っていくと、それと引き換えに正式な搭乗券をくれるという噂がある。

 モノは試しである。スマートフォンの画面をチェックイン・カウンターで見せた。噂通りだった。搭乗券をくれた。

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 ブエリング航空のカウンターの隣は、印刷した搭乗券を持っていないと飛行機に乗せないという噂のあるライアンエアーだった。

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 ブエリング航空の出発ゲート前に搭乗券を持っていない人たちが並んでいた。チェックイン・カウンターに並ばないで、直接、保全検査を通過してきた人たちである。

 ブエリング航空のスタッフの手には20枚ほどの搭乗券があった。そしてチェックイン・カウンターに寄らず保全検査を通過してきた人たちに、出発ゲート前で搭乗券を配り始めたのである。つまりチェックイン・カウンターに寄らなかった人たちの搭乗券を印字して持ってきたということである。なんてやさしいブエリング航空。

 しかしこれではオンラインチェックインをさせる目的があやふやになってしまう。

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 VY8745 マルタ13:40発 → バルセロナ15:45着

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雨のバルセロナに到着、ウルバニーホステルにチェックイン

 バルセロナ・プラット空港である。30日前と同じように雨が降っていたが、冷たくはなかった。

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 Aerobusに乗った。カタルーニャ広場まで25分である。料金は往復で10.2ユーロ(片道の場合は5.9ユーロ)。往復のチケットは15日間有効である。

 Aerobus バルセロナ空港16:20発 → ウニベルシタット16:45(頃)着

 バスのなかで、現在位置をグーグルマップで追っていた。宿泊先であるウルバニーホステルの看板をバスのなかから確認できた。カタルーニャ広場まで行くつもりだったが、ウニベルシタット・バス停で下車した。このバス停の北側にはバルセロナ大学がある。

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 バスが走ってきたグラム・ビア・デ・レズ・コルツ・カタラネス通りを南西に200mほどもどったところにウルバニーホステルはあった。多くの部屋がドミトリーであるという点についてはマルコポーロホステルと同じであるが、ウルバニーホステルのほうはやや荒れている感じがした。ファンキーでパンクである。オーストラリアのホステルに多いタイプである。地下にあるバーがその原因になっているのだろう(翌日の0:30頃まで音楽がうるさかった)。管理が中途半端になってくると、ホステルはこうなってしまう。

 1泊11.5ユーロ。2泊の予定である。競争の激しいバルセロナのホステル業界を象徴した料金である(この時期のウクライナやモルドヴァでは宿泊料金は5ユーロまで下がる)。驚いたのは、チェックアウト後の荷物預かりに料金を取ることだ(6時間荷物を預けた場合は3ユーロ)。ホステルの風上にも置けない。

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 リュックを置いて外に出たとき、陽はまだ暮れていなかった。街を歩こうと思ったが、腹が減っていた。クロワッサンの朝ご飯とマルタ国際空港のサンドウィッチしか食べていない。レストランに入ってしまった。これで今日の街歩きはなしということになってしまった。グリルはこの旅初めてである。

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33日目 2017年1月19日 ヴァレッタ ヴィットリオーサ セングレア

ヴァレッタ経由でヴィットリオーサへ

 昨日の気温は18℃だったが、体感温度は10℃を越えたぐらいだった。今日のマルタは暖かい。気温は22℃、体感温度もそんな感じ。

 マルコポーロホステル近くのカフェを出たあと、ヴァレッタ行きのバスに乗った。スリー・シティーズと呼ばれている町に向かう。ヴァレッタの南西側の対岸にある、ヴィットリオーザ、セングレア、コスピークワの3つの町である。セント・ジュリアンからは直接行けない。ヴァレッタ・バスターミナルで乗り換えなければならないのは面倒だが、ヴァレッタはつまらなかったし、他に行きたいところがあるわけではない。

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 バス13番 セント・ジュリアン9:55発 → ヴァレッタ10:30着

 少し前までマルタには古いタイプのボンネットバス(猫バスといわれていた)が走っていたが、ここまで1台も見ていない。すべて新型バスに置き換えられたと思われる。バスは似たような車種の、同じ色で統一されているが、内部まで同じというわけではない。

 バスを乗り換えた。

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ヴィットリオーサを歩いてみた

 バス2番 ヴァレッタ10:35 → Birgu Centre11:08着

 湾をはさんで直線距離で1kmくらいの距離である。バスは8kmくらいの距離を走り、坂になっている広場にあったBirgu Centreバス停で下車した。ここが小さな半島のようになっているヴィットリオーサの地理的中心らしい。

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 石畳の路地には建物が並んでいた。建物はマルタ・ストーンで作られているらしい。どの家も出窓やドアノブで個性を出していた。

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 西側の湾沿いに出てみた。高級なヨットが何隻も係留されていた。 

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 ヴィットリオーサの先端にある聖アンジェロ砦まで歩いてみた。フォート・セント・アンジェロ騎士団の騎士団長の住居となり、要塞として砦が施された場所である。騎士団がマルタを去ったあとは、地中海におけるイギリス海軍本部やNATO6ヶ国連合本部が置かれていた。今でも砦の上層部は騎士団の管轄で、騎士が1人、砦に住んでいるらしい。下層部はマルタ政府の管轄となっているが、修復のため立ち入り禁止になっていた。

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 聖アンジェロ砦からは対岸のヴァレッタが見えた。

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 少しもどってカフェに入った。暖かいので、外の道路脇の席に座ってみた。

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 セングレアまで歩くことはできるが、カフェからバス停までは遠くなかった。さっき下車したBirgu Centreバス停にもどった。セングリアに行くための乗り換えのバス停を、出発の準備をしていたバスドライバーに尋ねてみた。どこでどう乗り換えればよいのかを考えてくれているようだったので、下車したバス停から歩くつもりであることを伝えたら、2つ先のBormlaバス停で下りればよいと教えてくれた。

 バス2番 Birgu Centre13:00 → Bormla13:03着

 ヴァレッタ行きのバス2番に乗って、2つ目のBormlaバス停で下車した。


セングレアを歩いてみた

 ヴァレッタの東南部には湾がある。その湾から4本の埠頭のような半島がヴァレッタのほうに延びている。その1つがヴィットリオーザでありセングレアである。

 4本の指がヴァレッタのほうを向いて並んでいるようなものである。ヴィットリオーザが中指だと仮定すると、中指の真ん中辺りからバスに乗り、手の平のほうに向かい、中指と人差し指の付け根で下車し、そのあと人差し指(セングリア)の爪の先まで歩いていく。そういう予定である。

 バスを下車して、指の付け根から人差し指の先をめざして歩いた。

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 セングリアは古い町だった。住宅街にも店はあったが、ほとんどは開いておらずカフェはなかった。

 途中で城門を潜り、旧市街のなかに入った。

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 人差し指(セングリア)も中指(ヴィットリオーザ)もその幅は狭い。指と指との間は湾になっている。セングリアの東側、ヴィットリオーザの西側はマリーナになっていて大型ヨットが停泊していた。さっきヴィットリオーサ側から見たところである。

 一方、セングリアの西側(人差し指と親指との間)はドッグになっていた。

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 セングリアの先端までは2本の道がある。どちらの道にも人はほとんど見かけなかった。辺りは完全な住宅街で、観光客をまったく見かけなかった。ヴィットリオーザと同じように、建物の特長はその出窓にある。

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 先端は公園になっていた。監視塔ヴェデッテのあるSafe Heaven Gardenである。セングレア唯一の観光スポットである。対岸のヴァレッタとさっき歩いたヴィットリオーザが見えた。

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 カフェを探しながら歩いていたが、ほとんど見当たらなかった。ようやく見つけたアイラ・バスターミナルの近くのカフェでパイを食べた。

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ヴァレッタで

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 バス1番 アイラ14:55発 → ヴァレッタ15:25着

 ヴァレッタにもどってきた。2日前に歩いたところをまた歩いてみた。おもしろくはなかった。

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 ヴァレッタ・バスターミナルでバス13番を待っていたら、目の前をバス16番が通った。1つ先のバス停に停まったバス16番に乗り込んだ。

 バス16番 ヴァレッタ16:20 → ROSS16:57着

 マルコポーロホステルにもどり休んでいたら、寝てしまった。

 21:00前に外に出た。港のほうに続く坂を下った。

 マルタ最後の夜である。レストランでパスタ、グレック・サラダ、カールスバーグ・ビールを注文した。少し離れた席でマルコポーロホステルのスタッフ3人が食べていた。

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32日目 2017年1月18日 セント・ジュリアン イムディーナ ラバト スリーマ

イムディーナ、ラバトへ

 9:00前にマルコポーロホステルを出た。カフェでコーヒーを買って、セント・ジュリアン・バスターミナルでバスを待った。

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 イムディーナに行きたいが、セント・ジュリアン・バスターミナルから直接向かうバス路線はない。ラバト行きのバスがあった。ラバトとイムディーナは近接しているので問題はない。

 バス202番 セント・ジュリアン9:24発 → ラバト10:25着

 バスは島の中央部を南西方向に走った。通過した、大きな町の名前を確認できなかった。

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 車窓に城壁が見えてきた。どうやらイムディーナらしい。

 ここまで来て、ようやくグーグルマップのオフライン機能が動き出した。バスのなかの前面に表示される、次のバス停がサカージジャになった。このバス停がグーグルマップで確認できた。おそらくもっともイムディーナに近いバス停である。


イムディーナを歩いてみた

 サカージジャ・バス停には多くの観光客がいた。

 100mほど歩くと城壁のなかに入る門が見えてきた。メイン・ゲートらしい。厚みのある城壁であることは外からでもわかるが、城門のデザインはいたってシンプルである。

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 メイン・ゲートを抜けると、警察署になっている見張り台があった。機能と役割は現在に継続されているということである。

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 ツーリストインフォメーションで地図をもらった。地図はわかりやすかった、というより町が小さかったというべきだろう。中央の通りであるVILLGAIGNONを少し歩くと右手に大聖堂があり、その横に大聖堂付属博物館があった。最近の教会は、自らの歴史を語る博物館を設け、そこで収入を得ようとする。その際、教会(聖堂)と博物館をセットにして入場料を取る。だから教会にだけ入りたいということは許されなくなっている。礼拝の時間に観光客を入れないなど、教会に来る地元の信者と観光客の区別に教会側が腐心しているのはわからなくはないが、教会に入る人は地元の信者であれ観光客であれ、あくまで教会に入る人なのである。

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 大聖堂からVILLGAIGNONをさらに歩くとフォルツォン邸がある。

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 その北側は展望台のようになっていた。冷たい風が吹いていたが、眺めはよかった。いくつか見える町について近くにいる人たちに尋ねてみたが、誰一人知っている人はいなかった。みんな観光客だった。見える景色が地図上でどの場所に当たるのかといったことに関心がないのだろうか。多くの場所で遠望が効くのはマルタの風景の特長でもあるのだが、そういった場所に、あっちが富士山とかこっちが択捉島とかといった(日本であるような)案内は一切なかった。

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 イムディーナは静謐な町である。ジャイサルメール(インド/ラージャスタン)を思い出した。あるいは西アジアのどこかの隊商都市を思わせた。多くの人が来てよかったと思うだろう。ヴェレッタよりはいい。

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ラバトを歩いてみた

 イムディーナは城壁の町であるが、ラバトは地下墓地(カタコンブ)の町である。2つの町は200mほどしか離れておらず、ラバトの聖パウロ教会もイムディーナから500mほどの距離にあった。

 聖パウロ教会の前のカフェで、朝ご飯メニューの昼ご飯。

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 何度か修復されたらしいファザードの聖パウロ教会は閉まっていた。教会の横にある聖パウロの洞窟を見ることはできた。それは単なる洞窟だった。最初そこを聖パウロの地下墓地と勘違いしてしまった。洞窟の上は美術館になっていた。

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 聖パウロの地下墓地は少し離れたところにあった。地下墓地の町ラバトで一番大きいだけでなく、マルタで一番大きな地下墓地がここである。階段を下りたところにある、埋葬の際に会葬者がお別れの食事をしたといわれるアガベ・テーブルが残っている。

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 聖パウロの洞窟も聖パウロの地下墓地も迷路になっていて、ちょっとした地下探検の雰囲気を味わうことはできる。あくまでちょっとだけなのだけれど。

 聖アガサの礼拝堂と地下墓地にも行ってみた。公開されている1室は閉まったままだった。

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 バスターミナルに向かう途中にあったカフェでアメリカーノ、そしてカプチーノ。2杯目のカプチーノの料金を負けてくれた。流れているのはギリシャ音楽のようだった。尋ねてみると、スペインのポップスだった。

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 セント・ジュリアンにもどるつもりだったが、バス202番はセント・ジュリアン・バスターミナルのもっと先まで行く。スリーマにある、ヴァレッタに渡る船が出ているFerriesバス停まで乗っていくことにした。車窓にヴァレッタの町が見えたところで下車した。終点の1つ手前のゼリー(Xerri)バス停だった。

 バス202番 ラバト15:00発 → ゼリー16:11着


スリーマからセント・ジュリアンまで歩いてみた

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 セント・ジュリアンまで歩くことにした。

 スリーマは海岸沿いのリゾートである。セント・ジュリアンがディスコやパブなどが多いので騒がしく雑然とした印象があるのに対し、スリーマはきれいで大きなレストランやカフェが多い。ホテル、土産物屋、スーパーマーケットなども立ち並んでいる。ショッピングが楽しい場所は観光客が集う健全な場所である。

 ヴァレッタを見ることができるゼリー・バス停から坂道(タワーロード)を歩いて北側の海岸沿いに出た。

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 そこから海沿いを30分ほど歩いた。3つ星、2つ星ホテルが並んでいる場所があった。

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 2つ目の湾の手前にアワー・レディー・オブ・マウント・カーメル教会があった。

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 スピノーラ湾が見えてきた。セント・ジュリアンに着いた。

 マルコポーロホステルにもどり、少し休憩した。

 軽食中心のイタリア料理店を見つけた。夜ご飯はラザニアとポテト。マルタにイタリア料理店は多く、メニューには英語とイタリア語が併記されていた。

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 昨日入ったバーにまたやって来た。昨日は、Farons Double Red Strong Aleを飲んだ。今日は同じ系統のFarons Double Red Strong Ale。1週間セント・ジュリアンに滞在したら、毎日ここにやって来て冷蔵庫のビールを上から順に飲んでいくだろう。

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31日目 2017年1月17日 ゴゾ島(マルサルフォルン イムジャール) セント・ジュリアン ヴァレッタ

ナドゥールを経由してイムジャールへ

 9:30前、ランタンゲストハウスをチェックアウトした。徒歩1分のマルサンフォルン・バス停で待っている人はいなかった。

 バス322番 マルサルフォルン9:40発 → Vapur(=チュルケウア)10:18着

 バスはシャーラを通った。2日前に見た教会とジュガンティーヤ神殿の入り口の前を通過した。

 バスの目的地は島の南東であるが、シャーラからは一度北に向かった。道がその方向にしかなかったからである。狭い道は悪路といってよかった。島の北にあるラムラ湾にかなり近づいたが、南に方向を変えた。そこで道は少しよくなった。

 バスがナドゥールを通ることを知っていた。昨日チタダルから見えた教会のある町である。バスが町中に入ったとき、下車するかどうかを決めようと思っていた。バスはナドゥールの、教会の周辺を周っただけだった。遠くから見えていた教会は町のなかに入ったバスの車窓には現れなかった。道路の両側にカフェは1軒もなかった。ナドゥールで朝ご飯を食べてからゴゾ島を出ようと思っていたが、下車しないことにした。

 ナドゥールを過ぎると海が見えた。バスは丘陵地帯をゆっくり下っていった。イムジャールの町が見えてきた。対岸のチェルケウアを出たゴゾフェリーがイムジャール港に近づいているのが見えた。

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 バスを下車してイムジャールを歩いてみることした。坂を上って丘陵地帯の途中にある教会に向かった。なかには入れなかった。

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 教会から下りてくるとき、ゴゾフェリーは埠頭を周り入港しようとしていた。ゴゾフェリーは1時間に1本程度出航しているので、この船に乗れなくても次ぎの船に乗ればよい。

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 イムジャールの町はあまりに小さかった。教会を除けば、フェリーターミナルぐらいしか見るものはなかった。港の近くの小さく廃れたカフェやレストランはことごとく閉まっていた。スーパーマーケットで水のボトルを買った。なんと0.2ユーロの安さ。

 イムジャールで行くところがなく食べるところもないので、フェリーターミナルに向かった。ゴゾフェリーはまだ停泊していた。すぐ出航だよ急いで、と港湾スタッフに急かされた。慌てて乗船した。

 船酔いの危険性はあるが、チェルケウアまでの航行時間は30分である。大丈夫だろうと、ハムチーズサンドを買った。想像以上の大きさだった。

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 ゴゾフェリー イムジャール11:00発 → チェルケウア11:30(頃)着


すばらしかったゴゾ島、(私のなかの)世界の島のベスト5内にランクイン

 ゴゾ島はすばらしかった。もう2、3泊しても楽しめただろう。しかしあえて書いておく。私の旅先の1位はギリシャである。それは絶対的1位であって、どの国にいってもギリシャのポジションは揺るがない。島にたいしても同じである。私の、世界の島のベスト10を並べれば、10位のなかにギリシャの島が10入る。ベスト20を挙げれば、15はギリシャの島が並ぶ。

 ゴゾ島はベスト5に入った。入ってしまったのである。ゆるやかな起伏のある丘陵地帯の遠望はギリシャにはなかった。ギリシャの島のほとんどはもっと切り立っていた。ゴゾ島の遠望の奥にはいつも薄く青い地中海があった。

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ギリシャを思う

 一方、町のなかに身を置けば、退屈であることを感じてしまう。カフェはつまらなかった。

 ギリシャのカフェでは音楽が流れていた。知らない、古いギリシャ音楽を大きめの音量で聴くことはギリシャのカフェの楽しみの1つである。陽気な古いメロディはいつも物哀しかった。そこにはいつもエーゲ海の深い青があった。

