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アジアンカフェをよろしく!

旅の夢をみよう いつかその場所を訪れるまでは  /  旅はヒーローになれる! 初めての街にはその舞台が用意されている。
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21日目 2017年10月24日 マニラ 成田

1日遅れのフライトで日本へ

 ジェットスターGK40 マニラ・ニノイアキノ空港 0:40 → 成田国際空港 6:05

 マニラからポートモレスビーに行くエアニューギニアの機内で映画『オデッセイ』を観た。同じ機内で観た映画『ワンダーウーマン』のほうがおもしろかったが、『オデッセイ』も劣らなかった。火星に取り残されたマット・デイモンが地球に帰還するプロセスを撮った映画である。人類の知力とアドベンチャースピリットが合わさったような映画だった。マット・デイモンの地球帰還に比べれば、私(アジアンカフェ)の日本帰国など取るに足らない。

 難易度を比較してみた。

 難易度AAAAA      オデッセイ  が地球に帰る(2015年公開)
 難易度   BB 怪我した オットセイ  が海に帰る(2015年4月/アクアワールド大洗水族館) 
 難易度    C(アジアン)カフェッセイ が日本に帰る(2017年10月24日/ジェットスター)

 GK40はほぼ定刻に成田国際空港に着いた。早朝の滑走路の空気はひんやりとしていた。

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 GK40は成田国際空港の着陸1番機である。なお同時刻着として次の2機がある。

 ジェットスターGK12  台北 2:00 → 成田 6:05 
 バニラ・エア JW100 台北 2:00 → 成田 6:05 


旅のまとめ/フライトについて

 成田・マニラ間の、ジェットスターのチケットを購入したのは4月中旬である。最初はフィリピンにだけ行こうと考えていた。マニラからモルディブまでの航空料金がそれほど高くないことを知ったのは7月で、その区間の予約をしたのは8月末である。この航空券の往路復路でそれぞれ1日分のシンガポールの滞在ができたが、シンガポールに興味があるわけではなかった。往路復路それぞれでシンガポールという名の無駄な1日を過ごしたと思っている。

 10年以上前からパプアニューギニアに行きたかった。できればインドネシアから陸路で入りたかった。ただ陸路で国境を越えてもその先に道路はなく、ポートモレスビーに行くためには国境を越えた先の町で飛行機に乗るしかなかった。ブリスベンから比較的安いフライトがあったが、わざわざオーストラリアに行く気はなかった。マニラからの航空券を何度かチェックをしていたが、9月になってマニラからポートモレスビーまでの航空券が少し安くなっていた。

 すべての費用を含む航空料金は以下の通りである。

 ジェットスター   成田 ⇔ マニラ            往復 15,180円
 スクート      マニラ ⇔ シンガポール ⇔ マーレ  往復 34,843円
 エアニューギニア  マニラ ⇔ ポートモレスビー      往復 58,948円

 スケジュールは以下の通りである。8本のフライトを利用した。

 10月 4日 ジェットスター  成田       23:50 → マニラ     23:25
 10月 5日 スクート     マニラ      22:10 → シンガポール   1:50(+1) 
 10月 6日 スクート     シンガポール   18:25 → マーレ     20:05
 10月 9日 スクート     マーレ      21:10 → シンガポール    4:55(+1)
 10月10日 スクート     シンガポール   17:50 → マニラ     21:30
 10月11日 エアニューギニア マニラ      21:25 → ポートモレスビー 5:00(+1)
 10月14日 エアニューギニア ポートモレスビー 16:50 → マニラ     20:10
 10月24日 ジェットスター  マニラ       0:40 → 成田       6:05

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旅のまとめ/ホテルについて

 費用については日本円表記とした。

 21日間の旅のなかで飛行機内泊が3回、空港泊が1回、バス泊が1回あった。宿泊費用をカットできたので、ドミトリーには宿泊せずにシングルルームに泊まった。フィリピンの田舎の町にドミトリーはないが、マニラには安いドミトリーが多くできている。かっては考えられなかったことだ。ドミトリーの宿泊料金の最安値は1泊800円前後である。

 マニラ       エアポートトラベルロッジマニラ     /2,966円×1泊(シングル)
 シンガポール   *スクート(TR2727)        /機内泊   
 マーレ       オフディイン              /4,519円×1泊(シングル)
 マーフシ島     マーフシイン              /3,440円×2泊(シングル)
 シンガポール   *スクート(TR2509)        /機内泊     
 マニラ       ノマズMNLバックパッカーズホームスティ/1,875円×1泊(シングル/民泊)
 ポートモレスビー *ジャクソン空港             /空港泊
 ポートモレスビー  エンシシハイツ             /7,835円×2泊(シングル)
 マニラ       ノマズMNLバックパッカーズホームスティ/1,875円×1泊(シングル/民泊)
 マニラ→アパリ  *ビクトリーライナー           /夜行バス
 トゥゲラガオ    タージ・ホステル&レストロ・バー    /1,890円×2泊(シングル)
 ダウ        ブリスホテル              /3,283円×1泊(シングル)
 オロンガポ     ACME・イン・スービック       /2,205円×1泊(シングル)
 マニラ       ホームタウンホテル・マカテイエドゥサ  /2,646円×3泊(シングル) 
 マニラ       レッドプラネット・オルティガス・マニラ /2,645円×1泊(シングル)
 マニラ      *ジェットスター(GK40)       /機内泊

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 ポートモレスビー(パプアニューギニア)のホテルは高い。2軒あった民泊はもう少し安かったが、中心部から離れすぎていた。そこはバス路線がありそうではなかった。もっとも宿泊先のエンシシハイツの近くをバスが走っているかどうかはわからなかった。

 オフディインはマーレのなかで最安値である。もう少し安い宿泊施設はフルマーレ(空港のある島)にある。

 マーフシインはマーフシ島のなかで最安値である。110の島に高級リゾートが110あるモルディブにおいてマーフシ島だけはバックパッカー風のリゾートである。

 マニラのノマズMNLバックパッカーズホームスティは民泊である。ホームタウンホテル・マカテイエドゥサ、レッドプラネット・オルティガス・マニラは新しいホテルで快適だった。たまたま2つのホテルの料金はほぼ同額であるが、次に泊まる機会があればレッドプラネット・オルティガス・マニラを選ぶだろう。
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20日目 2017年10月23日 マニラ 

2日目の延泊はできなかった → ホテルを変えることになった

 帰国日は最初の予定から4日後の10月27日になってしまった。合計4泊分を延長しなければならない。昨夜2泊目の延泊を伝えたとき、空室はないと言われた。

 9:00前にもう一度レセプションに確認した。空室はなかった。

 部屋にもどってネットでホテルを検索した。ブッキングドットコムで新しいホテルは簡単に見つかったが、近隣のホテルではない。MRTに乗らなければならない。

 10:00前にホームタウンホテル・マカテイエドゥサをチェックアウトした。

 アルファランド・サウスゲイト・モールに入るのは6回目である。どこにどういう店がありトイレがどこにあるのかを覚えてしまった。

 1階にあるHighlands Coffeeで朝ご飯。釣りをコインのセットでもらった。やれやれ。帰国が10月27日に延びた状態だから使い切れるだろう。

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 アルファランド・サウスゲイト・モール内では30分間Wifiにつなぐことができる。ジェットスターのHPにアクセスしてみたが、10月27日以前の成田行き、関空行きのフライトに空きはなかった。

 MRTマガランス駅からLine3のノース・アベニュー行きに乗った。5つ目のショー・ブールバード駅で下車した。

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 駅を出てショー・ブールバードを南東に歩いた。周辺はビジネス街でマニラの猥雑さはない。500mほどのところにレッドプラネット・オルティガス・マニラがあった。1泊1,202ペソ(≒2,645円)。とりあえず1泊する。チェックイン時点で明日の空室があることを確認した。