 エーゲ海は21世紀の人々が、今なお扱いかねている民主主義という政治システムを生んだ知性の海である。近代文明は多くの分野でギリシャを源としている。世界の大文明の多くが今日の世界に何も残さないまま歴史のなかに消えてしまったことは書いておいていいだろう。経済破綻をきっかけに軽蔑の対象となってしまったこの国に敬意を払い続けているのは100年の一度のオリンピックをギリシャで開催することを確約しているIOCとその文明の後継者を自認するフランスぐらいのものである。世界はもうちょっとギリシャに注目してよい。

 ギリシャのカフェでもっともよく聴くのが♪日曜はだめよ♪である。5軒のカフェに入れば、1回は聴くことになるだろう。

 こんなことを書き始めると、ゴゾ島とマルタではギリシャを抜くことは到底できない、と思い直してしまう。そして少し安心するのだ。


チャルケウアからセント・ジュリアンへ

 イムジャールはゴゾ島の場末感のある港町なのにたいし、チェルケウアはマルタ島の、殺風景なフェリーターミナルのある埠頭である。防波堤を乗り越える高い波しぶきがバスの頭上を襲っていた。

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 バスでセント・ジュリアンまで行くことにする。

 222番バス チェルケウア11:55発 → セント・ジュリアン12:53着


マルコポーロホステルに帰って来た

 3日前に宿泊したマルコポーロホステルにチェックインした。レセプションで対応してくれた若いスタッフは私のことを覚えていた。この人はゴゾ島のヴィクトリアに親戚がいる。3日前にゴゾ島の見どころを教えてくれた人である。

 別のスタッフが前と同じキャビン(←マルコポーロホステルでは部屋のことをそう呼んでいる)の同じベッドにしてくれた。各ベッドにはカーテンが付いており(そういうタイプのドミトリーは増えている)、ちょっとしたカプセルホテル風ではある。


首都ヴァレッタを歩いてみた

 リュックを置いて外に出た。セント・ジュリアン・バスターミナルからバスに乗った。ヴァレッタ行きのバスは13番、16番、225番、N5番があるが、13番は日中ほぼ10分おき、16番は1時間に3本の運行がある。13番か16番に乗ればよいということになる。

 バス13番 セント・ジュリアン13:45発 → ヴァレッタ14:20着

 直線距離で、ヴァレッタまでは遠くないが、バスは湾岸を走った。景色はよいが、時間がかかり過ぎた。ヴァレッタまでの所要時間は約35分。途中にスリーマを通った。遊歩道のあるリゾートであるが、想像したほどリゾートっぽくはなかった。

 ヴァレッタはマルタの首都で、ヴァレッタ・バスターミナルはマルタ(島)のへそである。マルタ島のほとんどのバスがここに集結し散っていく。

 マルタの歴史は古い。フェニキア人の支配を受けた。カルタゴの支配を受けた。アラブ人の侵攻を受けイスラム帝国の支配下にあった。スペインの支配下にも入った。

 その後ヨハネ騎士団の支配下に入りオスマン帝国を撃退した。この辺りからが、今のマルタの歴史につながってくる。ヴァレッタ観光はこういった歴史を見ることでもある。

 バスターミナルからまっすぐ延びるリパブリック通りを歩いた。商店、レストラン、カフェなどが通りの両側に並んでいる。雰囲気はドブロブニクに似ていなくもないが、華やかさでは一段劣る。全体の色は地味に抑えられている。光沢がないといっていいかもしれない。この通りは小さな半島の突端にある国立戦争博物館まで続くヴァレッタのメインストリートである。

 入口にあるシンプルなデザインのシティ・ゲート(城門)を潜って右(南東)に少し行ったところに聖母ヴィクトリア教会があった。ヴァレッタの町とともに造られた、もっとも古い教会である。

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 近くにオーベルジュ・ドゥ・カスティーユがあった。現在は首相官邸になっている。騎士団の宿泊所であった建物である。随分立派な宿泊所だと思ったが、ファザードはバロック様式に改装されたらしい。

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 リパブリック通りにもどり、奥のほうに歩いた。

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 聖ヨハネ大聖堂に入った。守護聖人ヨハネに捧げられた教会である。外観は地味だったが、内部は豪華だった。今まで見てきたマルタの教会はどこもこのパターンだ。ここがヴァレッタ一の見どころだということは入ってすぐにわかった。天井には聖ヨハネの生涯が描かれている。最後はヨハネの斬首で終わっている。内部は、各宗派(騎士の言語別)によって礼拝堂が異なる。それぞれに異なる装飾であるが、豪華なことに変わりはない。床下が墓碑になっているらしいが、閉鎖されていた。

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 内部ではオーディオ・ガイドの説明を聞いていた。聖ヨハネ大聖堂美術館は撮影中止だった。

 聖ヨハネ大聖堂の裏側に国立図書館があった。図書館の北側を通っているオールド・シアター通りとリパブリック通りの交差するところにパレス広場があった。

 パレス広場の前にあるのは騎士団長の宮殿である。入場できる時刻を少し過ぎてしまっていた。

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 ヴァレッタに着いたときには降っていなかった雨が強くなってきた。

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 オールド・シアター通りを東北方向に進むとマニエル劇場があり、さらにその先にカーマライト教会があった。カーマライト教会だけは入館可能時間のはずだったが、入り口には鍵がかかっていた。

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 リパブリック通りにもどり先まで歩いてみた。坂を下った。この辺りは地味な普通の通りである。

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 リパブリック通りの先端にあるのは国立戦争博物館と聖エルモ砦である。

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 吉田拓郎の『サマルカンド・ブルー』の歌詞のなかに、♪遥かにゆらいだセントエルモの灯♪というフレーズがある。聖エルモの火とは、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象をいう。海の見えるヴァレッタに聖エルモ砦があるのはわかるが、内陸のサマルカンドに♪セントエルモの灯♪があることのほうが理解しにくい。作詞者は安井かずみである。

 ビュッフェのようなトルコ系レストランでカレー風味のコロッケ。シティ・ゲートの近くまで移動してバーガーキングのコーヒー。

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 夕暮れのヴァレッタ・バスターミナルからバスに乗った。

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セント・ジュリアンで

 バス13番 ヴァレッタ18:15発 → ROSS18:49着

 セント・ジュリアン・バスターミナルの、1つ手前のROSSバス停で下車した。このバス停のほうがマルコポーロホステルに近いことがわかった。

 すっかり夜になっていた。

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 バーに入ってみた。冷蔵庫から勝手に好きなのを出してきて飲みな、という感じの、気楽なバーである。今までチスクしか飲んでいなかったが、Farons Double Red Strong Aleもローカルビールだという。2ユーロ。

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 コンビニエンスストアでサラダとパンを買ってきてマルコポーロホステルで食べた。

30日目 2017年1月16日 ゴゾ島(マルサンフォルン ヴィクトリア タピーヌ教会 ガルブ)

ヴィクトリアへ

 昨夜は寒かった。深夜停電になったが、朝は晴れていた。昨日の朝も雨だったが、昼以降に晴れてきた。部屋のなかでぐずぐずしていて、8:50のヴィクトリア行きのバスには乗れそうになかった。次のバスは1時間後である。

 バスでヴィクトリアに移動した。

 バス310番 マルサルフォルン9:50発 → ヴィクトリア9:58着


チタダルの城壁からの眺望はすばらしかった

 ヴィクトリア・バスターミナル近くのカフェに入った。朝ご飯のメニューについて尋ねたら、イングリッシュ・ブレックファストはある、と返ってきた。イギリスのインゲン豆を甘辛いソースで調理したベイクドビーンズに大きな特徴がある。もっとも今のイギリス人がいつも食べているわけではない。

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 昨日アズール・ウィンドーへのバスの待ち時間の間に通ったところを歩きながらチタダル(大城塞)に向かった。ヴィクトリアのへそである。

 チタダルに入る手前にビジターセンターが設けられていた。世界遺産に登録されたあとに設けられたようである。展示物はなかった。映像を通してチタダルの意味などを解説していた。

 ビジターセンターからチタダルに入ることができた(ビジターセンターを経由しないでもチタダルに入れる)。チタダルは1693年の地震で崩壊し、そのあと再建されたらしい。おそらくそのあとも修復されたようである。多くのところで新しさが目立った。

 チタダルは16世紀に聖ヨハネ騎士団によって要塞化された。当時のゴゾ市民が要塞内で過ごすのは義務だった。あえて書いておくが、ヨハネ騎士団であって、マルタ騎士団ではない。マルタ騎士団国はローマにある。そこはマルタ騎士団国として多くの国が承認し、国連のオブザーバーにもなっている。マルタはマルタ騎士団国ではなく、マルタ共和国である。この辺りの事情がどうなっているのかを知らない。

 チタダルの城壁に上る手前にあった大聖堂に入った。天井にドームが載るはずだったのが、資金不足で取りやめになったらしい。内部の正面は普通のゴチックである。色を多く使い過ぎているように思う。天井がドームのように見えるのは「だまし絵」で、そのことを知った上で天井を見ると、天井がそれほど高くないことがわかる。遠近法を利用してドームに絵が描かれているように見せている。

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 考古学博物館、民族博物館などもあるのだが、見どころは城塞からの360度の展望である。ゴゾ島の地形は起伏に富んでいる。高い山があるわけではないが、完全な平地は多くない。なだらかな丘陵地帯があちこちにあり、起伏のもっとも高い場所に教会がある。周辺に町や村が形成されている。

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 ランタンゲストハウスのあるマルサルフォルンが小さく見えた。手前の丘にかすかにキリスト像も確認できた。北の方角である。

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 そこからやや右寄りにシャーラの町が広がって見えた。昨日ジュガンティーヤ神殿を見たあとに歩いた町である。その右、ほぼ東にあるのはナドゥールかもしれない。近くにいた人に確認してしみたが、よく知らなかった。

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 西北にも教会のある町があった。タピーヌ教会かもしれないが、違うかもしれない。

 チタダルを出た。もう少し街中を歩いてみた。チタダルの城壁から見ていた教会の前に立ってみたが、それほど大きくはなかった。


タピーヌ教会へ

 ヴィクトリア・バスターミナルからタピーヌ教会を見に行くことにした。

 バス308番 ヴィクトリア12:55発 ピーヌ13:04着

 10分ほど走ったとき、教会は突然バスの前に出現した。町のまんなかではない、畑のなかに教会はあった。下車すると同時に雨が降ってきた。数十m先の教会にたどり着けないほどの強い雨だった。近くに電話ボックスがあったので避難した。雨は雹に変わった。音を立て地表を叩いていた。10分ほど経ち雹が少しおさまったときに、教会に駆け込んだ。

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 教会は工事の真っ最中で、入り口の前には数台の工事用車両が止めてあった。教会を見に来ている人は1人もなかった。なかに入ることはできた。平凡な小さな教会だった。農夫がマリア様の声を聞いたという教会である。周辺で流行った疫病がここでは流行らなかった。奇跡の評判は口コミで広がり、国内外からも多くの巡礼者が訪れるようになった。ローマ法王も訪問したらしい。

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 外に出てきたとき、天気は回復していた。青空が見えていた。「晴れ・ときどき曇り・ときどき雨」ではない。冬のマルタの天候は「晴れ・急に曇り・急に雨・また晴れ」である。青空と雨とは天空で同居する。荒れるのがこの時期のマルタの天候なのかもしれない。

 ピーヌ・バス停はガースリ(Ghasri)の5つ手前であるようだ。ガースリまで歩こうかと思ったが、タピーヌ教会からは別の町と教会が見えていた。2つの町を遠望してみて、もう1つの町のほうがおもしろそうだった。その町がガルブ(Gharb)であることを工事関係者に確かめた。ガルブの方角に歩きだした。


ガルブを歩いてみた

 まずヴィクトリアのほうに少しもどらなければならない。バス308番で通ってみた道路をもどるように歩き始めたが、その先にガルブがあるわけではない。その道路の北側にガルブはある。道路とガルブの間には丘陵の底の部分があり、そこは畑になっている。畑はいくつもの段々畑で、一度低いところまで下りて向こう側に上がることができればおそらく1kmぐらいをショートカットできそうである。

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 歩いてきたうしろでタピーヌ教会が遠ざかっていった。

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 畑のなかに入っていくあぜ道があった。歩いてみたが、途切れていた。次のあぜ道も似たような状態だった。

 タピーヌ教会から500mほど歩いたところで入った畑のなかのあぜ道は雨水がたっぷり溜まっていた。そこを50mくらい通り抜けることができれば、ガルブの住宅街に入ることができそうだった。防水・防寒対策をしているブーツ系の靴でよかった。靴はたっぷりと水に濡れ洗濯したようにきれいになった。

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 遠ざかっていたタピーヌ教会がまた近くに見え始めた。この教会を、角度を変えて見ることになった。

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 住宅街を歩き、ヴィクトリアと結ぶバス路線にたどり着いた。そこはバス312番の路線だけではなく、311番も通過するところだった。バス311番は昨日アズール・ウィンドーに行ったときに乗ったバスである。

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 そこから少し歩いたところにあったバス停には312番だけになった。

 道路の奥に見えていたガルブの教会が姿を現した。

 教会の周辺にはカフェがいくつかはあるのだろう。そこでコーヒーでも飲もうという目論見は外れた。

 町には人っ子一人おらず、ときおり車が通り抜けるだけだった。教会の周りにカフェとレストランはあったが、すべて閉まっていた。町に響くのは車の走行音だけだった。いくつもの小説のなかで辻邦夫が書いた、淋しいフランスの田舎のようだった。

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 町を歩いてみたが、あまり変わり映えはしなかった。寒いだけでやることがない。バスの時刻を確かめ、バスを待った。

バス312番 ガルブ14:17発 → ヴィクトリア14:32着


ヴィクトリアで

 ヴィクトリアでカフェに入った。ホームメイド・ハンバーガーという名の、あまりにも普通のハンバーガーを食べた。カフェやレストランのメニューに、ホームメイドという言葉は実に多く使われている。

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 カフェを出たら雨になっていた。歩けないわけではないが、わりと強い。もう少し留まることにした。もう一杯コーヒーを飲んだ。雨脚が弱くなったところでカフェを出た。ヴィクトリアが少しつまらなく見えた。最初感激した町でも歩き続ければ目が慣れてしまう。


マルサルフォルンにもどった

 バス310番 ヴィクトリア16:30発 → マルサルフォルン16:41着

 陽はまだあった。マルサルフォルンの湾の西側を歩いてみた。湾の西側にカフェやレストランはまったくなかった。その内側に入ってみたが、住宅が並んでいるだけである。ところどころの部屋にはレンタルの文字がある。リゾート向けに部屋を貸しているのだろう。

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 夏は賑わうのだろうが、冬のマルサンフォルンはカフェもレストランも閉じたままのところが多く、湾の西側に店を一軒も見つけることができなかった。マルサルフォルンには商店が一軒もなく、水のボトルでさえカフェ以外で買うことができなかった。

 ランタンゲストハウスにもどって少し休憩をした。

 夜ご飯を食べるために外に出た。CISKを飲み、コスクスを食べた。粒のようなパスタに野菜、肉と炊いた料理である。見た目はピラフである。

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 そのあと、夜のマルサルフォルンを少し歩いてみた。

 そしてランタンゲストハウスにもどり写真の整理をしていたとき、コスクスよりあとに撮った数枚の写真を削除してしまった。

29日目 2017年1月15日 セント・ジュリアン ゴゾ島(イムジャール マルサルフォルン ヴィクトリア アズール・ウィンドー シャーラ)

バスとフェリーでゴゾ島へ

 8:40頃、マルコポーロホステルをチェックアウトした。セント・ジュリアン・バスターミナルまでは徒歩2分である。

 バスターミナルなのだからバスオフィスはあるのだろう。昨日、バスのなかで買えなかった7日間乗り放題チケットを買いたい。周辺を一通り歩いてみたが、それらしいオフィスはなかった。尋ねた人は、向こう側にあると目の前の建物の奥を指した。そこに行ってみたが、それらしいものはなかった。バスのなかで買えるという人がいたが、コンビニエンスストアで売っているので案内するという人がいた。

 コンビニエンスストアで7日間乗り放題チケットを買った。21ユーロ。ゴソ島で使えるし、深夜便(深夜はバス料金が上がる)にも乗れる。1年間有効で12回乗れるというチケットもあった。

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 マルタ攻略戦の半分は整った。バスマップがないのでバスがどこをどう通っているのかはネットでざっと確認してみたが、細かいところまではわからない。とりあえず今日の目的地に向けて出発である。

 バスはすぐにやって来た。

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 バス222番 セント・ジュリアン9:24発 → チュルケウア10:20着

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 バスは10分ほど早く着いた。チュルケウアはマルタ島の北の端の港である。ここからゴゾ島へのフェリーが出ている。バスを下りたところで、ホップオンホップオフバスの営業が寄ってきた。この業者はしつこくフェリーのなかでも何度も営業をかけてきた。

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 ゴゾフェリー チェルケウア10:30発 → イムジャール11:00(頃)着

 大勢の人が乗っていたフェリーはかなり年季の入った古い船だった。甲板はでこぼこに波打っており雨水や海水があちこちにたまっていた。

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ゴゾ島到着 イムジャールからヴィクトリアへ

 30分ほどでゴゾ島のイムジャールに着いた。イムジャールは港町であるが、大きくはないようだ。

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 宿泊予定のランタンゲストハウスから来ていたメールには、イムジャールから322番のバスに乗れば、直接マルサンフォルンに着くと書かれていたが、322番バスの発車時刻まで1時間以上あった。島の中心であるヴィクトリアに向かうことにした。

 バス301番 Vapur(=イムジャール)11:08発 → ヴィクトリア11:21着

 バスのドライバーにバスマップをほしいと言ってみた。ヴィクトリアでもらえるという回答だった。

 ヴィクトリア・バスターミナルでようやくバスマップを手に入れた。バスマップと7日間乗り放題チケットを合わせると、マルタで行けない場所はない。

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マルサルフォルンのランタンゲストハウスにチェックイン

 ヴィクトリアからマルサルフォルンに向かった。マルサルフォルンまでは4kmほどである。景色を見ながら歩くこともできるのだが、7日間乗り放題チケットを持っている。

 バス310番 ヴィクトリア11:30発 → マルサンフォルン11:41着

 バスがマルサルフォルンの町を走っていたとき、ランタンゲストハウスの看板が見えた。そこで下車した人に続いて下りたが、そこはバス停ではなかった。マルサンフォルンの中心でたまたま下りる人がいたというだけだった。バス停はそのすぐ先にあった。

 ランタンゲストハウスのチェックイン・タイムは13:30であるが、12:00前にチェックインさせてもらった。トイレ、シャワー付きの個室である。1泊28ユーロで2泊する。ヴィクトリアで泊まりたかったが、島の中心に安い料金の宿泊施設はなかった。島にホステルがあるのかどうかは疑わしい。

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 部屋を出て、マルサルフォルンの町に出てみた。海まで1分だった。

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 朝から何も食べてなかった。ヴィクトリア行きのバスの時刻を確かめてあった。小さなカフェで、20分で出せるものを食べたいと言ってみた。トーストになった。

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 バス310番 マルサンフォルン12:50発 → ヴィクトリア13:56着

 ヴィクトリアはゴゾ島の中心である。ここからほとんどのバスが出発し、もどってくる。アズール・ウィンドー方面に行くバスの発車時刻まで20分ほどあったので町を歩いてみた。

 チタダルのほうに歩いた。坂を上ったところが町の中心のようだ。横道、裏道に入ってみた。もう少し歩こうかどうかを迷ったがヴィクトリア・バスターミナルにもどってきた。町を歩く時間はまだまだある。

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アズール・ウィンドーへ

 バス311番 ヴィクトリア13:20発 → Dwejra13:32着

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 終点で下りて少し歩くのかと思ったら、Dwejraバス停は海岸の近くにあった。

 風と波が作り出したアーチがアズール・ウィンドーだ。

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 アジュール(フランス語/azur)、アズール(ポルトガル語/azul)、アズール(スペイン語/azur)は「青」という意味である。「青の窓」は陽が当たるときはうつくしさが映えるが、陽が陰れば荒涼とした景色に変貌する。多くの観光客がいた。

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 アーチの手前のブルーホールはダイビングポイントである、もちろん夏の話である。アーチの上部に人が何人かいた。そこまで行こうと斜面を上ったが、途中縄で張られていた。彼らは立ち入り禁止区域のなかに入っていた。

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 島の見どころを巡回するホップオンホップオフバスもやってきた。

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 風を避ける場所がなかった。手をべとべとにしながら巨大アイスクリームを食べた。

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 1時間に1本あるバス311番に乗った。

 バス311番 Dwejra14:38発 → ヴィクトリア14:49着

 ヴィクトリアを歩くつもりでいたが、バス311番を下りたすぐ近くにバス307番が止まっていた。シャーラに行け、ということなのだろう。ヴィクトリアを明日歩くことにして、シャーラを選択した。


ジュガンティーヤ神殿とシャーラ

 バス307番 ヴィクトリア15:05発 → シャーラ15:15着

 シャーラ・バス停で下車した。下りたところにあった観光地図を見ていると、フランス人の2人組が、こっちだよと声を掛けてくれた。パリから来た2人組の男で、遺跡のあるところを中心に歩いているらしい。ヨーロッパのほとんどの遺跡には行ったらしい。テレビの仕事をしている人たちだった。

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 発掘の解説をしてあるビジターセンターを抜けたところにあったジュガンティーヤ神殿は素朴なものだった。仕方がない、なんといっても紀元前40世紀である。エジプトのピラミッドより古い。

 祭事のために建造されたと考えられるそうであるが、そうだろうと思う。建築方法は謎のようだ。ジュガンティーヤは、マルタ語で「巨人の塔」という意味である。巨人女性サンスーナが建造したらしいが、伝説はどこかの時代で後付けされたものなのだろう。のちのどの時代においても、当時の建築方法がわからなかったので、そういうことにしておいたのではないだろうか。エジプトのピラミッドほどに精巧ではなかった。巨人が、巨石を動かし組み合わせ造ったかのようだった。

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 ジュガンティーヤ神殿から見えた風景はすばらしかった。

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 シャーラの町を歩いてみた。今日が日曜日だということもあり休んでいるカフェや店があった。仮にそれらが開いていたとしてもシャーラは静かな町だろう。

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 バス停は町のなかでに3、4ヶ所あった。そのうちの1つのバス停でヴィクトリア行きの時刻を確かめたあと、バス停前のカフェに入った。

 発車時刻の2、3分前にカフェを出て、バス停でバスを待っていた。バスはさっき行ったよ、と近くの人が教えてくれた。時間には間に合っているのだが、こういうこともあるのだ。ヴィクトリアで夜ご飯を食べようと思っていたが、それを止め、ランタンゲストハウスのあるマルサルフォンに行くことにした。昼前にフェリーで着いたイムジャール発のバス322番がシャーラを経由してマルサルフォルンに行くことを知っていた。

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 困っているのかと話しかけてくれたおじいさんが、マルサルフォンに行くバス停まで案内してくれた。マルサルフォルン行きの待ち時間は15分だった。

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 バス322番 シャーラ16:48発 → マルサンフォルン17:01着


マルサルフォルンで夜ご飯

 バスがマルサルフォルンに入る前に、マルサルフォルンの町を見渡せるところを通過した。慌てて降車ボタンを押したが、バスはそのまま終点のマルサルフォルン・バス停まで行ってしまった。

 終点で下車したあと、坂を上り絶景ポイントにもどってみた。

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 遠くの岩山の上にキリスト像が小さく見えた。

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 夕暮れのさびしいマルサルフォルンの街が見渡せた。

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 夜ご飯はマルサルフォルンの海沿いのレストランで食べた。ハワイアンピザとサラダ。そして昨日も飲んだチスク(ビール)。

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 美しい風景を見ることができた1日になった。明日は今日以上のすばらしい風景が待っている予感がした。

28日目 2017年1月14日 ラルナカ アテネ セント・ジュリアン(マルタ) 

オニシロスホテルをチェックアウト ラルナカ国際空港へ

 8:30にオニシロスホテルをチェックアウトした。ジョージは私によくしてくれた。彼の部下もよい人だった。3泊目は同室に他の宿泊客を入れなかった。ベッド2台のドミトリーは個室になった。しかしホテルの老朽化は否めず、部屋の窓に鍵はなく、部屋のトイレの戸は閉まらず、狭いシャワー室で体を動かすことができず、時間制限のあったシャワーには水と湯が混ざり、8:00前のチェックアウトは事実上できなかった。ブッキングドットコムにコメントを書いてくれと言われたが、どう書けばよいのか。

 イタリアで6つのホステルに泊まった。そのうち3つからは、ブッキングドットコムにコメントを入れてほしいというメールが届いていた(ブッキングドットコムを経由しない直接のメールである)。そのうちの1ヶ所(民泊)は、あなたをもてなすことの(崇高とも思える)意味について触れていた。メールはイタリア語で届けられた。翻訳サイトで日本語訳と英語訳を試みたら、そういう内容のことが書かれていた。ヨーロッパのホステルは営業努力に忙しい。

 今日は曇っている。ほんのりと寒い土曜日である。海岸沿いのアシノン大通りを北に向けて歩いた。ラルナカ空港行きのバスはレフコシア行きのバスの発着するバス停と同じである。

 空港行きのバスに乗った。土日は各所で運行本数の減るキプロスのバスであるが、空港行きのバスだけは月~金曜日と変わらずに動いている。

 空港が近いのは島のよいところである。

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アテネまでエミレーツ航空

 ラルナカ(市内)9:00 → ラルナカ国際空港9:20

 キプロスにはもう少しいたかったが、2、3日後にマルタに向かうLCCを探すことができなかった。マルタへの直行便の料金は高かった。アテネかローマで乗り継いだほうが安かった。

 ローマよりはアテネのほうがよい。ギリシャは私の好きな旅先の、永遠の1位であるが、今回はそういうこととは関係がない。ローマを乗り換えにした場合、選択する航空会社によっては空港移動を強いられる。ライアンエアーやイージージェットはレオナルド・ダ・ヴィンチ空港ではなくチャンピーノ空港の発着になっていた。国際空港が1つしかなく、空港のターミナルが1つしかないアテネのほうがいい。スリー・レター・コード[ATN]はメリットである。

 検索を繰り返しているなかで引っかかってきたのはLCCではなかった。エミレーツ航空である。同区間を就航している4社の料金はあまり変わらなかった。エミレーツ航空にしたのは乗り継ぎ時間が理想的だったからである。ラルナカ、アテネ間の料金は7,242円である。

 エミレーツ航空でのチェックイン、出国審査、保全検査はスムーズだった。ライアンエアーやイージージェットの場合、リュックのなかにすべてを詰め込み、チェックイン時の荷物を1個にして機内に持ち込む必要があるが(保全検査のあとに分離する)、エミレーツ航空のチェックイン・カウンターでは荷物が2個のまま通過できる(これが普通である)。機内預かりにしてもらうことはできるが、そうしない理由は万が一の遅延への対応である。

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 パッキングは私の強みである。ライアンエアーやイージージェットの指定するサイズに合う大きさのリュックに、すべてを収めることができるようにしておき、合計の重さを10kg未満に設定しておくと、おそらくすべてのLCCに対応できる。リュックはスーツケースとは異なり、少し形状を変えることができるので、各航空会社のカウンターに用意されているカゴに収めることができる。荷物の分離・合体を、乗り換え時間の長短、空港着の時間帯に合わせ対応していくことで、全体としてのロスト・バゲッジの確率を下げ、空港内での機動性を確保することができる。「荷物の合体ロボ化」である。

 EK107 ラルナカ12:05発 → アテネ13:50着 

 EK107便の座席には、USBだけでなくマルチコンセントが付いていた。さすがエミレーツ航空。B777-300(機種にはまったく興味がない)に乗ったのは30人ほどである。

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 EK107便は15分早くゲートを離れた。困った、これではアテネに早く着いてしまう。乗機と同時に、17本あった日本映画のなかで映画『64ーロクヨンー前編』(主演/佐藤浩市)を選んだ。121分の上映時間の、エンドロールをカットしても115分ほどある映画を、フライト時間の105分で観切るためには早送りが必要になってくる。映画は緊迫感にあふれるものでうかつに「早送り」ができなかった。「早送り」を停めるポイントはもっとわからなかった。

 頻繁に画面に侵入し映画をストップさせる、エミレーツ航空のアナウンスをかいくぐり、適度に「早送り」してなんとか映画の終わりにたどり着いた。映画が終わったのはアテネ国際空港着陸の瞬間だった。
  
 正式名称がエレフテリオス・ヴェ二ゼロス国際空港であるアテネ国際空港に着いた。入国スタンプを押されてしまった。入国から出国までの時間は1時間ほどなのに、何をしに来たのだと問われそうである。


ライアンエアーはいつもオンタイム!

 1階の到着フロアから2階の出発フロアに上がった。

 アテネでは悪名高いライアンエアーが絶好の時間で待ち構えていた。3時間15分の待ち合わせは、2時間の遅延を吸収できる。待ち時間が長すぎると考える人はいるだろうが、72時間の遅延を経験したことがある私にはちょうどよい。

 ライアンエアーのカウンターはすぐに見つかった。悪名高きライアンエアーにもよいところがある。カウンターには「荷物のドロップオフ」と表示された列がある。どんどん人が進む列である。直接、保全検査に行ってもいいが、荷物を1つにまとめ並んでみた。1時間早いと言われた。その前のブカレスト行きのチェックインをやっていた。

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 到着フロアのカフェでアメリカーノを注文した。2.2ユーロの価格にたいし2.5ユーロを渡したが、おつりが返ってこなかった。指摘すると、「勘違いした」という言葉とともに0.3ユーロがもどされた。単なるまちがいなのか、意図的なのか判断の難しいところである。

 15:00、再びライアンエアーのカウンター。スマートフォンの画面の搭乗券を見せた。保全検査も問題なく通過した。

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 FR6028 アテネ17:05発 → マルタ18:05着

 FR6028便はルア国際空港に着いた。定時到着の際に流れる「ライアンエアーはいつもオンタイム!」といったアナウンスがファンファーレとともに流れた。乗客の拍手はなかった。時計を1時間遅くした。

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 マルタの首都ヴァレッタは北緯35度53分である。北緯35度0分のキプロス、京都市、浜松市とほとんど同じである。

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マルタ到着 セント・ジュリアンまでバス

 マルタのバスのチケットには3種類ある。2時間乗り放題、1日乗り放題、7日間乗り放題である。7日間乗り放題チケットを買おうとしたが、車内では買えないと言われた。空港ビル内のチケットオフィスで買っておけばよかった。仕方ないので2時間乗り放題のチケットを買った。1.5ユーロ。

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 空港と街を結ぶバスは[X(数字)]といった路線番号が付いている。空港↔セント・ジュリアンは[X2]、空港↔ヴァレッタは[X4][X5][X7]といった具合である。

 バス[X2]マルタ国際空港19:00発 →  セント・ジュリアン19:38着

 マルタ共和国の首都はヴァレッタである。ヴァレッタに宿泊したかったのだが、どこのホテルも高かった。ヴァレッタからバスで30分ほどのところにあるセント・ジュリアンは人気のリゾートで、ホテルの数も多い。セント・ジュリアンのマルコポーロホステルを予約していた。1泊15.1ユーロ。

 マルタ国際空港を発車したバスの位置をグーグルマップでチェックしていた。マルタの地図にある道路のほとんどはまっすぐではない。至るところで曲がっている。ぐにゃぐにゃである。直線距離で10kmほどの距離にある国際空港からセント・ジュリアンまで40分ほどかかった。

 マルコポーロホステルをすぐに見つけることができた。レセプションのスタッフは親切でフレンドリーだった。

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 外に出てみた。昼ではないのでよくわからないが、マルコポーロホステルの周辺はファンキーでパンクである。

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 レストランに入った。マルタ料理を食べたいとリクエストしてみた。トマトを使ったカプレーゼ・サラダは創作料理っぽかった。パスタが出てきた。マルタ料理はイタリア料理の影響を受けている。

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 レストランのメニューには、各料理の料金が2つ記載されている(高いほうと安いほう)。トータルの注文の金額が店の規定金額を下回った場合、高いほうの料金を払うようになっている。サラダなどの1品だけを注文した場合に高いほうの料金になるのだと思われる。

27日目 2017年1月13日 ラルナカ

レメソスに行かない朝

 天気予報の最高気温が16℃、最低気温は4℃となっていた。最低気温は思ったより低い。

 レメソスに行こうかどうかを昨晩まで迷っていた。キプロス第2の街で海沿いにある。バスの本数は1~2時間に1本あり、ラルナカにもどって来るのにそれほど困らないが、1時間半もかかる。30分で行けるのなら行くのに。

 早く起きればレメソスに行くし、そうでなければ行かない、そう決めていた。

 早くも遅くもない8:50頃、オニシロスホテルを出た。

 まずは朝ご飯を食べようと思い、海岸沿いのアシノン大通りを歩いた。昨日より40分以上遅い時間帯だというのに、開いているカフェはほとんどなかった。

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 昨日オムレツを食べたカフェ、マグドナルド、バーガーキングは開いていた。バーガーキングの隣の大きなカフェも開いたので入ってみた。イングリッシュ・ブレックファストは世界中にあるが、イギリスの植民地だったところに多いメニューである。ベーコン、ソーセージ、卵料理(目玉焼き)は他の朝メニューにもあるが、インゲン豆を使ったベイクドビーンズに大きな特徴がある。

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 カフェで電源とWifiを確保できた。これでレメソスに行くという選択肢は消えた。3泊しかしないのだからラルナカとレフコシアだけで十分な気がした。


何もしないラルナカの午後

 カフェを出た。ぶらぶらした街は小さすぎた。アシノン大通りから西に1本入ったジノノス・キティエオス通りはギリシャを思わせるよい通りなのだが、長い通りではなかった。

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 感じのいいカフェを見つけた。古いカメラなどを置いてあった。女性が一人で経営しているようだ。カプチーノを飲んで時間を過ごした。

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 そうこうしているうちに昼メシどきである。

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 アシノン大通りにあるトルコ系の店に入った。キプロスビールの「KEO」はキプロスの友になった。

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 ラルナカにも見るべきところはある。ラルナカ要塞と聖ラザロ教会は、初日の夜ご飯を食べたあと、偶然通りかかっていた。ライトアップされた姿を見ていたが、もう一度足を運んでみた。

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 キティオンまでは2kmほどある。行こうかどうかを迷ったが、止めた。リゾートは人を怠惰にする。

 オニシロスホテルにもどった。やることがなくなったからである。ロビーでWifiにつなぎながら、旅日記を書いた。

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 17:00頃、夜ご飯のために外出した。

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 プレミアリーグのプットボールの試合をやっているフライディズというレストランに入った。スポーツバーではなかった。

 じゃがいものをスライスしたものを揚げ、トマトなどの野菜を加えチーズをまぶし、タレとマヨネーズをかけたもの。見た目の分量は多いが、あっという間に食べた。おやつに近い。同じものを何人かが注文していた、人気のメニューかもしれない。原宿で出したら売れるのではないか。

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 ギリシャ風の街をぶらぶらしながらオニシロスホテルにもどった。またギリシャに行かないといけない、と思いながら。

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26日目 2017年1月12日 ラルナカ レフコシア(ニコシア)

ラルナカからレフコシアに

 オニシロスホテルは制限の多いホテルだった。昨夜ジョージは言った「シャワーの湯は21:00まで、朝は8:00過ぎからシャワーを使える。23:30でホテルの玄関を閉める」。ジョージはホテルのオーナーである。

 7:40頃にオニシロスホテルの玄関は開いていなかった。レセプションには誰もおらず、10分ぐらいホテルを出ることができなかった。

 オニシロスホテルは何の変哲もない住宅街のなかにあったが、200mほど歩くと海があった。海岸線に沿ったアシノン大通りを北に歩いた。途中のカフェやレストランはことごとく閉まっていた。