 レセプション周辺も部屋も清潔できれいである。一番気にしていたWifiはスピードも速く問題なくつなげた。ネットに接続できなければこのホテルに泊まる意味はない。

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10月24日0:40発のGX40の席を確保できた

 ダメ元であるが、ジェットスターのHPにアクセスした。10月27日より前のマニラ・成田便、マニラ・関空便の空きはなかった。ちなみにマニラ・関空便に空席はあっても、接続する関空・成田便に空席がないとジェットスターは再振替をしてくれない。

 16:00過ぎ、突然の空席が出た。昨日と同じ10月24日0:40発のマニラ・成田便である。

 一瞬どうするか迷った。8時間後のフライトである。チェックインしてから2時間ほどしか経っていない。

 HPの予約画面をそのままにした状態で、ジェットスターのスカイプに接続した。ガイダンスのセグメントが始まったところで【1】【3】【2】【2】の順に数字を押した。時間短縮のための、この順番を覚えてしまった

 15分で切れた。再接続。10分くらいでつながった。昨日とは別のスタッフが出てきた。

 台風の影響で今日の0:40発のマニラ・成田便が欠航になったこと、マニラのホテルに2日目の延泊をしていること、現在10月24日(明日)0:40発のマニラ・成田便に空席がでていること、一度振り替えた10月27日の成田行きの再振替が可能であると昨日確認していることを話し、10月24日0:40発のマニラ・成田便の予約をしたい旨を伝えた。

 少し待った、スカイプが切れないことを願いながら。

 8時間後のフライトが予約できたことが知らされた。無料である。

 今のLCCはここまでやってくれる。ジェットスターに言いたいことはいろいろあるが、予約確認書を送ってもらうことだけ念を押してスカイプを切った。

 予約確認書はなかなか送られてこなかったが、ジェットスターのサイト内で予約の確認をしてみた。変更は完了していた。

 予約完了/ジェットスターGX40 10月24日 マニラ 0:40 → 成田 6:05

 4時間後にホテルを出ればよいだけだ。

 1階にあるレストランに入った。

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 部屋にもどったとき、予約確認書がメールで届いていた。


ジェットスターという会社

 ジェットスターという会社のスタンスがよくわかる出来事を翌日知ることになった。ここで書いておこう。

 成田・マニラ間のフライトを他のLCCと比較することはできない。比較すべき対象のフライトがないからだ。

 しかし、次の一覧を比較すれば、ジェットスターの体質が少しわかる。

 10月23日、成田空港に6:05に到着するのは3便あった。台風が関東南部を襲ったときの成田空港に着陸する便である。

 3便の着陸予定時間は6:05である。

 ①ジェットスター マニラ 0:40 → 成田 6:05 ← 私が搭乗予定だった便

 ②ジェットスター 台北  2:00 → 成田 6:05
 ③バニラ・エア  台北  2:00 → 成田 6:05 

 台風が関東南部にあったとき、上の3便はどうなったのか? 

 ①欠航       ジェットスター マニラ0:40 → 成田6:05

 ②欠航       ジェットスター 台北 2:00 → 成田6:05
 ③運航(5時間遅延)バニラ・エア  台北 2:00 → 成田6:05

 ジェットスターは2便(マニラ、台北それぞれから成田に向かう便)ともに欠航した。

 台北発時間、成田着時間ともに同じ運航をしている2社の対応は分かれた。ジェットスターは欠航したが、バニラ・エアは約5時間遅れで成田空港に着いた。

 今朝の成田空港は台風の影響がなくなった10:00頃から続々と飛行機が着陸をしていたのだ。台北からのバニラ・エアが成田空港に着陸したのはこの時間帯である。

 昨日も少し書いたが、よほど特殊な動きをしない限り台風が同じところにとどまることはない。バニラ・エアは遅延を決断したからこそ成田行きのフライトを欠航させずに台北桃園空港に待機させていた。正しい判断である。

 一般に国際線のフライトが欠航することは少ない。

 一方ジェットスターは台北・成田便の搭乗予定者に欠航の案内をメールした。マニラ・成田便の欠航案内のメールを私に送ったように。

 理由は1つしかない。台風を経営に利用したのである。

 台風のなか飛行機を飛ばせ、という乗客はいない。災害時において遅延は仕方のないことである。しかし災害には種類がある。地震災害などで空港機能が破壊され着陸あるいは到着後の手続きに支障がでる場合、飛行機は欠航(運休)になる。

 しかし前述のように台風は移動する。少し時間をずらせば空港は使えるようになる。しかしジェットスターは遅延させないで、25時間前に欠航の案内メールを送ったのである。マニラと台北にいる搭乗予定者に。

 メールの受信者は振替を余儀なくされた。他社便にではない。ジェットスター便に、である。JALやANAより安い料金でジェットスターに乗っている客は安易にJALやANAに振替はしない。

 ジェットスターは、欠航便の乗客が自社便に分散することを想定していた。マニラ・成田便のGX40あるいは台北・成田便の乗客たちは、その後の1週間の、同一ルートの便の搭乗率を100%にするために振り分けられたのだ。

 私が最もカチンときたのは、チャット「ジェッ太」のスタッフが「欠航はお客様の安全を考えてのものです」と書いたことである。「遅延」と「欠航」を手前勝手に混在させ、そこに「安全」をかぶせ、その「安全」を金科玉条の言葉として使ったことである。中途半端な解釈と恣意的な主張にはいくらでも反論できる。

 ジェットスターは今回の台風を有効利用し次の2つを実現した。

 1.欠航便によるコストカット
 2.自社便への振り替えによる搭乗率アップ(100%実現)。欠航日から1週間は満席になった。

 搭乗率100%からこぼれてきた1席を私はたまたま拾ったにすぎない。

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 国土交通省はこういう実態を掴んでいない。そう考える理由は統計データを収集していないからである。

 国土交通省のHPのなかに「航空輸送サービスに係る情報公開」のデータがある。国土交通省は特定本邦航空運送事業者を対象にしたデータ収集を4半期ごとに実施している。特定本邦航空運送事業者とは日本航空、全日本空輸、日本トランスオーシャン航空、スカイマーク、AIRDO、ソラシドエア、スターフライヤー、ピーチ、ジェットスター・ジャパン、バニラ・エア、春秋航空日本の11社を指す。データは日本国内の路線を対象にしており、欠航率、遅延率(15分以上)、運賃関連情報などがわかるようになっている。そこでおかしなデータが出てくれば(申告が正しいという前提であるが)、行政指導をすることができる。しかしデータはすべて国内便を対象としたものである。

 国際線の遅延率、欠航率のデータを国土交通省は持っていない。

 送られてきた欠航の案内メールの主はジェットスター・エアウェイズ(オーストラリア本社)である。統計データを国土交通省に提出しているジェットスター・ジャパンではなかった。


チェックアウトそしてニノイアキノ空港へ

 レッドプラネット・オルティガス・マニラは快適なホテルだった。

 19:00前レセプションの前に立った。チェックインを受け付けてくれた人はまだいた。

 チェックアウトします
 予定が変わったのですか?
 そうです フライトが取れたので

 多忙なビジネスマンみたいじゃないか。リュックを担いでいるけれど。

 7時間前に歩いたショー・ブールバードを歩いた。

 MRTショー・ブールバード駅でLine3に乗り、終点のタフト・アベニュー駅で下車した。いつ来てもこの辺りの乗り換え通路は人でごった返している。LRTエドゥサ駅の脇の歩道橋を渡りエドゥサ通りを西に歩いた。この通りのバス停からニノイアキノ空港に向かうのは2度目である。