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 朝ご飯を食べられそうにないと思ったが、清掃中のカフェが開けてくれた。注文したのはオムレツだったが、配膳されたのはピザだった。ということはなく、ピザに似たオムレツだった。

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 アシノン大通りから海沿いに入った道路にバス停(バスターミナル)があることを昨夜確認してあった。

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 キプロスの首都レフコシア(ニコシア)までは4ユーロであるが、全線1日乗り放題チケットは7ユーロである。


レフコシア(キプロス側)を歩いてみた

 ラルナカ9:00発 → レフコシア10:00(頃)着

 レフコシアの市内に入ってからかなり渋滞した。到着時間は少し遅れた。レフコシアまで1時間と少しかかった。

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 旧市街は城壁のなかにあるのだが、一度旧市街に入ってしまえば、城壁がどこにあるのかわからない。つまり旧市街の内側から見る城壁は低いので存在感はない。

 バス停から城壁の内側を歩いていくとすぐにライト・ギアに出た。オナサゴル通りとリドラス通りを中心としたレフコシアの旧市街の中心である。少し歩いてみたが、またあとで歩くことになるだろう。先に城壁に沿って東のほうに歩いた。

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 中央郵便局のところを東に歩くとモスクが見えてきた。鍵がかかっていた。モスクのあるところは城壁が外にコブ(丸い城壁)のように張り出したところである。そういったコブは150mおきぐらいにあった。

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 次のコブには自由の記念像があった。

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 その次のコブにはファマグスタ門。16世紀のヴェネティア時代の建造物である。今はカルチャーセンターになっている。

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 ファマグスタ門から旧市街のなかに入った。カフェや店はところどころにあるだけで、城壁の東のほう一帯は住宅街である。小さなモスクはあった。

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 レフコシアのキプロス側の、グリーンラインの近くを歩いた。グリーンラインとは1974年に国連が設けたキプロスと北キプロスの緩衝地帯のことでキプロスバリアとも呼ばれている。キプロス島が南北に分断され、その中央にある首都レフコシアも南北に分割された。コンクリート壁、有刺鉄線、監視塔がある。国連のキプロス平和維持軍によってパトロールがなされているのだが、グリーンラインの多くは建物によって隠されていた。

 下の1枚の、建物の裏側に国境線(境界線)がある。

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 下の1枚は、使われていないような監視塔。

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 下の1枚は平和維持軍の事務所である(と思われる)。ここから北キプロスには行けない。撮影禁止のマークがあったので、軽率には近づけなかった。

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 下の1枚はキプロス側から見た、グリーンラインの向こう側に揺れる北キプロスの国旗。白地に赤の三日月のほうは現在のもので、赤地に白の三日月は1983年から1984年まで使われていた国旗である。

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 さっき歩きかけたライト・ギアに出た。オナサゴル通り、リドラス通りの周辺である。

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未承認国家、北キプロスに入った

 ネット上にある2、3のブログを読んだ限りでは、キプロス側の境界はフリーパスで何のチェックもないと書かれていた。しかし2017年1月12日現在、キプロス側には「POLICE CONTROL」のチェックポイントがあった。住人は素通りしたいようだが、みんな止められて身分証のチェックを受けていた。外国人はパスポートを提示し、プロフィールページをコピーされる。

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 本来これはおかしな行為である。キプロスの北側にある北キプロスもキプロスの領土なのだから、ここで「POLICE CONTROL」を行う意味はない。しかし「出国」という言葉を出さないで、一般的な「POLICE CONTROL」としているところはキプロス側の苦しいところである。

 北キプロス側では堂々と入国審査をやっていた。最近まで入国カードに記入しなければならなかったようだが、それはなくなっ
たようだ。「初めての入国なのか?」とだけ聞かれた。スタンプは押されない。押されると面倒なことになる。ギリシャで入国拒否をされる可能性があるといわれている。いわれているが、真偽はわからない。

 北キプロスにはトルコ系、キプロスにはギリシャ系が多く住んでいる。それが境界線のそもそもの始まりである。

 キプロスの「POLICE CONTROL」より、北キプロスの入国審査のほうが簡単だった。

 北キプロスの入国管理事務所のすぐ横には観光案内所があった。北キプロス全土への観光パンフレットなどもあったが、北キプロス側のレフコシアの地図をもらった。北キプロスとしては「怖くありません、自由に観光できます」と主張したい、そんな感じだった。

 キプロスのレフコシアの地図にはレフコシア全ての(北キプロス側を含め)道が表示されていたが、通りの名称が記載されていたのはキプロス側だけだった。

 ところが北キプロスのレフコシアの地図には、レフコシアのキプロス側(=北キプロスでないところ)の一切が表示されていなかった。国(キプロス)と未承認国(北キプロス)の関係は地図にも表れていた。それはセルビアとコソボ、モルドヴァと沿ドニエストル共和国にそっくりな現象である。

 キプロス島の北半分を閉める北キプロスの人口は26万人で、面積は鳥取県ぐらいである。それなりの存在感を示せる数字といっていいだろう。クーデターをきっかけに1983に独立宣言をしたが、トルコ以外の国は、北キプロスを国家として承認していない。

 北キプロスの国境付近を写真に撮っていいかどうかを(北キプロス)国境警察に聞いてみた。ダメダメと3人の警察官に同時に言われた。1人の警察官が、国境付近を写さなければよいと言ったので、(国境を写さないで)観光案内所の写真を撮ったら、そこもダメだと言われた。たった今、言ったことと違うじゃないか、と思いながら、削除するからと返答したが、削除しなかった。下の1枚は北キプロス側の観光案内所である。この写真に何の意味もないが、この隣りが北キプロスの国境(境界線)である。

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 緊張感はない。全体としてゆるい。

 グリーンラインを越えたところに出現したのはトルコ風の町並みである。南側とは雰囲気が異なる。街にはトルコ語の看板が並んでいた。「エフェス」の看板があった。10分くらい前にキプロスのビール「KEO」の看板を見たばかりだった。

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 少し歩いて北キプロス側のカフェに入ってみた。ユーロが使えることを断ったうえで入店したわけだが、多くの商店にはトルコ・リラとユーロが併記されていた。両方使えるということである。

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 北キプロスの観光案内所でもらった地図を見ながら、北キプロス側のレフコシアを歩いてみた。

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 Buyuk Khanに入ってみた。内装はすっきりしていた。

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 Buyuk Hamamは時間を決めたイベントのようなものを行う準備をしていた。

 Municipal Market(Bandabulya)は市場である。オールドマーケットという表示もあった。カーペット、衣服、カバン、雑貨などが売られていた。奥はトルコ風カフェになっていた。入り口がフリーWifiのスポットになっていたので休憩した。どこから来たのかと別々の2人に声を掛けられた。

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 少し歩いたところに、ケマル・アタテュルクの像があった。机の上に明治天皇の写真があったといわれているトルコ建国の父である。バルティック艦隊が日本に向かったとき、ロシア黒海艦隊の情報はトルコによって日本に伝えられていた。ポーツマス条約のあと、イスタンブールには東郷通り、乃木通りが出現した。1983年、イスタンブールで買った地図で2つの通りを探してみたことがあったが、発見できなかった。一時的にそう呼ばれたということなのだろう。


北キプロスからキプロスにもどった

 北キプロスからキプロスにもどった。2016年11月、南北キプロスの再統合交渉がモンペルラン(スイス)で開催された。再統合後に連邦制を採用することが合意されている。和平への道は遠くないように思える。EUもなかなかやる。国境のゆるさはそういうことと無縁ではないだろう。

 キプロス側のライト・ギアつまりオナサゴル通りとリドラス通りを歩いてみたが、あまりおもしろくはなかった。マグドナルド、KFC、スターバックスコーヒーのせいだけではない。

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 北キプロスを含めてキプロスには猫が多い。キプロス人は猫に一切かまわない。何の関心も示さない。完全無視である。そういった環境の下で、一部の猫はあきらかに人間にすり寄って来る。人間のあとをついてくるし、寝っ転がって腹を見せてきた猫もいた。ツンデレ系の猫はキプロスに多くない。

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 バスターミナル周辺は工事を行っていた。まもなくきれいなエリアが誕生するのだろう。


ラルナカで夜ご飯

 レフコシア15:00発 → ラルナカ16:05(頃)着

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 バスでレフコシアを出た。途中、灌木のある風景のなかを走った。ギリシャの風景と似ていた。

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 ラルナカにもどったとき、陽はまだ落ちていなかった。夕方になっていく気配はまだなかった。キプロスの北緯35度0分は京都市や浜松市と同じである。日本の感覚で日照時間を捉えるところまで南下してきた。

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 レストランのメニューにヌードルがあったので注文してみた。トマトは1日で3個分ほど食べている気がする。どのレストランでもトマトは付いてきた。サービスでデザートを付けてくれた。

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 夜、ロビーでパソコンを開いていたとき(部屋でWifiはつながらない)、ジョージからピザの差し入れをもらった。

25日目 2017年1月11日 ミラノ ラルナカ

イージージェット/リファレンスナンバーがない

 昨夜、航空券に関する問題が発生した。今日のフライトはイージージェットというイギリスのLCCである。航空券はCtripという旅行会社で購入した。香港に本社のある旅行会社である。

 Ctripから送られてきていた予約確認書のなかに、今日のフライトはミラノ・マンペンザ空港とあったが、ターミナルについては書かれていなかった。これを調べるためにネットで検索した。第2ターミナルだということはすぐにわかった。

 ついでにイージージェットのことを少し調べてみた。ライアンエアーの次ぐらいに悪評のあるLCCだった。ライアンエアーについてはあらかじめ知っていたので対処してあったが、イージージェットについてはたった今、知ったばかりである。

 気になることが1つあった。予約したCtripから、[ミラノ→ラルナカ]のフライトのリファレンスナンバーが届いていなかった。Ctripで予約したフライトは3本あった。下の(2)と(3)についてはリファレンスナンバーが送られてきていたが、(1)についてはなかったのである。

(1)ミラノ → ラルナカ(イージージェット)
(2)ラルナカ → アテネ(エミレーツ航空)
(3)マルタ → バルセロナ(ブエリング航空)

 このことを知ってはいたが、あまり気にしていなかった。Ctripからの書類には「パスポートをカウンターで提示すれば大丈夫である」と書かれていたからである(パスポートを登録してある)。それにGOTOGATE(スウェーデンの旅行会社)で予約したwowエアーの[レイキャビク→ダブリン]のフライトは、レイキャビク空港の自動チェックイン機でパスポートからの読み込みができた(パスポートを登録していなかったにもかかわらず)。

 ところがイージージェットはライアンエアーと同じように事前のオンライン・チェックインを義務としていた、ということを昨夜初めて知った。ライアンエアーでは、搭乗券を印刷していなかった場合は、飛行機に乗せない、搭乗券の印刷には60ユーロが必要である、いや4,000円を徴収させるといったような噂があった。イギリス人がそのことをフェイスブックに投稿し、30万件の「いいね」を集めたという話もネット上にはあった。

 そしてイージージェットは、搭乗券を持ってない場合、40(スターリング)ポンドの罰金を取るという記事が出てきたのである。現在どうなっているのかはわからない。イージージェットの公式サイトをざっと閲覧してみたが、それに関する記載があるのかないのかよくわからない。

 しかしそうであるのなら、オンライン・チェックインをして、スマートフォンの画面で搭乗券を表示させるようにしておくしかない。オンライン・チェックインの画面を開いた。

 ここでリファレンスナンバーの壁にぶち当たってしまったのである。リファレンスナンバーがないと先に進まない。どうやっても、どの角度から入り直しても、レファレンスナンバーを入力するところでストップになってしまう。氏名、フライト情報、パスポート情報などからチェックインに入っていける画面はなかった。

 画面の途中で、イージージェットから直接チケットを購入していない(旅行代理店で購入した)場合についての記載があった。私のケースである。その記載の最後には、購入元の旅行代理店に問い合わせてほしい、というものだった。

 アカウントを作成してから連動させるという方法もあると考え、新たにアドレスを登録しようと試みたが、仮パスワードはメールで送られてこなかった。チャットによるアクセスは、営業時間外という理由で閉じられたままだった。ヘルプ画面からメール送信画面を出し、今の状況をメールしておいた。明日のチェックイン・カウンターでこちらの努力を説明するために、プロセスを経ておくことは大事である。

 最後の手段としてCtripにメールを送った。少しの間をおいて送られてきたのは「メールを受け取った、のちほどメールをする」という自動応答メールだった。イタリア時間の19:30はもちろんヨーロッパの営業時間ではなく、Ctripの本社のある香港でも日本でも夜中の3:30である。万事休すかもしれない。

 明日(=今日)、空港のチェックイン・カウンターで、Ctripからリファレンスナンバーが送られていないこととオンライン・チェックインを試みたプロセスを説明するしかない。旅の戦闘能力を上げなければならない。チェックイン・カウンターで40ポンドを払いたくない。

 やるべきことのすべてをやったが、憂鬱な状態での就寝となった。


早起きしたら問題が解決できた

 スマートフォンの目覚ましを利用することはほとんどなかった。久しぶりにスマートフォンの目覚ましで起きた。辺りは真っ暗である。時刻は6:30。ホステルの朝が遅いのは世界共通である。周りが寝ているドミトリーでは夜行性動物の目が必要である。洗面道具をどこに置き、枕元には何があるのかを把握していなければホステルではやっていけない。

 トイレ兼洗面所で歯を磨きチェックアウトの準備を整えたあと、パソコンを広げネットにつないでみた。

 Ctripから返事が届いていた。日本時間の11:59に発信されたメールは丁寧な文面だった。

1.イージージェットからのメールが届いているはずである ← 予約時から今朝までメールは届いていない

2.パスポートをカウンターで提出すれば大丈夫である ← イージージェットがオンライン・チェックインを義務化し、搭乗券発券のプロセスでリファレンスナンバーが必要になっているということは昨日Ctripにメールをしたはずである。だからこれは的外れな回答である。

3.メールのなかに、イージージェットのリファレンスナンバーが記載されていた ← えらい!

 昨夜も確認したCtripのサイトをもう一度確認してみた。私のアカウントのページには前述の3つのフライトが載っている。そのなかで[ミラノ→ラルナカ]のフライトのリファレンスナンバーは今朝になっても記載はないままだった。

 しかしメールに記載されていたリファレンスナンバーを使い、イージージェットのサイトからオンライン・チェックインに進んだ。手続きはすぐに完了した。パソコンのメールアドレスに送られてきた搭乗券を、スマートフォンに転送し表示できるようにすることはできた。

 今日のフライトは11:15発である。オンライン・チェックインの期限は2時間前の、9:15である。私のオンライン・チェックインの完了時刻は7:30である。なんとか間に合った。

 噂が本当かどうかは知らないが、40ポンドの支払いはこの時点で消滅した。旅の戦闘能力の数値はゼロになっていた。


ミラノ・マンペンザ国際空港へ

 ミラノ中央駅はセントラルホステルミラノから徒歩10分のところにある。ミラノ中央駅の南東側の空港行きバス乗り場に行ってみたが、何かがおかしい。空港行きのバスは停まっていたが、マンペンザ国際空港行きのバスではなかった。他の空港に行くバスらしい。

 マンペンザ国際空港行きのバスの発着場は移転していた。5分ほど歩いてミラノ中央駅の北西側に移動した。バスの近くにいたスタッフからチケットを買った。8ユーロ。

 「地球の歩き方イタリア2014~2015」はすばらしかった。ガイドブックとして完成の域に入っているといっていいだろう。ただ2年前の情報の一部は使えないところが発生していた。メトロM5線の開業、サン・シーロ・スタジアムのゲート番号、ミラノ駅のマンペンザ国際空港行きのバスの発着場の移転などである。

 ミラノ中央駅7:40発 → マンペンザ国際空港(第2ターミナル)8:35着


あっけなかったチェックイン
 
 出発の2時間40分前に空港に着いた。昨夜のトラブルがなくても空港には早く来るつもりでいた。イージージェットの場合、どの空港かはわからないが、200人ほどの乗客を1、2人のスタッフでチェックインさせているという情報があった。

 誰もいないカウンターで、スマートフォンのオンライン・チェックインの画面とパスポートを見せ、チェックインは30秒ほどで終了した。

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 バッグを収納したリュックを機内に持ち込むことにした。荷物の大きさをチェックする籠があった。下の写真のカゴのなかに荷物が入らなかった人がいた。スタッフは私のリュックを目視しただけだった。簡単に通過できた。

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 スマートフォンの搭乗券の画面のバーコードを機械にかざしたあと、保全検査に進んだ。並んでいる人は1人もいなかった。あっという間に出発フロアに出てしまった。

 出発ゲートは決まっていなかった。11:15発のフライトのゲート番号は10:00にアナウンスされるらしい。ゆっくりとコーヒーを飲むことができた。

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滑走路でバスが引き返した

 出発時刻の30分前に滑走路内のバスに乗った。バスは空港内に駐機している飛行機に向けて走り出した。そして飛行機のタラップの前で停止した。あとは搭乗するだけだったが、バスのドアは開かなかった。バスのなかで飛行機を見ながら15分ほど待たされた。乗客の苛立ちが募ってきた頃、バスは空港の建物に引き返したのである。今度は建物の前で乗客を乗せたままバスは10分ほど停まったままだった。

 乗客は一度建物内にもどることになった。その間に出発時刻を過ぎていた。遅延が決定した。

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 その後、出発の予定は12:15になると案内があった。それはいつの間には12:30になっていた。搭乗は12:30に始まった。13:00には機体に乗り込み、飛行機が動き出したのは13:10だった。

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 以下の発着時間はフライトが順調だった場合である。料金は6,477円。

 U22599 ミラノ11:15発 → ラルナカ15:45着

 飛行機の窓からは雪で覆われたイタリアの山々が見えた。寒いイタリアを出国できてほっとしている。キプロスは来てみたかった国である。

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キプロス到着

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 ラルナカ国際空港内の案内はわかりにくかった。インフォメーションの矢印の指す方向にインフォメーションはなく、バス乗り場の案内矢印の先にバス乗り場はなかった。インフォメーションは到着ロビーではなく出発ロビーにあった。