 夜になってエドゥサ通りの車の通行量は減ったようだが、バスの発着は昼間より増えていた。バスは決まった場所に停止するわけではない。前のほうにバスが停まっていれば、次のバスはその後ろに停まる。その次のバスはさらに後ろに停止する。だから40~50mくらいの間にバスが連なっていることになる。昼間にはいなかった交通整理の係員が出動していた。

 係員に空港を経由するバスについて尋ねた。そのバスが来たら、教えると言ってくれた。助かった。12日目(10月15日)に幹線道路脇の長さ100mほどの間に2、3列に渡って縦列に着発する乗り場でアラバン行きのバスを探したことがあった。バスが来る度に前後に走らされた。

 私が場を離れていないかどうかを係員はちらちらと気にしてくれた。30分ほど経ったとき、近づいてきたバスを指して、あのバスだと言った。

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 礼を言ってバスに乗った。渋滞はいつもほどではなかった。

 思ったより早くニノイアキノ空港ターミナル1に着いた。

 ターミナル1内にカフェ、レストランはない。空港の敷地内の建物にテイクアウト専用のジョリビーともう1軒くらいの食堂はあるが、落ち着いてコーヒーを飲める場所はない。

 時間があるので、空港の敷地の外に出た。セブンイレブンに入った。2階のイートインスペースでコーヒーを飲んだ。フィリピンのコンビニエンスストアにおけるイートイン展開は日本より進んでいる。

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 21:30過ぎ、セブンイレブンを出た。

 ターミナル1のジェットスター・カウンターでチェックインは始まったばかりだった。

 出国審査を抜けスターバックスコーヒーに入った。

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19日目 2017年10月22日 マニラ

帰国便(マニラ・成田間)が欠航になった

 メールの着信時間は10月21日(昨日)23:41になっていた。内容を確認したのは翌22日(今日)00:10頃である。30分ほどのタイムラグが生じた。

 欠航 ジェットスターGX40 10月23日(明日) マニラ 0:40 → 成田 6:05

 今日は事実上の帰国日である。9:00頃チェックアウトするつもりでいた。一日中マニラのどこかで過ごし22:00までにニノイアキノ空港に移動する予定だった。「欠航」メールはそんななか届けられた。

 不意打ちであるとはいえない。

 台風21号について4日ほど前から知っていた。11月23日未明に関東地方に上陸するだろうことも知っていた。台風の進路をGX40が追いかけるかたちになる。GX40が成田空港に到着する頃、台風は関東南部を通過中である。

 この4日間ネットで台風情報を追っていたが、対策の取りようがない。2013年11月エルニドで895hpaの台風に遭遇したことがあったが(自衛隊がセブ島経由でレイテ島に入って救援活動を行った)、今回の台風21号はフィリピンの東の海域で発生し北上したので、フィリピン人はこの台風の存在を知らない。

 遅延は想定内である。10時間程度の大幅な遅延はあり得ると思っていた。

 欠航は想定外である。メールは遅延ではなく「欠航の知らせ」だった。キャッチャーミットで構えていたら、サッカーボールを受け取るはめになってしまった。キャッチャーミットでサッカーボールをキャッチできない。


代替便の案内が中途半端

 メールに記されていた代替便の案内にはアドレスがあった。代替便への振り替えの専用サイトらしい。アドレスはメールを受け取った搭乗者だけがアクセスできる画面である。

 アクセスすると代替便の案内があったが、選択肢は十分ではなかった。

 1.別のフライトを新たに設定していない ← これが最大の問題である。

 2.ネット上で振替が可能なのは毎日1便あるマニラ・成田便だけである。
   ・この時点で翌日から3日後まで(24日~26日)のマニラ・成田便に空席はなかった。

 3.マニラ→関西国際空港→成田への変更は、電話による受付となっていた。電話は2系統ある。
   ①スカイプ利用の日本語対応9:00~21:00
   ②直接電話による英語対応24時間OK

 4.チャット(ジェッ太)で質問を受け付けていた

 5.メール内に「今回の(欠航便)対応に不満がある場合は、下のURLに連絡してください」という案内があ
  った。
   ・違和感のある文章である。サービスの一環といえなくはないが、普通は「今回のこと」を指定してこの種
    の案内は出さない。あらかじめ不備があることが想定されている。想定しているのなら不備をなくすべき
    である。

 この時点で可能な代替便は以下の通りである。

 1.マニラ・成田    → 10月27日(4日後)以降への変更はできる。ネットで変更可。
 2.マニラ・関空・成田 → 10月24日(翌日)、25日、それ以降への変更はできる。電話で変更可。

 
マニラで96時間待ちか!

 関西国際空港経由でもよい、早く帰りたい。ポートモレスビーから続いている咳は治っていない。帰国したその日に病院に行こうと思っていた。

 現在0:15過ぎである。この時間帯でスカイプは利用できない。24時間対応だと書かれていた電話番号には国番号が併記されていなかった。どこに(どの国に)つながるのかわからない。日本語で書かれていたので、日本から掛けたときにオーストラリアあるいは別の国のコールセンターにつながるかもしれない。

 電話を掛けたが、つながらなかった。2度目も同じである。わかったのは、日本で契約したスマートフォンから24時間対応の電話が使えないということだけである。

 仕方がない。電話での関西国際空港経由の予約を捨て、ネットでマニラ・成田便を手配することにした。ぐずぐずしていては4日後の10月27日のマニラ・成田便が満席になってしまう。それに9:00まで待ってスカイプにつなげたとしても、24日あるいは25日の関西国際空港経由の成田行きの予約ができる保障はない。

 ネットで10月27日のマニラ・成田便の予約はできた。

 予約完了/ジェットスターGX40 10月27日(4日後) マニラ 0:40 → 成田 6:05

 飛行機の欠航・遅延分野において私はちょっとしたプロである。

 1位 ナンディ(フィジー) → タラワ(キリバス)   [77時間30分後出発]
 2位 ポートビラ(バヌアツ)→ ホアニラ(ソロモン諸島)[55時間   後出発]

 大きな欠航・遅延トラブルは南太平洋で発生していたが、記録は塗り替えられようとしていた。特筆すべき点はそれが北太平洋で起きようとしていたことである。

 ジェットスター マニラ → 成田 [96時間後出発 予定] 一躍1位候補に躍り出た。

 ビザなしでのフィリピンの滞在は21日間までが許可されている(とこの前まで思っていた)。このことを考慮して20日目で帰国するフライトを選んでいた。フィリピンでのビザなし滞在が30日間までに変更されたのを知ったのは1ヶ月ほど前だった。もし21日間のままだったら、夜が明けてから私がしなければならないことはイミグレーションでの滞在の延長申請である。

 メール着信の時刻は 23:41
 メールを読んだのは  0:10頃
 予約完了は      0:40頃

 上の3行の時刻は日本時間である。パソコンは日本時間のままで動いている。

 今できるのはここまでであるが、できることはもう少しある。それは睡眠後ということになる。


1泊分の延長をした

 ねじまき鳥は時間のねじを回したようでマニラにも朝がやって来た。

 どこかで朝ご飯をゆっくり食べるわけにはいかない。

 今日やること「その1」は宿泊の延長である。部屋のドアを開けたところにレセプションがある。1泊分の延長をした。

 「その2」はスカイプでジェットスターと通話することである。


スカイプはつながらず

 ジェットスターのサイトにあるスカイプは「9:00~21:00対応」となっていた。日本語で記載されているのだから、日本時間で9:00(=フィリピン時間8:00)と考えていいだろう。しかしマニラ・成田便の搭乗者を対象に送られたメールに記されていたアドレスから振替専用サイトに入ったのだから、フィリピン時間の9:00である可能性がなくはない。フライトの変更を強いられた人は全員フィリピンにいる。ジェットスターの対応は繊細さに欠けている。

 8:00頃スカイプにつないでみたが、時間外だった。日本時間の9:00開始であること、スカイプ自体に問題はないことがわかった。

 9:00前、準備は整った。ワンクリックすればつながる状態にした。指をリターンキーの上3mmのところで待機させた。

 9:00:00、♪世界中の誰よりきっと♪ 速くうまくスカイプをクリックした。

 9:00:01、つながらなかった。

 「そのままお待ちください」と「ジェットスターの意味のない宣伝文句」が繰り返された。想定されていたことだったが、本当に想定していたのなら時間を有効に使うべきだった。待っている時間に歯磨きをすればいいじゃないか。歯磨きは8:00頃終わっていた。まだまだ甘かった。

 40分後ぐらいに回線が切れた。ネット環境はわりと整っているホテルであるが、完璧ではない。回線が切れる本当の理由を誰が知っていよう。妖精が邪魔をしていることだってある。

 一からやり直す必要はなかった。スカイプからはアナウンスが流されていた。「日本語を希望する方は【1】を押してください」「予約の変更などを希望する場合は【3】を押してください」といったようなガイダンスである。【1】【3】【2】【2】の順に数字を押し1分28秒短縮した。

 「そのままお待ちください」と「ジェットスターの宣伝文句」は何度も繰り返された。回線が不安定である以上、パソコンで余計なことをするわけにはいかない。つまりスカイプをつなぎながら、他のサイトを閲覧してパソコンとネットに負荷をかけるわけにはいかない。画面はジェットスターのスカイプ画面に固定している。

 そのままお待ちください
 そのまま待っている、パソコンの前で正座はしていないけれど。
 
 また30分くらいでスカイプは切れた。理由はわからない。妖精のせいではなく時空がゆがんでいるのかもしれない。


チャット「ジェッ太」の対応が悪すぎる

 ジェットスターは「ジェッ太」という名称のチャットを用意している。スカイプを止めて、チャットに切り替えた。

 最初につながるまで20分ほどかかった。

 会話の途中でチャットは一度切れた。しかし一からやり直したわけではない。客をセグメントするためのいくつかの質問への数字の押し方はわかった【1】【2】【1】【2】・・・。

 メッセージを送ったあと、返信を受け取るまで2,3分のこともあれば20分かかったこともあった。

 回線に不安がある状態で、返答時間が遅いのは困る。いつ切れるかわからない。妖精や時空問題がホームタウンホテル・マカテイエドゥサには存在する。

 途中で「返信を早くしてほしい」という文言をチャットに入力したら、担当者は「私は(何人かを)同時対応をしているので時間がかかることもある」と返ってきた。

 それはそうかもしれない。おそらく事実なのだろう。しかし自分の仕事の困難さをそのままの言葉で顧客にぶつけるのは、それ自体が仕事のできなさを証明するものになってしまう。そういうことがわかっていない。それ以前に、なぜこの問い合わせが発生しているのかを理解していない。

 こうも書かれていた「(欠航にする理由について)私たちはお客様の安全を最優先に考えてのことです」。

 台風で遅れるのは仕方がないことである。遅延の理由にはなる。誰も台風の真ん中に飛行機を飛ばせとは言わない。しかし欠航させる理由にはならない。なぜなら台風が一定の場所に止まるわけではないからだ。地震で空港設備が破壊されたわけではない。空港の着陸許可が一時的にでなくなっているだけである。国際線に欠航が少ない理由は最大限の調整をするからである。「遅延」にせずに「欠航」にしたことは航空会社の経営姿勢が問われるだろう(とチャットに書き込まなかったが、ジェットスターの体質に触れることになった。これについては再度書くことになるだろう)。

 航空会社にとって「欠航は非常事態」である。その認識はチャット「ジェッ太」にはなかった。

 いくつかのやり取りをしたが、「ジェッ太」は問題を解決する場所でないことが判明した。

 私は一度あきらめた。


ちょっと休憩 

 時刻は13:00前になっていた。

 ホームタウンホテル・マカテイエドゥサを出た。アルファランド・サウスゲイト・モールのなかにあるGudsilogという店に入った。

 定食が揃った店のようだ。バンガシロッグ(Bangsilog)はバンガス(フィリピンの代表的な魚)の料理である。シロッグはガーリックライスと卵のこと。骨は取り除かれておりサクサクと食べることができた。

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 スターバックスコーヒーに入った。ショッピングセンターのWifiに30分間接続できることがわかった。何気なくジェットスターのHPを覗いてみた。10月24日(明後日)マニラ・成田間のGX40が予約可能になっていた。誰かがキャンセルをしたのだ。

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 この場で10月24日のフライトを予約してしまった場合、あとから27日の代替便予約を取り消しできるとは思わない。


マニラ・成田便に空席発生! スカイプはONになった!

 パソコンをバッグにしまい急いでホームタウン・ホテル・マカテイ・エドサにもどった。ホームタウンホテル・マカテイエドゥサとアルファランド・サウスゲイト・モールホテルは徒歩10分の距離にある。

 部屋でパソコンをネットにつないだとき、10月24日のマニラ・成田便はまだ予約できた。予約できる席はおそらく1席だけである。

 ジェットスターのスカイプ画面を起動させた。25分くらいでつながった(この日スカイプがつながったのはこの1回だけである)。

 一度予約した振替便(10月27日)を再振替したいと言った。今日マニラのホテルを延泊したこと、今朝スカイプがつながらなかったこと、チャット「ジェッ太」で埒があかなかったことなどを伝えた。一番効果があったかもしれない、咳が改善しないことを伝え忘れたのは、このとき咳が出ていなかったからだ。

 10月24日のフライトは「ない」と言われた。そんなはずはない、30分前には確認したと伝えた。

 あらためて確認してもらったが、30分の間に誰かが予約を入れたのだろうと言われた。私のパソコンからも確認したが、満席表示に変わっていた。

 あきらめるしかなかった。早く帰国できるのならオーストラリア経由でもかまわないと伝えたが、それは受け付けられないようだ。しかし空席ができれば、10月27日の成田・マニラ便を(電話で)再変更することが可能であることの確約を得た。少し前進である。チャット「ジェッ太」はうわべの丁寧さのなかにどうにもならない事務的な感じと他人事感が透けて見えたが、スカイプの担当者の対応はまともだった。


夜がやってきた

 少し眠ってしまった。目が覚めたのは17:00過ぎ。ジェットスターのサイトを立ち上げた。再び10月24日0:40マニラ発成田行きに空席ができた。スカイプを立ちあげた。ジェットスターの予約サイトとスカイプ画面の両方を追っていたが、スカイプにつないで3分くらいで、予約画面から10月24日のフライトが消えた。

 このあと2、3回ジェットスターの予約サイトを覗いたが、空席が出ることはなかった。この日の私のチャレンジはここで終わりである。

 ホームタウンホテル・マカテイエドゥサを出た。

 アルファランド・サウスゲイト・モールのなかにあるChicked BACOLODで夜ご飯。ビーフのBBQ。

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 19:30頃、ホームタウン・ホテル・マカテイ・エドサにもどった。レセプションで明日の予約をしたいと伝えた。2日目の延長である。

 明日は満室であると言われた。明日の9:00頃にもう一度トライしてほしいと付け加えられた。後門に狼は潜んでいた。

 部屋でブッキングドットコムにアクセスしてみた。確かにホームタウン・ホテル・マカテイ・エドサのすべてのタイプの部屋に空きはなかった。寝るしかなくなった。ジェットスターと過ごした1日はここで終わる。

18日目 2017年10月21日 マニラ

フィリピン国鉄に乗ってトゥトゥバン駅(トンド)へ

 8:00前にホームタウンホテル・マカテイエドゥサを出て、アルファランド・サウスゲイト・モールに入った。スターバックスコーヒーは閉まっていた。モール内にある飲食店が開くのは9:00あるいは10:00からのようだ。土曜日の早朝に唯一開いていたジョリビーに入った。朝メニューのすべてにライスが付いていた。