 インフォメーションでバスのタイムテーブルをもらえなかった。

 空港ビルの正面にあったバス乗り場でバスを待った。バス停の時刻表では次のバスは18:40となっていたが、その前のバスが遅れているようだった。18:05に発車していたはずのバスが18:15にやって来た。

 ラルナカの中心に向けてバスは走った。グーグルマップで位置を確認していた。予約してある宿泊先から250mほど離れた地点を通過するようだったので、車内のベルを押してみた。ベルは鳴らずにバスは通り過ぎた。声を掛けたが、ドライバーは呪文のように何かを唱えていた。近くにいた人が、このバスは今走っている辺りでは停まらないと教えてくれた。

 終点まで乗ることに問題はない。そこはバスターミナルである。そこまで行けば、明日の行き先のバスの時間を確認できる。しかしそのバスは下町のようなところをぐるぐる回った。そして予想もしない方向に走り始めた。私ともう1人の旅行者は次のバス停で慌てて下りた。バスターミナルに行くバスではなかった。

 海岸線にあるバスターミナルまで歩いた。明日乗る予定のバスの時刻を確認できた。

 そこから宿泊先までは15分ほどである。海岸線を南に歩いた。左手は海、右手はホテルやレストランがあるリゾート地帯である。

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 天体望遠鏡を海岸線に置いて商売をしている男がいた。月=1ユーロ、火星=1ユーロ、金星1ユーロといった看板を掲げていた。海の上に月が煌々と輝いていた。クレーターはよく見えるだろう。旅が楽しくなってきた。

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 オニシロスホテルは古いタイプのビジネスホテルだった。おそらく流行っていない。客がいるのかいないのかわからないようなホテルである。設備は古く金属の匂いがあちこちから漂っていた。

 今日もドミトリーであるが、入ることになったのはツインのホテルの部屋である。このホテルではツインをドミトリーと称しているようだ。いわゆる相部屋である。1泊18ユーロ。3泊する。

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 部屋に相方がいることはレセプションで伝えられた。北キプロスから来ている(おそらく)トルコ系の男だった。北キプロスのことを聞きたかったが、英語はまったく通じなかった。コンセントは1つしかなく、彼がそれを使っていた。

 食事のために外に出た。200mほど歩くと海に出た。夜の海に波がざわめいていた。

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キプロスでダウンコートを捨てた

 キプロスは暖かかった。ダウンコートを脱ぎ捨てた。脱いだという意味ではない。脱いだうえに道路にあったゴミ箱に捨てた。

 7、8年前に買った古くてごわごわのダウンコートを捨てようと思っていたが、今年1月のエストニア、ベラルーシへの旅で大いに役立った。帰国後捨てようとしたのだが、もう一度使うかもしれないと思ったので取っておいた。

 アイスランドでは役立つだろう、しかしキプロスで捨ててやろうと思っていた。羽田空港から自宅までの気温が気にならないわけではないが、軽量のダウンジャケットを持ってきている。たぶん大丈夫、とてもすっきりした。

 海の近くのレストランに入った。メニューの最初にギリシャサラダがあった。キプロスはギリシャの影響が強い。ギリシャに行きたくなった。注文したもう一品は想像とは異なるものだった。料理名を忘れてしまった。

 KEOビールは1987年イギリスで行われた154社800品目参加の世界のビールコンテストで唯一金メダルを獲得したキプロスビールである。

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 レストランのウエイターは無骨な感じの男だった。馴染客が来たときにはすこぶる愛想がいいのに、外国人と話したくないのか、日本人あるいは中国人が嫌なのか、初めての人にたいする人見知りなのかどうかわからないが、とにかく私にたいして愛想がなさ過ぎた。それは実にギリシャ人らしい、ここはキプロスなのだけれど。

 夜の海を少し歩いてオニシロスホテルにもどった。

24日目 2017年1月10日 パルマ ミラノ

ミラノに移動 セントラルホステルミラノにチェックイン

 7:30頃、ヨーロピアン・ルームズをチェックアウトした。

 1月5日から毎日、鉄道で北イタリアの街を移動してきた。今日はその最終日になる。最後の街はミラノである。パルマ駅でチケットを買った。列車の種類はR(レジョナーレ)である。11.1ユーロ。

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 R2986 パルマ8:16発 → ミラノ9:50着 
 
 1月5日にもチューリヒから乗った列車をミラノ駅で下車した。5日振りのミラノ駅である。

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 セントラルホステルミラノは駅の東北方向10分のところにある。リュックを置かせてもらうつもりだったが、チェックインできた。

 部屋はレセプションのある場所ではなかった。目の前のアンドレア・ドーリア通りを渡ったところの35番の建物の4階の一室だった。同じ敷地内の離れにあるとか、上の階にあるとかということではない。こういうホステルは初めてである。

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 チェックアウトの際には、鍵はベッドの上に置いておいてくれ。これも初めてである。


サン・シーロへ

 レセプションのスタッフは親切だった。地図を使ってミラノの歩き方を説明してくれた。サン・シーロへの行き方も確認できた。持ってきた「地球の歩き方イタリア」は2014~2015版である。メトロM1線(リネア・ロッサ=赤線と呼ばれている)のロット駅から歩くつもりでいたが、M5線が開業になっていた。さっきもらった地図には建設中となっていたが、スタッフは、もう開通していると言っていた。

 セントラルホステルミラノから2分くらいのところにあるロレート駅からメトロM2線に乗った。4つ目のガリバルディFS駅でM5線に乗り換え10駅目のサン・シーロ・スタジアム駅で下車した。M5線の終点駅である。

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ジュゼッペ・メアッツァ・スタジアム

 8万人を収容するサン・シーロ・スタジアムはACミランとインテル(インテルナツィオナーレ・ミラノ)のホームスタジアムである。サン・シーロ・スタジアムというのは、かっての名称である。ジュゼッペ・メアッツァ(選手)が亡くなったのを機会にその功績をたたえ「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ」という名称になった。

 インテリスタ(インテルのサポーター)はジュゼッペ・メアッツァ・スタジアムと呼ぶが、ミラ二スタ(ミランのサポーター)はサン・シーロ・スタジアムと呼ぶ。同じ建築物にたいする呼び名が異なる、日本ではそう言われてきた。

 ジュゼッペ・メアッツァのクラブ在籍期間は、ミランよりインテルのほうが長い。だからインテリスタはジュゼッペ・メアッツァ・スタジアムと呼び、それに対抗してミラ二スタはサン・シーロ・スタジアムと呼んでいる。しかしどうやらこれは日本でのみ言われていることのようだ。インテリスタも馴染のあるサン・シーロと呼んでいるようである。

 スタジアムはミラノ市の所有でそれぞれのクラブが所有しているわけではない。仮にミランが所有しているのなら、インテルは別のスタジアムを借りることになっただろう。逆も同じようになるだろう。


今日はインテルの控室には行けません ミランだけです

 駅を出たところに巨大なスタジアムがあった。ガイド付きツアーの入口を探した。8番ゲート前にはプレハブの簡易オフィスがありチケットを販売していた。

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 チケット窓口で言われたこと「今日はインテルの控室には行けません。ミランだけです」。

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 インテル側に入れないことは残念であるが、文句を言っても始まらない。

 長友佑都と本田圭佑がそれぞれインテルとミランに在籍しているのは今年で最後になる可能性が高い。長友佑都は昨年契約を更新したが、本田圭佑は半年の契約期間を残したこの1月にも移籍の可能性があり、契約満了となる6月には別のチームに行くことになるだろう。2人がいるときにサン・シーロ・スタジアムに入っておきたい。

 スタジアムの前に博物館があった。かなり期待していたが、はっきりいって拍子抜けである。ユニフォームを展示するのはいいが、いつのときのユニフォームなのかといった解説が必要だろう。バッジョやカッサーノはミラノとインテルの両方に所属していたことがある。短い時期ASローマで中田英寿の同僚であったカッサーノのユニフォームを飾る価値があるとは思えない。

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 博物館を出た。いよいよスタジアムである。ガイド付きツアーとなっているが、ガイドがいるわけではなく、ルートに従って勝手に回るようになっている。ところどころでスタッフが先に進むように誘導してくれるのだが、スタジアムに入ったところで、案内されるままに進まなくてよかった。

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 通り道から少し逸れたところにレリーフがあった。ジュゼッペ・メアッツァである。

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# we are ac milan

 ミラン側の選手控室に入った。そこにはミラン風の控室とミラン色の椅子があっただけである。せめてどの席を誰が利用しているのかという表示がほしかった。ミランの10番の椅子はわからなかった。

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 ピッチに続く通路である。伝説のジョカトーレの写真が壁に貼られていた。

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 フットボール専用スタジアムのピッチと観客席の近さがすばらしい。芝を伸ばすためなのだろう、ピッチの半分で電灯が付けられていた。

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 椅子は簡素なものだった。そろそろ新しいものに変更したほうがいいと思える席もあった。

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あの頃のインテルナツィオナーレ・ミラノ

 インテルの控室に入れなかったのは本当に残念だった。インテルについて少し書いておく。

 ロナウド(クリステイアーノでない、ロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマつまりブラジル代表のほう)がいるときのインテルが好きだった。しかし勝てなかった。その頃のインテルはタレントが豊富で個人技に走り過ぎ、勝手にやっているという印象があった。ユヴェントスには勝てなかった。そのあとクレスポやベロンなどのアルゼンチン勢が中心となった頃から興味がなくなっていった。勝てなかったのはこの時代だけではなく、長い間ずっと勝てなかった。インテルの黄金時代は1960年代である。

 蘇ったのは2005-2006シーズンのセリエAの優勝からである。もっともこのシーズンに発覚したカルチョ・スキャンダルによって1位のユヴェントスは優勝をはく奪され、2位のACミランが減点となり、繰り上げ当選でインテルは優勝となった。そこからはインテルはセリエAを5連覇することになった。強烈な印象を残したのはモウリーニョが監督になり、エトー、ミリート、スナイデル、モッタ、ルシオを獲得したあとだろう。2009ー2010シーズンはセリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグを制覇した。セリエAでは5連覇となった。

 このシーズンを最後にインテルは低迷するようになっていった。残念ながら長友佑都の移籍は、直近の低迷時代とすっかりかぶってしまった。

 サン・シーロ・スタジアムのカフェで食べてみた。なす、きゅうり、じゃがいものサラダはうまかった。

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 カフェはどこにでもあるふうだった。ミラン色にもインテル色にも染まっていなかった。日本のプロ野球のような細かいマーケティングはないといっていいかもしれない。14番ゲートが出口になっていた。

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(参考)“これは私たちそのものです”。国境のスタジアムで。1998年8月 ジョホールバル


ドゥオーモとヴィットリオ・エマヌエール2世のガッレリア

 メトロM5線に乗った。3つ目のロット駅でM1線のセスト駅行きに乗り替え、8つ目のドゥオーモ駅で下車した。

 36年前の印象はぼんやりと蘇った。天空に針の山が切り立つ五角形のハリネズミ。

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 ドゥオーモ周辺を歩き回った。もちろんヴィットリオ・エマヌエール2世のガッレリアにも歩いてみた。

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イタリアのピザはなぜうまいのか

 ミラノは見どころの多い街ではないが、リストランテはあちこちにあった。どこも客が入っていた。さすがミラノである。ピザを食べた。

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 イタリアに来たら毎日ピザを食べようと思っていた。しかしボローニャ、リミニ、ラヴェンナ、フェッラーラ、モデナ、パルマといった中小都市ではリストランテを探すのは難しかった。ピッツェリア、ターヴォラ・カルダ(大衆食堂)、ロスティッリア、カフェテリアなどはどこにでもある。そこでは出来合いのピザが何等分かに切り分けられ売られている。そういうピザを一切食べなかった。毎晩ピザ窯でピザを焼く店を探したが、店はあまりなかった。

 イタリアのピザがなぜうまいのか。トマトソースが特別においしいというわけではない。モッツァレッラ、ゴーダチーズ、ピザ用チーズなどチーズの種類にその要因があるわけではない。おそらくチーズの量が過剰なのである。

 出されたピザは切り分けられていない。ピザカッターは付いていないので、ナイフで切ることになるのだが、1分以内で6等分なり8等分にすることは不可能である。2つに分けるだけで3、40秒かかる。ピザ生地が固いからではない。ナイフにチーズがからまりピザが切れなくなるのである。それほど過剰なチーズがのっている。

 テレビでジローラモさんが言っていた。イタリア人はわいわい話しながらピザを食べる。チーズで手を汚しながらピザを食べる。それほどチーズはたっぷり使われている、と。そのとおりだった。

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ネットにつないだときに

 ドゥオーモ駅でメトロM1線に乗り、5駅目のロレート駅で下車した。

 セントラルホステルミラノにもどった。

 ネットにつないでいたとき、重要なことに気が付いた。それについては明日の旅日記の冒頭に書くことになるだろう。

23日目 2017年1月9日 モデナ パルマ

モデナからパルマへ

 オステッロ・サン・フィリッポ・ネリをチェックアウトし、寒い道をモデナ駅まで歩いた。

 8:20頃のモデナ駅は慌ただしかった。今日が月曜日の朝であることが関係しているのだろう。1月6日の金曜日がエピファニアの祝日で、7日(土)8日(日)と3連休が続いたイタリアで、初めてバタバタした駅の雰囲気を感じた。

 チケット売り場には10数人が並んでいた。今日に限ってチケットを前日に買っていなかった。自動券売機の列は徐々に解消していったが、チケット売り場の行列はなかなか収まらなかった。

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 駅のスタンドでコーヒーとクロワッサン。イタリア人はカフェでコーヒーをよく飲むが、それはカフェの料金が高くないことと関連している。1.5ユーロで飲める。

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 モデナからパルマまでは1時間に3、4本の列車がある。2つの街は、ボローニャからミラノまでの幹線上にあるので交通の便はよい。レジョナーレ・ヴェローチェは5.4ユーロ。レジョナーレ・ヴェローチェはレジョナーレより速いと考えがちだが、区間によってはレジョナーレのほうが速い場合がある。つまり普通列車が快速列車より速いということである。

 RV11526 モデナ8:56発 → パルマ9:23着

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 パルマ駅の裏側から徒歩500mほどのところにあるヨーロピアン・ルームズに向かった。リミニ駅とは異なり、ボローニャ中央駅のようにパルマ駅は通り抜けができた。パルマ駅の東側を南北に抜けるトレント通りを北に歩いた。宿泊先であるヨーロピアン・ルームズは簡単に見つかった。


宿泊先ヨーロッパ・ルームズに入れない?

 やっかいな問題が発生しかけたが、それはすぐに解消した。

 最初、建物に入れなかった。建物外のベルを押してみたが、反応はなかった。たまたま建物に入っていくおばさんが入れてくれた。建物に入れないケースはときどきあるのだが、ほとんどは5分程度で解消する。ヨーロッパでは、なぜか建物への人の出入りは頻繁であるというのは経験則である。

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 ヨーロピアン・ルームズの呼び鈴を押しても反応はなかった。何度か押してみたが、同じである。入れてくれ、という悲痛な呼び鈴は宇宙の果てまで届いたはずだが、ドアの向こうに生息している生物はいないようだった。

 10:00前はチェックアウトの旅人たちが出ていく時間帯である。宿泊客が少ない場合でもホステルに誰もいないということは考えにくい。ヨーロピアン・ルームズのチェックイン時刻が23:00までだということを記憶していたが、チェックイン開始の時刻を覚えていなかった。

 チェックインが10:00からではないことははっきりしている。リュックを置かせてもらいたいだけである。

 呼び鈴を押しても反応がない場合の対処方法がドアに貼られていた。「セルフ・チェックイン」の方法が書いてあった。用意周到なのか、セルフ・チェックインが日常茶飯事であるのかを判断するのは難しい。

1.電話をする(電話番号は書かれていた)
2.メールをする(メールアドレスは書かれていた)。その場合、身分証明書(パスポート)をコピーして送れ(←ハードルが高い)
3.1あるいは2のあと、入り口のコード番号を教える。

 よかった、今が午前中で。リュックを置かせてもらいたいので、しばしば、チェックイン時刻の前に宿泊先に行くわけだが、閉まっていることを想定していない。そういうことがあるかもしれないが、せっかく行ったのにリュックを背負って出てくるのは嫌である。絶体にリュックだけは置いてきたい。

 さあどうしようと思っていたところに、魔法使いのおばさんがやって来てヨーロピアン・ルームズのドアの鍵を開けた。ちょっとの間、外に出ていたらしい。おばさんは英語をまったく解さなかったが、どこかに電話をしてくれた。

 その電話を変わってもらい、リュックを置かせてほしい、できればチェックインをしたいと伝えた。

 チェックインをさせてもらえることになった。1泊20ユーロ。

 生物が生息していないと思われたヨーロピアン・ルームズのベッドにはイタリア人の女の子がいた。途中から通訳をしてくれた。リュックを預けることができ、ベッドを確定した状態でヨーロピアン・ルームズを出ることができた。

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パルマを歩いてみた

 トレント通りを南に歩けば鉄道の高架の下を潜る。さらに南に行けばジュゼッペ・ガルバルディ通りに入る。パルマの見どころはこの通りの周辺にまとまっているのでわかりやすい。

 ヨーロピアン・ルームズから1kmほどのところにあったのが国立絵画館である。絵画館はかってのファルネーゼ家の居城内にあり、くたびれた長い階段を上がっていったのだが、月曜日は休館になっていた。

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 国立絵画館の前は広場になっていた。奥のほうにも大きな建物はあるようだったが、広場の終わるところで左に折れた。まっすぐ進めば洗礼堂に着くはずであるが、途中にあったカフェで温まることにした。イタリアに入ってから寒い日が続いていた。

 アメリカーナを注文すると、どろっとしたコーヒーがカップの底に入った状態で運ばれてきた。カップに入った湯とミルクが付いてきた。湯は好きなだけコーヒーに注げということである。フェッラーラでもそういうコーヒーの出し方をされたことがあった。

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 カフェを出てドゥオーモ広場に向かった。広場前にはドゥオーモと洗礼堂が隣り合っていた。

 ドゥオーモに入ってみた。12世紀のロマネスク様式である。ファザードは特に変わった感じではない。内部の祭壇は階段を上った高いところにあった。下から見上げる感じである。断ったうえで階段を上り、祭壇の近くまで行った。丸い天井に描かれているのは「聖母被聖天」である。周囲の壁にはフレスコが余すところなく描かれており、全体としてはなかなかの迫力だった。

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 ドゥオーモを出たところで、ヨーロピアン・ルームズで通訳してくれた女の子に遇った。

 洗礼堂に入ろうとしたが、開館時間が9:00~12:30、15:00~16:30となっていた。ドゥオーモを出たとき12:30くらいだった。

 ドゥオーモの東側にあるサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会の開館時間は8:30~11:45、15:00~17:30となっていた。洗礼堂は見なくてもいいが、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会には入ってみたい。

 さっきカフェに入ったはかりだが、別のカフェに入ることにした。時間つぶしである。北イタリアのパスタであるタリアテッレを食べた。思った以上に麺の幅が広かった。1cm以上あった。甘いパスタに挽き肉がうまくからんでいた。

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 2時間近くいたカフェを15:00前に出た。

 サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会はルネッサンス様式の教会で、内部はフレスコ画で飾られていた。「聖ヨハネの幻視(キリストの昇天)」は幻想的で、同時に厳かなものだった。

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 トルン(ポーランド)で、入り口の名称表示が削られた教会があった。教会として使われていないようだった。ツーリストインフォメーションでもらっていた地図で確認したらEvangelical Churchとなっていた。ティノス島(ギリシャ)にパナギア・エヴァンゲリストリア聖堂があった。

 エヴァンゲリオンというギリシャ語由来の単語が元になった教会である。キリスト教では福音という意味である。福音=よい知らせ。イエス・キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせ。パルマのこの教会を「サン・ジョバンニ・“エヴァンゲリオン教会”」と訳しておきたい。

 目的もなく街をぶらぶらした。ぶらぶらするためにぶらぶらした。

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 途中のカフェでケバブを食べ、パンを買って帰った。

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 まだ陽が落ちていなかったが、ヨーロピアン・ルームズにもどった。レセプションでビールを買って飲んだ。

 夜、インターネットにつないだ。ヤフーニュースに、ヨーロッパの寒波の記事があった。

 1月9日(日本時間の)10時43分、[寒波で約30人死亡=欧州]
 
【ベルリン時事】欧州メディアによると、9日までの数日間、ポーランドの一部地域で氷点下30度まで冷え込むなど欧州各地が寒波に見舞われ、ホームレスや難民希望者を含む約30人が死亡した。死者はポーランドで少なくとも10人、イタリアで8人に上った。・・・・・・

 イタリアで死者が出ていたことを初めて知った。ポーランドでも死者が出ていた。ポーランドの冬はそれほど寒くない。今年の1月から2月、隣国のベラルーシやリトアニアが-10℃から-15℃だったとき、ポーランドは0℃~(+)5℃くらいだったのに。

22日目 2017年1月8日 フェッラーラ モデナ

フェッラーラからモデナへ

 8:30頃、民泊のアパートメント・フェッラーラのPAOLO ELKHANさん宅を出た。10分ほど歩いてフェッラーラ駅に着いた。コーヒーと蜂蜜入りのクロワッサン。駅カフェの朝ご飯は最近の習慣になってしまった。しかし座る場所がない。イタリアのカフェはどこも小さすぎて困る。

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 モデナまでのチケットを買った。カフェは座れなくても、列車は必ず座れる。ローカル線のチケットをあらかじめ購入しておく必要はなかった。モデナまでの直通列車はなく、ボローニャ中央駅での乗り換えである。チケットに列車番号や発車時刻は記載されていない。2本ともRV(レジョナーレ・ヴェローチェ)である。2列車を合わせて料金は7.35ユーロ。

 ホームの点字ブロックは日本と同じである。

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 RV2227 フェッラーラ9:11発 → ボローニャ9:40着

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 ボローニャ中央駅でミラノ行きの列車のプラットホームは1ovestとなっていた。ovestは「西」である。ボローニャ中央駅の1番線には、1番線ホームと1番線ovestホームの2つがある。2つのホームがあるのは1番線から7番線までで、それぞれの番線のovestホームはすべて行き止まりである。

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 2日前のボローニャ中央駅。4番線ホームから発車するリミニ行きの列車を4番線ovestホームで待ってしまった。発車10分ほど前になって列車が入線してくる気配はなく、乗客も集まってこなかった。尋ねたところ、4番線ovestホームではなく4番線ホームからの発車となっていた。このときは焦ったが、なんとか間に合った。

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 モデナ駅舎はあっさりした感じだった。リミニ駅、ラヴェンナ駅、フェッラーラ駅もそうだった。もはやイタリアの駅にヨーロッパ風の駅舎を期待していない。

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 モデナ駅舎を背にしてまっすぐ前に少し歩いた。モンテ・コシカ通りに出たところを西に歩いて、3つ目の細い道を左に折れた。南に歩き2つ目の通りに左に折れてすぐのところにオステッロ・サン・フィリッポ・ネリがあった。学生寮のようである。リュックを預かってもらった。

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モデナを歩いてみた

 外に出てみた。なんとなく歩いていた。

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 なんとなくカフェに入った、というより寒いのでカフェに入った。

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 ドゥカーレ宮殿があった。フェッラーラのエステ家の豪奢な館だったところであるが、内部は陸軍士学校として使われているため入れない。予約をしておけば別だが。

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 ドゥカーレ宮殿から南200mほどのところにドゥオーモがあった。

 直接、ドゥオーモに着いたわけでなかった。この日はほとんど地図を見ることもなく適当に歩いていた。地図を見なくてもまちがいなく歩けそうな感じがしたからである。

 しかし知らないうちにかなり南のほうに行ってしまっていた。北のほうに塔が見えたので行ってみたら、ギルランディーナの塔(鐘楼)だった。塔の東にあったのが市庁舎で、塔と一体のように見えてきたのがドゥオーモである。裏側は建て増しをしたようであるが、ファザードは大胆なデザインになっていた。大きくない正面を大きく見せるためかもしれない。ドゥオーモでは礼拝が行われていた。

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 モデナは寒かった。アイルランドよりかなり寒い。イタリアを寒波が襲っているらしい。リミニもサンマリノもラヴェンナもフェッラーラも0℃から-5、6℃の間で気温が推移していた。1日のなかで暖かくなる時間がなかった。

 LA FORNARINAというケバブの店で昼ご飯。

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 14:00前にオステッロ・サン・フィリッポ・ネリにもどった。リュックを受け取りチェックインした。チェックインは夕方でもいいのだが、実はやることがない。モデナは悪くないが、他の街と変わり映えがしないうえにインパクトに欠けた。

 今日は1部屋に3ベッドである。ホステルでは例外中の例外である。しかも2段ベッドではない。ほとんどの人が2段ベッドでないほうがいいというが、私は2段ベッドの下段がいい。2段ベッドのほうが、閉鎖空間ができやすく、金具などにタオルなどを掛けておくことができる。

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 14:30、オステッロ・サン・フィリッポ・ネリを出た。やることがない1日は困ったものである。エンツォ・フェラーリ生家博物館に行くバスがモデナ駅から出ているが、まったく興味が湧かない。

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 カフェでコーヒーを飲んだ。

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 夜ご飯を食べる場所を探しながら、街を歩いていたが、レストランがない。本格的な薪を燃やすピッツェリアはまったくなかった。アル・ターリセと呼ばれるような出来合いのピザを売る立ち食いの店はいくらでもある。そこではサンドイッチやパンなどは売っている。席は少ない。

 ターヴォラ・カルダ(大衆食堂)、ロスティッリア、カフェテリアの区別はまったくわからない。昼ご飯を食べたLA FORNARINAという店はピッツェリアという名称だった。ミラノのような大都市は別にして、ボローニャのような中規模都市でも、ホテルの併設を別にすれば、レストランを探すのは難しかった。リミニではかろうじて見つけた1軒に入り、昨日のフェッラーラと今日のモデナでは1軒も見つけることができなかった。

 途中で見つけたPATA TWISTER。皮のついたジャガイモをつなげたまま細切りにし、油で揚げ、ケッチャップやマヨネーズをかけて食べる。

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 歩き回ったあげく中国系のターヴォラ・カルダに入った。モレッティビール(BIRRA MORETTI)が置いてあった。かなり前にどこかで飲んだ記憶があるのだが思い出せない。

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イタリアで中国料理店は多くない。今のヨーロッパではトルコ料理店が幅を利かせている。それはストラスブルグ(フランス)で特に顕著だった。

21日目 2017年1月7日 リミニ ラヴェンナ フェッラーラ

リミニからラヴェンナへ

 ラヴェンナ行きのチケットは昨日の朝、ボローニャ駅で購入してあった。列車を待っている時間に、次の目的地までのチケットを購入するというのは時間のつぶし方として悪くない。

 ラヴェンナまでは4.75ユーロ。同区間には18.85ユーロという優等列車が走っていた。列車本数は1日17本である。

 チケットには列車番号、発車時刻などは印字されていなかった。駅にある自動検札機(オップリチラトリーチェ)に通す。これをやっておかないと車内の検札時に罰金をくらうことになる。

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 ホームに乗客はほとんどいなかった。乗った車両には私しかいないというのは海外では気楽な旅にはならない。周囲に人がいないのは、下りる駅を誰にも聞けない。

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 R6516 リミニ7:36発 → ラヴェンナ8:27着

 車内での検札はなかった。数人に満たない列車に車掌を乗せる意味はない。

 チェゼナティコを過ぎ、チェルビア辺りを走っているとき、列車の左手に沼が見えた。


ラヴェンナを歩いてみた

 終点のラヴェンナで下りたのは3人だった。駅舎はこじんまりしておりイタリアらしくなかった。駅舎のなかに荷物預かり所もコインロッカーもなかった。

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 駅舎を背にしてまっすぐ前に歩いた。方向は西である。ローマ通りを通過したところで道は狭くなったが、そのまま歩き続けた。両側の建物は3階建てで統一されていた。モダンな雰囲気である。

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 駅から10分ほどでポポロ広場に出た。ラヴェンナのへそであるが、大した広場ではなかった。

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 道路にサン・ヴィターレ聖堂への案内矢印があったので、その方向に歩いた。地図から目を離したので途中どこにいるのかわからなくなったが、道を尋ねながら9:00前に目的地に着いた。サン・ヴィターレ聖堂は閉まっていたが、横にあった国立博物館は開いていた。

 チケット売り場では、国立博物館、テオドリック王の廟、サンタポッリナーレ聖堂などの共通券を扱っていた。ほしいのはラヴェンナ・ヴィジット・カードである。そのカードはサン・ヴィターレ聖堂、ガッラ・プラチーディアの廟、サンタポッリナーレ・ヌオーヴォ聖堂、ネオニアーノ洗礼堂と大司教博物館の共通券である。ラヴェンナ・ヴィジット・カードの売り場の場所を教えてもらった。すぐ近くだった。9:30に開くというので、チケットショップの隣りにあるカフェで待った。

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 9:30、カフェを出て、本屋を兼ねたチケットショップに行った。3人が並んでいた。ラヴェンナ・ヴィジット・カードを買ったときにもらった地図はわかりやすかった。

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 八角形のサン・ヴィターレ教会に入った。モスクのようである。

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 ラヴェンナは元々ローマ帝国の水軍基地だったところである。その後、西ローマ帝国の本拠地になった。海と沼にはさまれた地の利は、水上での戦いが不得意な蛮族から守りやすかったらしい。今朝、車窓から見た沼の周辺には確かに水辺のイメージがあった。その後西ローマ帝国が滅亡し、東ゴートの王テオドリックが統治をするようになった(476年頃)。このテオドリック時代に造られたビザンチン建造物がラヴェンナに残っている。サン・ヴィターレ聖堂はその1つである。

 サン・ヴィターレ教会のイタリア語は、Basilica de San Vitaleとなっていた。公共の集会堂であったバシリカが教会の洗礼堂の中心となったということなのだろう。548年の建立である。金色がベースにあり、薄く調和された、派手過ぎず地味過ぎない内装だった。モザイクの壁画と大理石の石柱が目立っていた。

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 同じ敷地内にあるのが、ガッラ・プラチーディアの廟である。無視してしまいそうな小さな建物だった。なかにあった「よき羊飼いの図」「水盤から水をのむ白い鳩の図」には目を引いた。

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 ポポロ広場の西側を南のほうに歩いた。サン・ヴィターレ教会からネオニアーノ洗礼堂までは10分ほどである。

 ネオニアーノ洗礼堂のほうに向かった。入り口がわからず、尋ねたところが大司教博物館だった。館内は撮影禁止だったが、2階のスタッフはやさしかった。大体の展示を説明してくれたあと、自分の座っている場所の近くにリュックを置かせてくれた。マクシミアヌスの司教座は象牙でできて手の込んだものだった。ビザンチン工芸を代表するものである。大きなアンジェルスの十字架の使いどころがわからなかった。

 ネオニアーノ洗礼堂。円天井を中心に下まで広がるモザイクのデザインは強く大胆だった。

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 10分ほど歩いてサンタポッリナーレ・ヌォ―ヴォ聖堂に着いた。11世紀のアラブ風の柱が並んでいる様はキリスト教の教会だとは思えない。それは庭も同じである。「地球の歩き方」の地図に掲載されているが、解説はされていない。ラヴェンナ・ヴィジット・カードで入場できるのだが、「地球の歩き方」に掲載されているサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂(街の中心から南に5kmほど離れた野原にあるらしい)の内部のデザインにそっくりであることにこの日の夜に気が付いた。

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 サンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂からVia di Romaを北に300mほど歩き、2つ目の通りを右に折れた。さらに400mほど歩いてラヴェンナ駅に着いた。ちょうど12:00だった。

 駅前に大きなレストランやカフェはなかった。イタリアの大衆食堂はターヴォッラ・カルダ、ロスティッチェリア、カフェッテリアなどがあるが、いずれも小さい。カウンターと少ないテーブルがあるだけである。すでに調理されてある料理、パン、サンドイッチ、焼かれたピザなどがカウンターに並んでいる。GASTRONOMIAというチーズとハムをはさんだものを食べた。

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ラヴェンナからフェッラーラへ

 フェッラーラ行きのチケットもリミニで購入してあった。

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 REG11596 ラヴェンナ12:27発 → フェッラーラ13:48着

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 6.65ユーロの列車に電源コンセントが付いていただけではない。Wifiを使えた。すばらしい。この列車も車内での検札はなかった。


民泊を探せるのか

 フェッラーラでの第一の関心事は宿泊先である。アパートメント・フェッラーラを予約したのはチューリヒである。

 この宿泊先を予約した翌日に、イタリア語のメールが届いた。これにはかなり驚いた。ネットの翻訳システムで日本語に訳してみた。大体の意味はわかったが、肝心のところがわからなかった。イタリア語から英語への翻訳も試みた。日本語訳より少しはわかるようになったが、やはり肝心なところは不明である。

 ホステルではないようだ。おそらく民泊だろう。

 ラヴェンナでよい宿泊先がなかった。対象エリアを広げてみた。個室で、ドミトリーと同等の料金の宿泊先がフェッラーラでヒットした。これまでドミトリーに泊まってきたが、フェッラーラのような田舎なら、個室に泊まることができるのだとそのとき思った(フェッラーラは田舎ではなかった)。

 イタリア語のメールのなかに「18:00」という時刻が記載されていた。私が「18:00にまでに行くつもりだ」と書いたからである。そうでなければ18:00という時刻が出てくるはずがない(サイトにあるチェックイン可能時刻は14:00~19:00となっている)。

 私は「(14:00から)18:00までに行く」と書いたつもりであったが、宿泊先が民泊ならば、「18:00には部屋を開ける」と断ってきた可能性がある。それはつまり「14:00~18:00までは部屋に入ることができない」ことを意味する。細部についてはよくわからなかった。

 とりあえずフェッラーラ駅から700mほどのところにあるアパートメント・フェッラーラに向かった。できればリュックを置かせてもらいたい。大きな通りを3つほど曲がり、5階建てくらいのアパートメントが林立する広場に出た。見渡せばアパートメントは10棟ほどあった。

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 ♪そして僕は途方に暮れた♪ 聞き覚えのある曲が頭のなかに響いた。

 20m以内に接近してくる者は、お金をもっていなくとも、50kgの荷物を抱え早く家に帰りたい人であろうと私の餌食になった。3人目は自転車に乗った女子高校生だった。

 天は我に味方した。彼女はアパートメント・フェッラーラの3階(ヨーロッパでは2階)の住人だった。

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民泊に入れるのか

 届いたメールに載っていた「PAOLO ELKHAN」という名前を伝えてみた。そもそもこのスペルが人名であるのかどうかを判断しかねていた(門のところにある暗証番号かもしれない)。アパートメント・フェッラーラの敷地の外門にある住民一覧表のところにその名前はあった。彼女はその人には会ったことがないようだったが、住所が間違っていないことは確定した。

 いとも簡単に目的地にたどり着いた。最初の課題はクリアした。第2ステージは、ホストに会うことである。

 女子高校生の鍵でアパートメントの敷地内に入れてもらった。建物の外壁のチャイムを鳴らしたが、反応はなかった。彼女の持っている2つ目の鍵で建物のなかに入れてもらった。

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 彼女は3階の自宅に帰った。礼を言い、最上階の5階まで上った。部屋の玄関にチャイムはなかった。ドアを数回叩いたが、反応はなかった。やれやれ、まあ予想の範囲ではあったけれど、これからどうするのかは迷うところである。