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 マニラにMRT、LRT以外の鉄道が走っていることはあまり知られていないが、MRT・Line3のマガランス駅の近くをフィリピン国鉄(PNR)が走っている。線路はメトロ・マニラ・スカイウェイの上下車線の間にある。複線非電化区間である。

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 フィリピン全土において、国鉄の路線はわかりにくい。ほとんどは廃線あるいは運休になっているからだ。1960年、国鉄北方線(マニラ~サンフェルナンド)と南方線(マニラ~レガスピ)を足した総延長距離は1,086kmあったが、1991年のピナトゥボ山の噴火により北方線が全線運休となり(その後は事実上の廃線)、1993年の総延長は478kmになっている。

 フィリピンの鉄道を知るうえで「フィリピン国 大都市圏における鉄道戦略調査(クラーク・マニラ首都圏間)ファイナルレポート」はよい資料である。2013年6月に日本が提案したフィリピンの鉄道事業の計画書である。宛先はフィリピン国運輸通信省で、JICAと民間3社によって作成された。

 ルソン島北部を中心として、空港アクセス鉄道の計画、需要予測、路線計画、施工計画などが57ページにまとめられていた。地震対策が盛り込まれていたのは、地震対策先進国として日本の支援が有益になるポイントである。

 マニラとクラーク経済特別区を鉄道で結ぶ計画があった。軌間1,067mm(狭軌=JR在来線、西武、小田急、東急、名古屋鉄道、京阪、南海など)を1,435mm(標準軌=新幹線、京急、京成、阪急など)に改軌したうえで列車を走らせる計画に中国が無償資金協力を申し出た。しかし中国企業との間で締結した契約が不法だったことをアキノ政権が問題とした。計画は中止になった。中国側の敵失といっていい。

 (おそらく上記の線路を利用した)トゥトゥバン駅とマロロス駅の38kmを結ぶ計画に日本が支援することを、2015年に安倍晋三首相が署名している。

 想定されている最高速度は120km/hである。フィリピン国鉄にとっては夢のようなスピードである。

 2012年10月の大型台風の影響で長期運休していたルソン島南部を走る長距離列車「ビコール・エクスプレス」は2016年ついに復旧した。マニラと南カマリネス州ナガ間の377キロを結んでいるのは、寝台特急「北陸」の車両である。

 *ビコール・エクスプレスはビコール地方の料理名である。

 *この日の23日後、2017年11月13日安倍晋三首相はASEAN関連首脳会議に出席するため訪問中のマニラでドゥテルテ大統領と会談を行った。マラウィ(ミンダナオ島)の復興と治安維持についてはもちろん話し合われたが、合意内容の一部に円借款による「マニラ首都圏地下鉄計画(フェーズ1)」があった(供与限度額約1,045億円)。

 フィリピン人はもちろん鉄道を運営できる。ルソン島南部のナガ駅とシプコット駅の間を乗ったとき列車の運行は完璧だった。往復ともに1分も遅れなかった。地元の人に利用され愛されている鉄道であることはすぐにわかった。動いていたのは古い日本の気動車である。日本の無償援助だったらしい。車内改札をしていた車掌に礼を言われた。前述の「ビコール・エクスプレス」はこの区間を走っている。

 フィリピン国鉄への支援がうまくいけば、遠い将来マニラを起点とする新幹線がルソン島を走る可能性はある。今のところ具体的な話はないが、日本政府の担当者はそういったことを視野に入れているだろう。

 エドサ駅からトゥトゥバン駅までフィリピン国鉄(PNR)に乗ってみる。

 エドゥサ駅を撮ろうとしたら、ここは公共機関だから撮影は控えてほしいと女性駅員にやんわりと言われた。下の写真の、灯台のような四角柱のチケット売り場に機密性があるわけがないが、駅員は義務を遂行していた。

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 掲示されている時刻表はなかったが、列車の到着前には発車時刻が掲示された、日めくりカレンダーのように、あるいは中学校バレーボール大会の得点ボードのように。その写真を撮れなかった。

 エドゥサ駅に停止する(トゥトゥバン駅とアラバン駅を結ぶ)列車本数は1日20往復ぐらいだろう。時刻表を作って寄付をしたいと思った。

 9:32発の列車に乗った。

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 時速は30km/h程度だろう。2013年に乗ったときより、車両は確実に古くなっていた。一方、利用者は確実に増加していた。車内の扇風機は暑い空気をかき混ぜていただけだった。

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 30分ほど乗ってトゥトゥバン駅に着いた。JR東日本の気動車と電車も使われているようだが、車両はひどく傷んでいた。保守点検に大きな問題があるように思う。電車が客車として使用されているようだが、架線がないのだから仕方がない。ちなみに前述の「フィリピン国 大都市圏における鉄道戦略調査(クラーク・マニラ首都圏間)ファイナルレポート」のなかに使われていた写真のなかの電車はすべてJR東日本のものだった。

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トンドを歩いた

 トゥトゥバン駅を出たところはやや殺風景である。理由は建物が建っていないから。トンドの猥雑な雰囲気はない。スラムを撤去したあと、再開発が行われていないからだと推察する。

 駅の南にあるトゥトゥバン・センター・モールに入った。南北に細長いモールである。このモールができたことによりトンドのイメージは大きく変わった。

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 トゥトゥバン・センター・モールの南側に出た。賑やかな感じはある。

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 道路上に残されたレールはまだ撤去されていなかった。私にとってこのレールはトンドの象徴である。

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 2001年10月に撮影した下の写真は上の写真と同じ通りである。上の写真を100mくらい進んだところが下の写真の位置になる。2001年は異様な雰囲気で歩くのが怖かった。自分が周りと異なる存在であることを否応なしに意識させられた。

マニラ22

 ホアン・ルナ・ストリートを歩いた。

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 左手にあったのはlglesia Ni Cristo Locale of Tondo。1967年10月に完成したこの教会は2007年に改装された。トンドのランドマークでもある。

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 2013年はトゥトゥバン・センター・モールからフィリピン国鉄に沿って線路沿いをブルメントリット駅のほうに歩いた。北側と東北側である。

 今日はホアン・ルナ・ストリートを北に歩きながら、適当なところを西に折れた。

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 いくつかの通りを西、北、西、北といった具合にジグザグに歩いた。人は多く小さな店はいくつもあり活気があった。2、3階程度の家屋や建物が連なっていた。それに比べて道は狭くない。ゴミは落ちていない。ごちゃごちゃした感じがなくはないが、このエリアは小奇麗なトンドである。

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 トンドやパヤタスを歩くときは特別な緊張感を強いられるが、今日歩いたすべてのエリアでそういうことはなかった。

 トゥトゥバン・センター・モールから西1kmほどのところを走っているレイディアル・ロード10に出た。


ナボタス・シティ墓地と墓地スラムを歩いた

 レイディアル・ロード10はマニラ湾岸を南北に走る幹線道路である。

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 ジプニーはほとんど走っていなかった。レイディアル・ロード10の西側はマニラ湾である。湾と道路の間にあったのは住宅地ではなかった。そのせいもあって道路を歩いている人は少なかった。ジプニーが頻繁に往来する道路ではないということだ。

 道路沿いで10分ほど待ってようやく北に走るジプニーを捕まえた。12ペソ(≒26円)。

 ジプニーのスピードは遅い。15分ほど乗ったところでレイディアル・ロード10は方向を東に変えた。

 その直後に「ここで乗り換えてくれ」とドライバーが言った。移動した距離は5kmほどである。北に延びている狭い通りと交差するところだった。その通りはジプニーとトライシクルが頻繁に行き来していた。

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 2台目のジプニーに乗った。2kmほど乗ったところで下ろされた。ナボタスの真ん中である。ドライバーに目的地の大体の方向を教えてもらった。