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 状況は異なるが、バクー(アゼルバイジャン)、リーガ(ラトビア)で似たような経験がある。バクーでは2時間待ってもチェックインできないので、別のところに泊まるしかないとホステルを出たとき、通りで部屋のオーナー(ホスト)から声を掛けられた「もしかして今日、バクー・オールド・シティ・ホステルに泊まる人?」という感じで。バクーにはホステルが2つしかなく、そこを失してしまうと安い宿泊先を見つけるのはけっこう大変だったのだ。リーガでは「予定より早くチェックインするのなら別のところに来てくれ、そこから送迎する」というメールが前日に入った。別のところは駅から3kmくらい離れていた。冗談ではない、メールを無視してホステルの場所に行ったら周辺の人たちが協力してくれた。少しあとでたまたま別の宿泊客を案内してやって来たホストと遭遇した。両方とも、ホストと遇う瞬間だけは偶然が左右している。そういう体験があったので、少し待っていれば、ホストはやって来るのではないかという楽観的な期待はあった。そもそも女子高生のおかげで5階のホストの部屋の前に立つことができたことも十分ラッキーなのである。

 部屋の前、建物のなか、建物の外と場所を変え、15分ほど待ってみたが、ホストは来ないようである。18:00にもう一度やって来るしかないようだ。イタリア語のメールの内容は「18:00」に「あなた(=私)を迎える」という内容のもので、それは同時に「18:00までは部屋に入ることはできない」ことを意味するものだった、ということである。

 アパートの建物の玄関のドアを開け外に出た。しかし道路とアパートの敷地の間にある扉は自動的に閉まりロックされていた。門を乗り越えれば外に出ることはできるが、不法侵入者(この場合は不法外出者?)のようになってしまう。そのとき、敷地内に駐車してある車を洗い始めた若者がいた。彼の持っている鍵で敷地の門の扉を開けてもらった(若者は、さっきの女子高校生の兄だということをこの日の夜に知ることになる)。


フェッラーラを歩いてみた

 リュックを担いでアパートメント・フェッラーラを後にした。フェッラーラの旧市街に向かった。方向は東である。

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 エンテンセ城までやって来た。他の博物館との共通入場券であるMYFE-Ferrara Tourisut cardを買うときに、展望台には行かないと伝えたら2ユーロ安くなった。

 フェッラーラはルネサンス時代、フィレンツェと並ぶ繁栄を遂げた。エステ家の宮廷文化が花開き、イタリア中から芸術家が集まった。世界史でこの街が登場していた、という記憶はない。エステ家は地方の傭兵だったが、フェッラーラの永代君主にまで上り詰めた。大広間の天井・壁面にはローマ芸術を思わせたが、大きく豪奢な城であるという外観と比較するとなかはそれほどでもなかった。華やかなエステ家の居室が次々と展開されたが、全体として軽い感じがした。

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 近くにあるはずのカテドラーレの場所がわからなかった。修復のための布がファザードを蔽っていたからである。グーグルマップにはサン・ジョルジュ大聖堂となっていた。内部はゴシックのフレスコ画で飾られており華やかな感じだった。

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 エステンセ城とカテドラーレ周辺の広場と通りの雰囲気はよかった。

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 カテドラーレの南にカテドラーレ美術館があったが、入る時間はない。

 カテドラーレの北側のヴォルタパレット通りを南西のほうに歩いた。マダーマ通りを右に折れ、スカンディアナ通りを東に歩いた。

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 途中にあったロメイの家。この南にあるコルプス・ドミニ修道院はエステ家の墓所である。墓所の内部が大理石であるのは、他のイタリアの名家も同じらしい。富が都市の特定の家に集まっていたことを意味している。

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 途中にあったChiesa di San Girolamo。聖ジローラモ教会。タレントのジローラモさんの顔が思い浮かんだ。

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 スキファノイア宮殿はエステ家の別荘だったところである。なかは市立ラピダリオ美術館になっており、エステンセ城に入るときに買ったMYFE-Ferrara Tourisut cardで入ることができた。奥の12月の間には、壁いっぱいに描かれたフレスコ画を見ることができる。他の作品を見ることはできないのだが、みんなこのフレスコ画を見るために来ていた。

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もう一度、民泊へ

 一通りの観光を終え、再びアパートメント・フェッラーラに向かう。スキファノイア宮殿からは3kmほど離れていたが、18:00まで少し時間があった。

 カフェで30分ほど休憩した。時間に正確なことに関しては世界にその名を轟かせている日本人である。一方、時間に遅れてくることにかけてはヨーロッパで1、2を争うイタリア人である。早く着いてしまっては待つだけである。

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 時間に正確な世界チャンピオンの日本人は6分も早くその場所に着いてしまった。そして案の定、待つことになった。ヨーロッパチャンピオンの勝ちである。

 敷地の外で待っていると、どうしたのかとおじいさんに尋ねられた。大体の事情を話すと、いっしょになかに入ろうと敷地のなかに入れてくれ、寒いからと、建物のなかにも入れてくれた。

 しかしホスト(つまりPAOLO ELKHANさん)がこの場所に住んでいなかった場合、外で誰も待っていなければ、ゲストが来ていないと解釈して、帰ってしまう可能性がある。外で目立つように待つべきだと判断したので、おじいさんに礼を言って、敷地内に入れてもらうことにしたが、建物の外で待つことにした。

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 次に帰ってきたのは3階に住んでいるというおばあさんだった。とても心配してくれた。寒いでしょうから、なかにお入りなさい、そういう感じだった。このおばあさんと、昼過ぎに私をなかに入れてくれた女子高校生とそのあと車を洗っていた若者は同じ家族である。

 次にやってきたおばさんも、寒いでしょうからなかで待てば、と言ってくれた。この時期イタリアを寒波が襲っており、みんな寒さを気にしていた。そのあと2人がやって来た。1人は素通りしていったが、もう1人は気をつかってくれた。

 こうして私は徐々に応援団を増やしていった。4時間くらい所在なく待っていれば、ほとんどの住民と顔見知りになれるだろう。

 民泊をするというのはこういうことなのだ、と考え込んでしまった。知らないところで多くの人に多くの迷惑を掛けている。日本の民泊の拡大に賛成だったが、この日その考えはかなりグラついた。

 18:20過ぎにやって来たのはPAOLO ELKHANさんご一行であった。父、母、そして(おそらく)ボローニャ大学の長女、年の離れた弟である。遅れてきて申し訳ない、というような言葉はなかった。会えて嬉しいと言われた。

 さすがイタリアン。時間に遅れるヨーロッパチャンピオンである。

 鍵の使い方などを英語で説明してくれたのは長女である。せっかく鍵を3つも預かったが、外出する気にはなれなかった。今日はずっとリュックを背負っていたのでかなり疲れていた。

 1泊25ユーロの民泊は個室のツインである。

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20日目 2017年1月6日 ボローニャ リミニ サンマリノ 

ウィーボローニャをチェックアウト

 6:40、ウィーボローニヤをチェックアウトした。よいホステルだった。ボローニャを拠点にして、近場の3つの街を周るという手もあった。


ボローニャからリミニへ

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 リミニまでのチケットは昨日、自動券売機で買った。ボローニャからリミニまでは1日40数本の列車がある。乗る列車によって、料金は9.85~20.5ユーロの範囲にあるのだが、さらに細分化されていた。同区間で20.5ユーロの列車の検索を続けてみたら、それ以上に高い金額に行き当たったこともあったが、優等列車でない列車を選べば、鉄道の旅は高くない。

 チケットを駅にある自動検札機(オップリチラトリーチェ)に挿入すれば駅の検札を通したことになる。これをしておかないと車内での検札のとき、高額の罰金をくらう可能性がある。日時が印字されてあるチケットを自動検札機に通す必要はない。昨日買ったチケットには列車番号、日付け、発車時刻などは印字されていないので、同じクラスのどの列車に乗ってもよいのだが、列車の判別が付きにくい。検索した条件の、前後の同額の列車の発車時間をメモしておく必要がある。

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 料金は9.85ユーロである。 


リミニ到着

 ボローニャ7:06発 → リミニ8:37着

 リミニ駅前に出た。マークしておくべきバーガーキングはすぐに見つかった。バーガーキングの前がサンマリノ行きのバスの発着場となっているのだが、厳密にいうと、4つほどあるバス停のなかの、バーガーキングからもっとも遠いバス停がサンマリノ行きのバス停である。

 駅の裏側にあるジャミンホステルに向かう。ボローニャ中央駅の場合は、ホームに向かう通路が駅の裏側にまで通じていたが、リミニ駅ではそうではなかった。ホームからは駅の表側にしか出ることができなかった。

 駅の西北側に、裏側への通路があると教えてもらった。線路の下の通路を通り駅の裏側に出た。

 駅の北側を東に歩いた。途中、公園を横切り、ジャスミンホテルに着いた。駅の裏側に出口があればジャミンホステルまで700mほどであるが、1.5kmほど歩くことになった。チェックインができる時刻ではないのでリュックだけを置かせてもらった。サンマリノに向かうバスの時刻を教えてもらった。

 リミニ駅にもどってきた。

 イタリアでは、バスチケットを街のタバッキで買うのが一般的である。バーガーキングのそばにそれらしい売り場はあったのだが、サンマリノ行きのバスチケットだけ、そこでは買えなかった。

 バスは遅れてやってきた。だから遅れて発車した。サンマリノに直行するバスではなく路線バスだった。サンマリノまでは5ユーロ。バスはリミニ市内で3、4回停まり、郊外で2回ほど停まった。一応これでも国境を超える国際バスである。

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サンマリノを歩いてみた

 ミリ二9:25発 → サンマリノ10:15着

 40分ほど走ったところで、バス前方の奥に岩山とそれを囲む家々と城壁らしいものが見えた。サンマリノのようだ。バスは山を上り始め家々の間をしばらく走り、下界を見渡せる広場にあるバス発着場に着いた。車はこの広場までしか入れないようだ。

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 バスの外は冷気に満ちていた。広場はテラスのようになっており、ミニチュアのような町と村が見えた。

 広場の階段を上がりサン・フランチェスコ門を抜けた。坂を上り小さなティターノ広場に出た。土産物屋やレストラン、カフェがあった。そこから共和国宮殿の下の坂を上った。

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 ゴチック様式の共和国宮殿は現在、サンマリノ共和国の政庁舎である。6月から9まではここで衛兵交代を見ることができる。宮殿の前にはリベルタ広場があった。多くの観光客が写真を撮っていた。

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 広場から下を見渡すことができた。風景の奥には灰色の雲があり、雲の下にはわずかに青味を帯びた細い線の海があった。

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 イタリアのクリスマス・シーズンは10月から始まる。サンタクロースが子供たちにお菓子を詰めた長靴をプレゼントするのはクリスマスから2週間後の1月6日(エピファニアの祝日)である。だから今日はクリスマスである。それはサンマリノでも同じだ。ツーリスト・インフォメーションにいた人たちはクリスマスの衣装を着ていた。あちこちにサンタの像やクリスマスを思わせる飾り付けがあった。

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 サンマリノは思った以上に狭い。意識的にゆっくりと周ったが、それでも見学スポットを次から次へと見ていくことになった。

 中心部に近いのが第1の要塞ロッカ(グアイダと呼ばれている)である。11世紀に造られた。ここには入れなかった。

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 標高749mのところにある第2の要塞チェスタの内部は博物館になっていた。鎧、刀、火器などの古い武器が展示されてあった。各地から集まられたものらしい。城壁の外側を歩くことができると館のスタッフが言ったので、扉を開けて出てみた。外の城壁の端っこから、かろうじて3番目の要塞モンターレが見えた。しばらく外にいて博物館内にもどろうとしたとき、扉が閉まっていた。私が開けて出て行ったことをスタッフは知っているはずである。自動的に閉まってしまう扉かのかもしれないが、スタッフが気が付くまでの3、4分間、私は博物館内にもどれなくなってしまった。

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 3番目の要塞はロッカ・モンターレである。ここまで歩く人は多くない。チェスタの塔の博物館を見たあと、みんな帰っていく。チェスタの塔からロッカ・モンターレの途中の道に店があるわけではない。2つの要塞を結んでいる道にはアップダウンがある。ロッカ・モンターレはなかに入ることができないというより、半ば放置されている状態だった。

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 3つの要塞はティターノ山の尾根の、3つの頂きにある。頂きは岩山で要塞はその上に造られている。尾根の少し下を石畳の巡回路がある。そこを歩いたわけだ。

 リベルタ広場までもどって、近くのカフェで軽食の昼ご飯。ハンバーグをはさんだサンドイッチ。

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 コレッジオ通りを下りてきた。通りには土産物屋やレストラン、カフェが多いのだが、それはコレッジオ通りに限らない。サンマリノのあちこちに土産物屋はある。切手や陶器などが多いが、コイン、ミニカー、腕時計、香水、刀剣、バッグ、キャラクターグッズ、人形など何でもある。種類は多いというよりとりとめがないという印象である。

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 1361年に建てられたサン・フランチェスコ教会に入った。サンマリノの起源は301年に始まるといわれているのだが、この教会が一番古いようである(よくわからない)。ここはサン・フランチェスコ門のすぐ近くである。ここまで下りてくるといつでもリミニにもどることができる。バスの発着場は近い。

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 サンマリノを出るときになって空の一角が開いた。青は自らの領域を急速に拡大していった。

 サンマリノ14:15発 → リミニ15:05着

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リミニを歩いてみた

 サンマリノの岩山を下り、リミニにもどってきた。

 リミニの街を歩いてみた。リミニ駅からまっすぐ南西に延びる通りを歩いた。その方向が街の中心のように思えたからである。

 駅周辺は殺風景な気がしないでもなかったが、ローマ通りを越えダンテ・アリギエーリ通りに入った辺りから、街に厚みが出てきた。方向はまちがっていないようである。

 いくつかの通りをジグザグに歩いてみた。Cavour広場、TreMartiri広場辺りがリミニの中心のようだ。リミニもクリスマスで盛り上がっていた。太陽が暮れていくにしたがって、多くの人が通りに出てきているようだ。

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 バスの窓から見えたアウグストゥスの凱旋門があった。この門がリミニの見どころのようだ。

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 DOVESIという店でピザ・カプリチョーザ。「シェフのおまかせ」というメニューである。昨日ボローニャで食べたピザ・ロマーナはかたちが雑で、焦げがあった。しかし昨日のピザは、どうだイタリアのピザはうまいだろうと主張していた、そんなピザだった。それにたいし、今日の「シェフのおまかせ」ピザは、しっかりきっちり料理しました、という感じだった。

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 そのあとWifiがつながるというカフェに入ったのにぜんぜんつながらなかった。

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 カフェを出たときは日が暮れていた。街にはクリスマスの灯りが点ったが、電飾の光が細く乏しく寒々しさがした。

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 リミニ駅の裏側を歩きジャミンホステルにチェックインした。

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19日目 2017年1月5日 チューリヒ ミラノ ボローニャ

チューリヒを去ることにほっとした 

 7:55頃、シティバックパッカーズビーバーをチェックアウトした。スタッフは8:00に出勤してくる。それ以前にチェックアウトしたい人は、鍵をポストに入れレセプション前にリネンを置いておくのはここのルールである。リネンはすでに何枚にも重なっていた。

 近くのコンビニエンスストアが8:00に開くことを知っていた。最初の客として入り、水のボトルとサンドイッチを買いイートインスペースで食べた。昨日書いたように。ここで買った場合の水のボトルは0.8スイスフランだが、チューリヒ駅では3~4スイスフランになる。サンドウィッチも2~3フランくらい高くなる。

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 昨日と同じようにニーダードルフ通りとリマト通りを北に歩き、バーンホフ橋を渡りチューリヒ駅に着いた。

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 列車の出発まで少し時間があった。駅の地下のカフェでコーヒーを飲んだ。ほんの少し安めだったが、それでも4.5スイスフラン。駅1階コンコースの雰囲気のよい昔風のカフェでは1スイスフランほど高くなる。

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 物価高のスイスを離れる。もっと早く離れたかった。

 列車のチケットには列車番号、席番号、発車時刻が印字されていた。

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 15 EC チューリヒ9:09発 → ミラノ12:35着

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スイスからイタリアへ

 チューリヒを出た列車は市内のトンネルを抜けたあと、左の車窓にチューリヒ湖を映していた。このまま走ると昨日行ったザルガンス方面であるが、列車はすぐにチューリヒ湖から離れた。次の停車駅はチューリヒの南にあるツークである。チューリヒとミラノは北南の位置関係にある。列車を山のなかを300kmほど南に走る。

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 1983年6月にスイスのローザンヌからイタリアのトリノまで列車に乗ったことがあったが、チューリヒからミラノまでは1980年8月の再現である。8月の緑あふれるスイスの深い谷を見下ろす列車の旅だったはずだが、頭のなかにあるぼんやりとした映像がそのときのものとは限らない。記憶は常に変質する。

 列車はトンネルだらけの雪山と雪景色のなかを走った。黒みがかった曇り空は遠い夏のあざやかな記憶を再現してくれなかった。2017年1月5日の旅の新たな印象を加えて終わってしまうかのようだった。

 それでも11:20頃、わずかにのぞいた光が湖を照らした。列車は湖と湖の間を抜けているようでその奥には窓の視界からはみ出した、高い山があった。

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 列車には電源コンセントがあった。Wifiが使えるメッセージは出ていたが、電波は飛んでいなかった。

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おまけの国たち、ベルギー、フランス、スイス、イタリア

 ルクセンブルグ、リヒテンシュタイン、サンマリノに行こうと思っただけである。ルクセンブルグに国際空港はあるがLCCは飛んでおらず、他の2ヶ国は空港がないのだから3国へのアクセスは陸路になる。それらをつなぎ合わせると、ベルギー、フランス、スイス、イタリアを通過しなければならなくなった。

 つまりベルギー、フランス、スイス、イタリアの4ヶ国は完全なおまけである。ベルギー1泊、スイス2泊はルート上避けられなかった。そしておまけのイタリアには6泊することになるだろう、少々困っている。

 LCCにはLCCの都合というものがある。ひまわりにはひまわりの都合があり目覚まし時計には目覚まし時計の都合があり私には私の都合があるように。ひまわりが北を向くことができず(通説である)、目覚まし時計がセットした時刻と異なる時刻にアラームを鳴らすことができず、私に旅を止めることができないように、LCCがすべてのフライトを安くすることはできない。