 来た道を少しもどり教えてもらった方向に歩いた。ジプニーの走っていた通りと並行している通りに出た。

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 住宅地のなかを歩いた。入口はすぐに見つかった。ナボタス・シティ墓地である。

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 敷地の真ん中をまっすぐ奥に延びる道を歩いた。

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 墓は両脇にまばらにあったが、奥のほうはマンションのようにいくつもの墓が積まれていた。

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 墓は5年のリース契約になっており、契約が切れると遺体は取り出される。遺族がお金を支払わなかった場合も同じである。取り出された遺骨は通路に放置されることもある。遺体や墓地にたいする敬意や恐れはない。

 遺骨や髪の毛が残っていることもあり腐敗臭がするといわれていたが、そういうことはなかった。墓地の清掃をしている人を見かけた。

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 墓石に直接文字が書かれている墓もあった。プレートを注文する金がなかったのかもしれない。4日前(10月17日)、トゥゲガラオで墓のプレートを販売している店を見つけた。

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 鬼ごっこ(この遊びがフィリピンにあるのかどうかを知らない)をするには格好の場所である。石を投げ合っている子供たちを大人が注意していた。墓地は子供の遊び場になっていた。カメラを向けると子供たちが集まってきた。撮ってほしいという意思表示をしてきた。

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 パヤタスの子供たちは自らの存在を恥じており一切目を合わせてこなかったが、ナボタスの子供たちは寄って来ては笑顔を見せた。トンドと同じである。それらはしばしば屈託のない笑顔に見えるが、乾いた笑顔だ。

 笑顔は重要ではない、未来を見据える者は笑わない。

 ナボタスは漁港として発展した。海側に居住区があった。スラムである。下の1枚の右下のほうから入っていった。

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 路地は人が一人通れるくらいの幅しかない。貧しい家々が接近しすぎていた。

 ところどころで人々は道を開けてくれた。私を見た女たちは驚き、家の奥あるいは戸の内側に隠れた。家々の隙間を少し歩き人が少なくなったところで写真を撮ろうとしたが、たまたま目が合った人が首を横に振った「撮らないでほしい」。言葉で指摘されたわけではなかった。

 まったく危険を感じなかった。私の侵入を認識した人たちは知らんぷりをしただけだった。真冬の、釜ヶ崎の三角公園を歩いたとき、私の進行方向から自然に人が引いていったことを思い出した。

 さっき墓地にいた子供たちはこのスラムに住んでいるはすだ。

 家々の間にはちょっとした雑貨店や食堂があったが、結局1枚の写真も撮れずに墓地スラムを出ることになった。

 墓の外は小奇麗といっていい住宅地だった。たまたま通りかかったジプニーでレイディアル・ロード10にもどった。


トンドの西を通過した

 キアポに行くことにした。フィリピンに来るたびキアポには行っている。特に行きたいわけではないが、時間はまだあり、他に行きたいところがあるわけではなかった。

 レイディアル・ロード10から一度トンドにもどるのが、キアポに行く一番近いルートである。キアポがトンドの南東1.5kmほどのところにあることを知っていたのだから、今日の最初のエリアをキアポにしておけばよかった。

 レイディアル・ロード10をジプニーが走っていないことは既に書いた。北に走るジプニーにはかろうじて乗れたが、反対車線はジプニーがまったく走っていなかった。客を乗せているいないいかかわらず10分ほど待っても1台も通らなかった。

 仕方がないのでトンド方向(南)に歩きながら、何度も後ろを振り返った。後ろからやって来るジプニーを捕まえるためである。

 振り返る必要はまったくなかった。ジプニーは1台も通らなかった。

 ♪そして僕は途方に暮れる♪ 大沢誉志幸が聴こえてきた。

 ♪もうすぐ雨のハイウェイ♪(1時間半後に雨になった)

 トンドまで歩くのは嫌である。10月21日のマニラは暑かった。

 それでも歩いた。やはり後ろを振り返りながら。

 マニラ湾沿いにナボタス・シティ・バスターミナルがあったが、キアポに行くバスはなかった。みんな、タクシーで行けと言う。

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 バスターミナルの近くには水上家屋があった。多くの国でそうであるように、フィリピンで水上家屋イコールスラムである。

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 南に歩きながらタクシーで行くことに決めたが、タクシーもほとんど通っていないことに気がついた。

 バスターミナルから1kmほど歩いたところでようやくタクシーを捕まえた。料金を吹っ掛けてくるのだろうと思ったが、そうではなかった。400ペソ(≒880円)を要求してきた。最初の提案としては良心的である。300ペソ(≒660円)でまとまった。7kmほど乗ることになるので、交渉の成果はあったことになる。私の交渉にドライバーは苦笑していた、勘弁してよという感じ。

 タクシーはレイディアル・ロード10を南に走った。スモーキー・マウンテンの西側を通った。うずたかく積まれた山からは煙が出ていた。スモーキー・マウンテンは閉鎖されたのではなかったのか。ドライバーはなかに人が住んでいるらしいと言っていた。

 タクシーに乗らずに歩けばよかった。そこでタクシーを止めてもらうこともできたが、あっという間に通り過ぎた。

 スモーキー・マウンテンを過ぎると右手にスラムが現れた。不法占拠であることは明らかだった。ドライバーはトンドだと言った。レイディアル・ロード10の西側(海側=マニラ湾)もトンドに含まれることを知らなかった。そもそもそこは何もないエリアだと思っていた。トゥトゥバン・センター・モール周辺はすっかり再開発がされており超高層ビルも建っているが、レイディアル・ロード10付近のマニラ湾側にまだスラムが残っていた。

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 ところどころにある一方通行の道に入るためにタクシーは一度レイディアル・ロード10の西側に入った。スラムはレイディアル・ロード10の西側に、南北に細く長く残っていた。タクシーはスラムのなかを走った。私のカメラの一部が壊れていることは3日目(10月6日)と10日目(10月13日)に書いた。1枚の写真を撮るために10~15秒近くかかる今のカメラで移動する車窓をうまく写せなかった。

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 タクシーは今のマニラで最も興味深いルートを走った。次にマニラに来るときは必ずここに来るだろう。ドライバーはとてもよい人でトンドについて解説してくれた。タクシーに乗ったのは正解だった。


キアポを歩いた

 パッシグ川の北にあるサンタクルス教会の前にタクシーを止めてもらった。イントラムロスから歩いてくるとパッシグ川に架かるマッカーサー橋を渡ることになる。キアポの入口である。

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 アイセタン・デパートの横の通りは人が多くごちゃごちゃしている。日本の伊勢丹は“ISETAN”であるが、マニラの「アイセタン」は“ISETANN”と、最後に“N”が2つ付く。伊勢丹のパクリであるという説があり、パクリでないという説もある。パクリであることを誰かが勝手に言うことができるが、パクリでないと断定する場合、ネーミングのルーツを知っていないといけない。パクリでないという説の出所がアイセタン・デパートの関係者でなければ、パクリではない。

 アイセタン・デパートについては、上のままで終わってよいのだが、一応調べてみた。

 アイセタン・デパートのルーツはローマン・スーパー・シネラマムという映画館だった。エスカレーターとカーペットを持つマニラ最初の映画館で、席数は1,500あった。映画館は1970年に火災にあっている。経営者は劇場を壊し1985年にIsetannに売却した。Isetannが2人の中国系フィリピン人によって創られた流通業であるところまではわかったが、伊勢丹をモデルにしたかどうかはわからなかった。

 キアポは東京のアメ横のようなところである。人だけではなく商品も多い。道の真ん中に商品台を置きモノを並べるので、歩くのはかなり大変である。その場所を通り抜け、混雑がなくなるとほっとする。

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 キアポはパサイのバクラランと並ぶ商店街の並ぶエリアである。

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 小さなカフェで昼ご飯。

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 キアポ教会に入った。

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 親善門。この門を潜ると中華街である。

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 雨が降ってきた。ここはハイウェイではないので大沢誉志幸は聴こえなかった。今のところ小雨である。大降りになるかどうかは予想できない。傘を持っていない。駅に向かった。


エドゥサで

 カリエド駅からLRT・Line1のバクララン行きに乗った。終点の1つ手前のエドゥサ駅で下車した。MRT・Line3への乗り換えである。

 乗り換え通路つまり乗り換えの導線は著しく不便である。駅周辺のインフラの設計ミスでないかと思えるくらいである。不便であるがゆえに人がごった返していた。乗り換えることが憂鬱になる駅である。

 MRT・Line3のタフト・アベニュー駅も人がごった返していた。

 マニラの人口増は激しい。巨大な田舎が都市への変貌を遂げる途上にあるのが今のマニラである。この街の不便さは交通インフラをダイナミックに造り直しできないことにある。巨大なショッピングモールをいくつ造っても都市にはならない。それができなければマニラは巨大な田舎のまま終わる。

 マガランス駅を下車した。雨は降っていなかった。

 アルファランド・サウスゲイト・モールのなかのスターバックスコーヒーに入った。

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 ホームタウンホテル・マカテイエドゥサにもどったとき、レセプションに寄ってほしいと警備員に言われた。新しい部屋が用意されていた。チェックアウトするまで古い部屋に泊まることを覚悟していたが、よかった。ようやく他の宿泊客と同等の扱いにしてもらえた。

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 夜ご飯を食べるため、ホームタウンホテル・マカテイエドゥサを出た。アルファランド・サウスゲイト・モールのなかにあるタパ・キングに今日も入った。すごくうまいわけではないが、食が合わないフィリピンのなかではイチ押しの店である。

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 23:41にメールが入っていた。メールの内容が朗報でないことを知ったのは30分後の、11月22日00:01頃である。

17日目 2017年10月20日 オロンガポ バランガ マニラ

バランガへ

 8:20、ACME・イン・スービックをチェックアウトした。

 ホテルを出たとき目の前にジプニーが停まった。ビクトリーライナーのバスターミナルまで行くらしい。歩ける距離なのだが、ジプニー(とトライシクル)には気軽に乗ってしまう。8ペソ(≒17円)。

 5分でビクトリーライナーのバスターミナルに着いた。チケット売り場には寄らないでプラットホームに向かった。バランガ行きは9:00発である(毎時00分発であることを昨日確認していた)。

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 コーヒーを飲む時間はあるが、すでに多くの人が乗車していた。パンと飲み物を買いバスに乗った。

 バスは定刻に発車した。チケットは車内で買った。70ペソ(≒154円)。バスはオーデイナリーである。マニラの路線バスにはエアコンの導入が進んでいたが、地方の町に普及するのはもう少し時間がかかるだろう。車内は少し暑かった。オロンガポ・バランガ路線はビクトリーライナーが走らせる路線バスである。

 バスは市内を北に走った。昨日歩いたのはバランガ中部と南部で、バスターミナルの北側を歩いていない。市街地は北方面にも広がっていた。

 市内を抜けたバスは山のなかに入っていった。

 下の1枚は、山のなかに唐突に現れた新興住宅地。地名はハッピーバレーとなっていた。

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 出発時満席だった車内は空いてきた。それでも前のほうの席は埋まっていた。フィリピンのバスは前から席が埋まっていく。乗客が10人乗っていれば、前から4列目ぐらいまでの席に全員が座るだろう。前のほうから後ろの席に移動しパンを食べた。

 山を抜けたあとバスは平地を走り出した。南に走っていた。スピードアップしたバスはバランガまで一直線に走ると思っていたが、途中で脇道に入り幹線でない道路を走り出した。そして8kmほど離れた町に立ち寄ったかと思うと、元の道を8kmもどった。オーデイナリーの真骨頂である。最初から決まっているルートなのだが、これで40分ほど余計な時間を費やした。

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バランガを歩いた

 マッカーサー・ハイウェイを走っていたビクトリーライナーのバスはビクトリーライナーのバスターミナルに入らなかった。バスはバターン・セントラルターミナルを終点とした。路線バスとして走るのだからビクトリーライナーであっても例外扱いにしない、そんな感じである。しかしビクトリーライナーのバスターミナルに路線バスを発着させる場所がないということもあり得る。

 バス、ジプニー、トライシクルが集まる大きなターミナルだ。バターン・セントラルターミナル内のバスの発着はすべて近隣の町を結ぶ路線に限定されていた。このバスターミナルからマニラに行くバスはなかった。

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 バスがバランガ市内に入ったとき、ジェネシス・トランスポートの小さなバスターミナルが見えた。あとで行ってみることになるだろう。

 バターン・セントラルターミナルを出てカレロ・ストリートを南に歩いた。

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 300mほどのところにあった橋を渡った。橋の手前からゆるやかな上り坂になっていたが、橋自体は平らである。

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 橋を渡ったところの右手にあったエリソン・ホテル。

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 橋の反対側はゆるやかな下り坂になっていた。進行方向の道路の先にヨーロッパ・テイストの建物が見えていた。フィリピンらしくない。

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 左手の小さなアーチの向こうに小さな商店街はなかった。

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 小さな店をやり過ごして歩いていくとリサール公園に出た。バターン・セントラルターミナルからリサール公園まで500mほどしか歩いていない。リサール公園が街の中心である。

 リサール公園の北側には市庁舎があった。

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 リサール公園の東にあったのはザ・プラザ・ホテル・バランガ・シテイである。バランガでもっともよいホテルだろう。小ぶりであるが、均整のとれたファザードである。センター・プラザ・モールも東側にあった。

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 リサール公園の西にあるのはセント・ジョゼフ大聖堂。低い塀の上に聖人の像が並んでいるのはとても珍しい。

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 リサール公園の南にはガレリア・ビクトリアというショッピングモールがあった。橋から見えていた建物である(7枚上の写真)。

 リサール公園の周辺にはバランガの見どころが集結していた。

 ここまで「リサール公園」と書いてきたのは「地球の歩き方」の表記に倣ったからであるが、雰囲気は公園ではなく「広場」である。正式名は“Balanga Plaza de Mayor”となっていた。スペインの街によくあるマヨール広場である。ザ・プラザ・ホテル・バランガ・シテイというホテルの名称にも「プラザ」の文字が入っている。ヨーロッパ風に、リサール広場という名称が相応しい。

 JPリサール・ストリートにあったバーコンズはスーパーマーケットだ。

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 バーコンズの空にマクドナルドが写った。

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 マーキュリー・ドラッグはフィリピンで最大手のドラッグストアである。マニラでも見かけた。店のなかはコンビニエンスストアのようである。

 パプアニューギニアの最終日から喉が痛い。ドラッグストアに行こうかどうか迷っていたが、ときどき治ったと思える日があるので薬を買っていない。これ以上悪化しない限りフィリピンで薬を買うことはないだろう。

 フィリピン全土にあるSMシテイにマーキュリー・ドラッグは出店していない。両者の間に確執があるからだ。靴の修理屋から事業をスタートしたSMの創業者は、戦後すぐに出店してきたマーキュリー・ドラッグにその場所から追い出されてしまった。現在両者の力は逆転している。フィリピン最大の流通企業となったSM(フィリピンでは、日本のイオングループとセブン&アイ・ホールディングスを合わせたくらいの存在感がある)は自らのモールにマーキュリー・ドラッグの出店を認めていない。SMの創業者(中国系)は旧ダイエーの創業者中内公氏のイメージとダブってしまう。

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 周辺を歩いてみた。ヨーロッパ・テイストのリサール広場を離れると、街は一気にフィリピン・テイストになった。