 LCCの都合というのは、同じ路線でも飛んでいる日といない日があり、料金の高い日と安い日があるということである。そういったLCCの都合を考慮してフライトを探していくと、つまり安い路線の安い料金の日のフライトを探していくと、それによって必要以上に滞在が延びたりする。それがイタリアに6泊するようになった理由である。

 こうなると通過点ではなく、イタリアだけでちょっとした旅ができてしまう。ナポリまでいけるじゃないか、ということになる。しかしこの機会に乗じて手を広げすぎるとロクなことがない。シチリアには行ったことがなく、サンマリノに行ったあとにシチリアに行くシミュレーションをやってみたが、あちこちの滞在先を考えていたら、6日間でローマにもどってくることはできなかった。

 欲張らずにミラノからサンマリノまでの間とその周辺をキザんで旅することにした。長打を狙わずにシングルヒット、バンド、盗塁などを絡めた野球をするということである。そのほうが気楽であるし、この旅の主役の一角であるルクセンブルグとリヒテンシュタインとサンマリノのメンツをつぶさないで済む。

 どの程度に刻むのかというと、例えば東京から小田原、熱海、三島、沼津、静岡、掛川・・といったレベルである。常識的におもしろくない。しかし北イタリアのヒットエンドランの旅にも見どころはある。


こんなルートも考えた、あのときのセリアAと日本の司令塔への旅

 ペルージャ、ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナの順に旅することを考えてみた。ルートが途中で交わってしまうので旅のコースとしては現実的ではないが、日本の司令塔がセリエAに残した足跡を辿る旅はフットボールの旅である。

 1980年代の3度の旅で主な街を周ったあと、ほとんど興味をなくしたイタリアにまた興味を抱かせたのはフジテレビをはじめとする深夜のフットボール中継だった。デビュー戦においてユベントスのゴールを2度揺らしたシーンは鮮烈で衝撃的であった。すべてはそこから始まった。

 このときジダンとは再会となったはずである。フランスワールドカップの前に行われた世界選抜対ヨーロッパ選抜の試合がジダンとの最初の出会いである。世界選抜側の、途中から右サイドバックで起用された韓国代表ホン・ミョンボは同じく途中起用された日本の司令塔に、つまり当時の湘南ベルマーレのチームメイトに何本ものパスを出した。よくやってくれたミョンボ。そして不本意に起用されていた右サイドハーフのポジションから日本の司令塔はしばしばピッチの中央に進出した。自然で軽快な動きだった。そのとき前線でパスを待っていたのは2人のビッグネームである。日本の司令塔は、バティストュータとロナウド(ブラジル代表)に何本かの巧みなパスを配給したのだった。

 試合後、パスを出してくれた日本のフットボーラーの名前を、2人は記憶しなかっただろう。それはヨーロッパ選抜の主将を務めたジダンも同じだったはずだ。しかしフランスワールドカップののちのセリエA、弱小チームであるペルージャとの一戦で、ユベントスの主将の脳裏に、2点を叩き込んだ日本のジョカトーレの名前が記憶されたはずである。

 本来、この単なるエキジビション・マッチを取り上げる意味はない。しかしこの試合にはみんないた。見事なくらいみんな勢揃いしていたのである。前述の4人以外には、ロナウジーニョ、バッジョ、デルピエロ、トッテイ、ゾラ、ブッフォン、バラック、ラウル、デコ、シェフチェンコ、エトー、カカ、カフー、ルシオ、アドリアーノ、ベッカム・・・。そうだロベルト・カルロスはいなかった。それはそれはもうあまりに強烈なメンバーのなかに日本の司令塔はいたのである。

 毎週にわたって深夜に登場してくる対戦チームの地名を地図で探した。イタリアで関心のある街はセリアAに登場してくるチームのある街になっていった。


ミラノ駅からイタリア旅事始め

 列車がイタリアに入ってから検札があった。この列車では2度目である。

 インテルとミランのあるミラノ中央駅に着いた。長友佑都と本田圭佑の街である。

 ミラノ中央駅は古いヨーロッパの雰囲気を十分に残していた。それはチューリヒ駅と同じであるが、ややざわざわした感じはここがイタリアであることを表現していた。陽気な中年男と気むずかしそうなおばさんたちがミラノ中央駅にあふれていた。チューリヒのクールなビジネスマンたちとは異なる雰囲気を醸し出していた。

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 チューリヒからの列車は定時着だった。乗り換え時間は45分あった。ボローニャ行き列車のホームはすぐに見つかった。この列車のチケットにも列車番号、席番号、出発時刻が印字されている。イタリアの列車はユーロシティ、ユーロナイト、ユーロスター、インターシティ、エスプレッソ、デイレット、レジョナーレ・ヴェローチェ、レジョナーレ8種類あるのだが、乗る列車がどれに当たるのかわからない。


フレッチャロッサでボローニャへ

 9533 FR  ミラノ13:20発 → ボローニャ14:22着

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 バーゼルで予約したイタリア国内の列車は、FR(フレッチャロッサ)だった。「赤い矢」の意味で、最高速度が時速300kmである。

 どうやら私はバーゼルで、“どえらい列車”を予約してしまっていたのだった。この列車はトリノ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、サレルノで運行されているらしい。日本でいえば「のぞみ」である。2等とはいえ、料金が高いわけだ。列車はナポリ行きだった。停車駅はボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリのみである。

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 セッテベロというイタリアを代表する高速列車があった。ミストラル(フランス)、カタラン・タルゴ(スペイン)と並ぶTEEの看板列車の1つだった。2ヶ月間有効のユーレイルパスでヨーロッパを旅したとき、このセッテペロだけを乗り損ねた。

 フレッチャロッサの最高時速は293kmだった。スピードを上げた列車は横揺れを繰り返していた。

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 車内のモニターに列車の位置情報が地図に表示されている。ボローニャ中央駅までもう少し。
 
 到着予定時刻のボローニャの気温は6℃の予想。

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ボローニャに着いた

 宿泊先であるウィーボローニャはボローニャ中央駅から遠く離れてはいない。ただ、駅の裏側に位置するので、まずその裏側に出ることに注意した。駅裏の線路に沿ったデ・カッラッチワー通りを西に歩き、線路を越えたところを北に歩いた。ここもデ・カッラッチワー通りだった。

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 予約直後、ウィーボローニヤからは3回ほどメールが届いていた。やっかいなメールではない。宿泊先として選んでくれてありがとうといった感謝の趣旨のメールである。途中のキャンセルを防ぐ意味でもある。

 ウィーボローニャはすぐに見つかった。チェックインしてリュックをロッカーに放り込む。今日は1部屋4ベッドである。部屋にトイレもシャワーも付いており、きれいである。ここまでの旅で最高の宿泊先である。1泊21.5ユーロ。

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ボローニャを歩いてみた

 すぐに外に出た。来た道を駅までもどり、ボローニャ中央駅の地下のホームを通り抜け表口に出た。バスに乗ろうかどうか迷ったが、バスを探している間に10分歩けると考え、街の中心に向けて歩くことにした。

 南のほうに歩けばいいだけだ。インデイペンデンツァ通りという、アメリカの映画のタイトルのような通りに入った。歩道は古さに満ちた厳かなアーケードになっていた。華麗さでミラノには劣るが、厳かさでは日本の商店街のような雨除けのアーケードの敵ではない。

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 マッジョーレ広場が見えてきた。ここがボローニャの中心である。見どころはすべてこの周辺にあるので、観光は楽である。

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 レイキャビク、ダブリン、ルクセンブルグ、リヒテンシュタインと随分南下してきた。陽は長くなってきているし、なんとか陽が暮れるまでに周ることはできるだろう。

 広場に市庁舎(コムナーレ宮)があるのはヨーロッパの街のお約束である。日本は街道の文化であるが、ヨーロッパは広場の文化である。アゴラはギリシャが発明しローマが発展させた。フランスは自分たちがその正当な嫡子だと思っている。今日フランスのプライドを支えるのはその点だけだろう。長い間シュヴァルツヴァルトにいた野蛮な森の民ゲルマンにたいし、フランスはそういう区別の付け方をしている。

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 サン・ペトロ二オ聖堂に入った。内部を撮影する人は2ユーロ払いなさい。昨今のヨーロッパの大聖堂には困ったものである。大聖堂や教会の維持費を捻出する方法を模索していることが浮き彫りである。博物館風にしたり鐘楼までエレベーターを設置し展望料金を取ったり写真撮影費を請求したり、知恵を絞っている。

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 ポデスタ館は神聖ローマ帝国皇帝の任命した都市長官の住まいだったところである。フレデリック1世の命でやってきた長官をボローニャ市民が追い出し、自由都市ボローニャが誕生した。エンツォ王宮殿は皇帝フレデリック2世の子供が幽閉されていた場所である。ともにボローニャの歴史と密接な関係がある。

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 アルキジンナージオ宮はボローニャ大学だった場所である。

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 サン・ドメ二コ教会はその素朴な外観とは異なり内部は新しかった。ドメニコ会の創設者のドメニコを祀っている教会である。

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 ピサの斜塔に上ったことがある。欄干のない、らせん階段(だったのか坂だったのかを覚えていない)を上った。ボリーニャの斜塔のほうが傾いていた。高い塔(アシネッリの塔)と低い塔(ガリセンダの塔)がある。低いほうは傾き過ぎたので少し削ったらしい。高い塔の下は60人ほどの行列ができていた。待ち時間は1時間ほどのようである。

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 サン・ジャコモ・マッジョーレ教会はピサの斜塔の東北側にあった。美しい装飾の教会だった。

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 17:00頃、すっかり暗くなった。食べるところを探しながら、ボローニャ中央駅まで歩いてきてしまった。

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 ボローニャ中央駅に、旅行者を対象にした注意喚起のリーフレットがあった。日本語と中国語は同じ冊子になっていた。項目は10項目に及ぶ。

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 リーフレットのなかの2項目を取り上げてみる。わざわざこういうことを書かなければいけないところに深刻さがあるのかもしれない。

 典型的なスリの「労働」環境(ホールおよびロビー、切符売り場、セルフサービス・エリア、鉄道の到着・出発プラットホーム)ではお気をつけ下さい。スリがよく好むのは混雑した場所です。

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 セルフサービスの券売機を使用する際には周囲にご注意下さい。財布を覗かれないように、購入代金は前もって準備しておきましょう。

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 駅の中の自動券売機で、明日の列車のチケットを購入した。自動券売機は使いやすくできていたが、時間がかかる。イタリアでは列車の予約は基本(そうでない列車も多くある)なので、乗車日の決定までを原則として行わなければならない。ときとして列はなかなか進まない。普通列車の予約は簡単なようだが、優等列車の場合は1本の列車のなかでも選択肢が広がるようだ。

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 ピザを食べようと思っていた。駅の近くのBAR BIANCOという店でピザ・ロマーナを注文した。ローマ風ピザである。ピザだけなら9ユーロである。イタリアの物価は高くない。スイスの半分くらいである。

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ホステルで聴こえてきた♪戦場のメリークリスマス♪

 ウィーボローニャにもどった。22:30頃、旅日記を書きながらロビーで紅茶を飲んでいた。どこかで聴いた音楽が流れてきた。♪戦場のメリークリスマス♪だった。

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 1980年ドーバー海峡を渡る船が出るオーステンデ(ベルギー)の港で、今YMOがロンドンに来ているとイギリス人が言っていた。

 1983年『Furyo(=俘虜)』という映画がフランスで公開された。『戦場のメリークリスマス』のことである。『俘虜』は大岡昇平の小説のタイトルでもある。

 映画『Furyo(=俘虜)』(=『戦場のメリークリスマス』)は映画『泥の河』(原作/宮本輝)といっしょに上映されていた。スクリーンのなかで、デビットボウイは英語で、たけしと坂本龍一は日本語で話し、字幕はフランス語だった。上映が終わったとき、サンジェルマン・デ・プレの映画館の観客は立ち上がり拍手を送った。映画館にいたおそらく唯一の日本人である私にフランス人たちから声が掛けられた。映画はル・モンドをはじめとした新聞各紙が絶賛し、ラジオでは毎日何度も坂本龍一が流れていた。それが1983年のフランスにおける日本だった。

18日目 2017年1月4日 チューリヒ ザルガンス ファドゥーツ(リヒテンシュタイン)

ザルガンス経由でリヒテンシュタインへ

 7:10頃、シティバックパッカーズビーバーを出た。まだ目が覚めていないニーダードルフ通りには雪がちらついていた。寒く暗い1日になりそうだ。リマト通りを北に歩きバーンホフ橋を渡り巨大なチューリヒ駅に着いた。

 掲示されている時刻表でザルガンス行きの時刻を確認した。時間帯によって異なるが、ザルガンス行きの列車は8:00台には3本あった。IC、ICE、REといった名称の列車が付いていたが、ICがインターシティであること以外はわからない。8:00頃に地上6番ホームに入線してきた列車に乗った。チューリヒ駅の地上ホームは行き止まりになっており、その駅ホームから直接外に出られる。ホームが外とつながっている構造になっている。上野駅も10年くらいかけ、こういった大改造を行ったほうがいいかもしれない。列車はクール行きのICだった。

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 チューリヒ8:07発 → ザルガンス9:02着

 チューリヒ駅を出た列車は市内をトンネルで抜け、チューリヒの南から南西に延びる三日月型のチューリヒ湖に出た。2階建て列車の2階の進行方向に向かって左側に座った。粉雪が舞っている湖は黒みを帯びた灰色を車窓に見せていた。36年ぶりにやって来た旅人を歓待する態度ではない。

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 しばらくして列車はヴァレン湖の南岸を走り出したが、風景は同じである。  
 
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 ザルガンス駅の前にバスの発着場があった。5路線ほどの、直近のバスの発車時刻が電光掲示板に表示されていた。その1つにファドゥーツを経由するものがあった。リヒテンシュタインバス11番に乗り込んだが、ドライバーはいなかった。1人だけ乗っていた乗客に尋ねてみると、ファドゥーツ行きのバスでまちがいないらしい。スイスとリヒテンシュタインの国境を越える路線バスである。

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 しばらくして乗り込んできたドライバーに、フォドゥーツ・ポストで停まることを確認した。バスは小さなホテルがいくつかあるザルガンス駅前を抜け、住宅と田舎の入り混じった風景のなかに入っていった。

 リヒテンシュタインバスは外装も内側も新しかった。行先表示と次のバス停案内のアナウンスは完璧だった。


リヒテンシュタインの首都を歩いた

 ファドゥーツ・ポスト・バス停で下車した。そこにヨーロッパの古い街並みはなかった。洗練されていたというにはかなり物足りない。今のヨーロッパのちょっとした街ならどこにでもある、商業地域と住宅地域の混じった区域だった。

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 バスが走って来た通りの東側を南北に走るシュテットル通りに出た。

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 切手博物館に入ってみた。切手で有名なリヒテンシュタインの国家収入の1割は切手関係によるものである。世界中の切手が展示されてある、壮大なものを期待したわけではないが、拍子抜けするほど小さな博物館だった。

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 3階はKunstraumという現代アートの展示館のようだったが、展示はすべてはずされていた。

 近くに似たようなスペルの、Kunstmuseum現代美術館があった。1階はカフェになっていた。

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 現代美術館の近くのカフェに入った。オムレツ、コーヒーを注文した。パンにはさんだオムレツが運ばれた。まろやかで甘味が少し口に残る、食べたという感じのするオムレツだった。コーヒーはフランス風だった。リヒテンシュタインの通貨はスイスフランである。日本円で2,025円。物価はチューリヒより高いようだ。

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 街の東側は山になっている。その中腹にあるのがファドゥーツ城である。なかには入れないようなのだが、城のある高さまで上ってみたい。

 坂道は山肌を蛇行しながら上に続いている。山の外周をぐるりと周るということはなく、常に西側が見える側面のみを蛇行しながら上っていくので、途中のほとんどで街は見えている。山の中腹にある古い城が見えてきた。現在でも侯爵が住んでいるらしく門には鍵がかかっていた。

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 風景は素晴らしかった。山と街は雪によって細部の輪郭を強調されその特質を際立たせていた。ブリューゲルの絵のようだった。

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 街中を歩いてみた。中国人の観光客が目立っていたが、際立っていたわけではない。

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 地元の人が多いわけではない。何もない首都である。


リヒテンシュタインからスイスへ

 これ以上ファドゥーツにいても仕方ない、そういうふうな街並みである。チューリヒにもどることにした。日中のザルガンス行きのバスは1時間に4~6本ある。

 ファドゥーツ・ポスト(バス停)13:40頃 → ザルガンス14:13着

 途中の車窓に城が見えた。この風景が一番よかったかもしれない。

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 ザルガンス駅前を歩いているうちに、チューリヒ行きを逃してしまった。

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 そのすぐあとの列車に乗ることはできた。14:00台のチューリヒ行きは3本あった。

 RJ160 ザルガンス14:25発 → チューリヒ15:20着

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チューリヒで

 みぞれがチューリヒ駅に降り注いでいた。大聖堂まで行く時間はあったが、止めた。旧市街つまりニーダードルフ通りを適当に歩くことにした。どこにどういう店があるのかをあらかた覚えてしまった。

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 トルコ系のレストランに入った。ライス付きのケバブを注文した。ビールを加えると、23.2スイスフランだった。日本円で2,600円くらいである。軽く食べるつもりで店に入っても、チューリヒで2,000円以下の食事はできない。

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 チューリヒ駅で水のボトルを買えば3~4スイスフランである。安いコンビニエンスストアを見つけた。水のボトルとワッフルを買った。水のボトルは0.8スイスフランだった。ベルギーでもそうだったが、ワッフルは安かった。1.8スイスフラン、これでも安いのである。

 シティバックパッカーズビーバーの狭いラウンジではみな何かを食べていた。タイ人の女の子はチキンを食べながら牛乳を飲んでいた。チューリヒでの食事料金はバックパッカーを直撃していた。

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