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 ワナム・レストランに入った。古いタイプの中国料理店である。内装はくたびれていたが、昔流行っていた雰囲気が店内に醸し出されていた。肉野菜ライス。フィリピンはどこにいってもライスがまずい。

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 ワナム・レストランを出て、ジェネシス・トランスポートのバスターミナルに向かった。歩いて10分の距離をトライシクルに乗った。10ペソ(≒22円)だからである。ぜったいボラれないジプニーと95%くらいはボラれないトライシクルを愛している。

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マニラへ

 ジェネシス・トランスポートの、次のマニラ行きはクバオ着でもパサイ着でもなかった。行き先は初めて聞くマニラの地名だった。パサイの近くでニノイアキノ空港にも近いと言われた。パサイ行きなら乗りたいが、到着場所からパサイに出るまでバスに乗るのは面倒である。パサイからはMRTにも乗らなければならない。

 ジェネシス・トランスポートのバスターミナルから30mほどのところにあるバターン・トランジットのバスターミナルに行ってみた。20分後に出るクバオ行きに乗った。長距離バスなのに2列×3列は窮屈だが、高速道路を経由すると記載してあった。クバオ(マニラ)まで200ペソ(≒440円)。

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 13:40、バスは発車した。

 サマット山は標高544mである。頂上には戦争記念館と「バターン死の行進」の十字架が建てられている。バランガの南西方向にあるはずだが、それはバスの走る後方に位置している。サマット山がどこにあるのかわからなかった。車窓にその山が映ることはなかったはずだ。

 1942年4月9日にバターン半島の米軍が降伏した。日本軍は捕虜(捕虜8万人+民間人2.6万人)をカバスまで移送しようとしたが、鉄道のあるサンフェルナンドまでは輸送手段がなかった。多くの捕虜を80kmほど歩かせることになった。降伏時の米軍は食料不足で多くの兵はすでに衰弱していた。バターン半島はマラリアやデング熱の汚染地域で、4月は乾季でもあった。水、食料が不足し、この行軍で1万人程度が死亡した。米国政府は戦争遂行のためこの惨劇を最大限に利用した。これが「バターン死の行進」である。

 フィリピンでは4月9日を「勇者の日」として休日にしている。今年は「バターン死の行進」から75周年目にあたるため、ドゥテルテ大統領が式典に出席し、哀悼の意を述べた。

 14:20頃、ルバオ通過。

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 サンフェルナンドの南のほうの、SMシテイ・パンパンガの近くのバスターミナルにバスは入った。10分ほど停車したあと、高速道路に入った。ここまで北そして北東に走ってきたバスは方向を南東に変えた。めざすはマニラ。

 バスは順調に走っていた。高速道路ではさらに順調に走った。トゥゲガラオからダウまでのとろとろした運転(10月18日)とは異次元の快走である。

 クバオの10kmほど手前で渋滞につかまったが、アラバンからクバオにもどったとき(10月15日)ほどの強烈な渋滞ではなかった。

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 バスがクバオに着いたのは16:40。所要時間は3時間30分を予想していたが、3時間で走り抜けた。


エドゥサに泊まる

 クバオのショッピングセンターのなかのミスタードーナツでコーヒーを飲んだ。10月5日に入った店である。

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 MRT・Line3に乗った。最近のLine3には保守管理の問題が発生している。連結している車両がはずれるという事故もあった。マニラのMRT、LRTの車両は独立しており、乗車中に1編成の車両間を行き来できない。韓国系の会社との保守契約が解除された状態である。

 終点タフトアベニュー駅の1つ手前、クバオ駅から8つ目のマガランス駅で下車した。外は真っ暗になっていた。

 エドゥサに来たのは初めてである。

 マガランス駅はエドゥサ(エビファニオ・デ・ロス・サントス)通りとメトロ・マニラ・スカイウェイが交差する場所にある。エドゥサ通りは常に渋滞を発生させており、メトロ・マニラ・スカイウェイは片側5車線くらいある大きな道路である。メトロ・マニラ・スカイウェイの真ん中をフィリピン国鉄(PNR)が走っている。交差点を対角線に渡るのに10分ほどかかった。

 ホームタウンホテル・マカテイエドゥサはすぐに見つかった。1泊1,202ペソ(≒2,646円)。2泊を予定している。

 新しいホテルなのでよい部屋を期待したが、案内されたのは建物の裏口から入る、スタッフが泊まるような一室だった。がっかりした。空きが出た場合は部屋を変えてもらうことを条件に、案内されたところに泊まることにした。エアコンは付いているし、Wifiは問題なく使えたので特に困ることはなかったが、出入り口は中途半端に開いたガレージだった。

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 交差点を渡ったところにアルファランド・サウスゲイト・モールがあった。新しくないモールは巨大過ぎないという利点を持っていた。スターバックスコーヒー、ジョリビー、チョーキン(超群)、マン・イナサル、ボンチョン、サブウェイなどが入店していた。

 モール内に真新しいファミリーマートがあった。フィリピンでコンビニエンスストアといえば、セブンイレブンとミニストップである。ファミリーマートを初めて見た。売っている商品の価格は、同じモール内にあるスーパーマーケットよりかなり高かった。

 タパ・キング(Tapa King)に入った。タパは牛肉を甘めのタレに漬けたあと、かりっと焼き上げたもの。タパ・キングでタパ・クイーンというメニューを注文した。スパイシーでわりとうまかった。チョーキンもマン・イナサルも好きではないが、タパ・キングにはまた来てもいい。

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 ホームタウンホテル・マカテイエドサにもどった。

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16日目 2017年10月19日 ダウ オロンガポ スービック

ダウを歩いた

 バギオから乗ったオロンガポ行きのバスをダウで下りたのは2013年8月である。すぐにトライシクルでアンヘレスに向かった。このときダウを歩かなかった。

 今日は少し歩いてみたい。9:30ブリスホテルをチェックアウトした。

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 昨夜、街は荒れていると感じた。そういう雰囲気があったということである。

 今朝ブリスホテル近くで数人のトライシクルのドライバーたちが大声で話していた。みんな若かった。一般的にトライシクルのドライバーは若くない。中年のドライバーたちが集まって、コインを使った賭け事をしている見たことはあるが、若いドライバーたちが集団でたむろしているのを初めて見た。不良化している雰囲気だった。

 トライシクルのあんちゃんたちへの、私のイメージは悪くない。ボったくってやろうという気配を見せたヤツはいるが、みんな一生懸命働いていた。アパリでもトゥゲガラオでもそうだった。

 大通りに出たところで10歳くらいの3人の女の子が金をくれとしつこくついてきた。昔はこういうことがあったが、最近のフィリピンでは記憶にない。インドでは近くにいる大人たちがこういう子供たちを追い払ってくれる。オロンガポで私の横を何人もの人が擦れ違っていったが、みんな無視していた。

 SOGOがあった。赤と黄色の外装が目立つチェーン系のラブホテルで、パサイにもある。

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 ダウはフィリピンの飲食系FCのショールームのような街だった。マクドナルド(2軒)、KFC、バーガーキング、ジョリビー、チョーキン(超群)、マン・イナサル(Mang INASAL)などフィリピンを代表するファストフードが狭いエリアに軒を連ねていた。地元の飲食店はまったくなかった。セブンイレブン、ミニストップも参戦していた。

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 カフェ・ボンジュールは、マクドナルドの駐車場の奥にあった。駐車場には裸足の男の子たちがいた。カプチーノを飲みながら駐車場の子供たちを見ていた。マクドナルドに出入りする客に金をもらおうとしているのかと思ったがそうではなかった。彼らは仕事をしていた。駐車場内に止めようとしている車を誘導していた。「バック、バック、はい停めて」という感じで。手慣れた感じだった。しかし勝手に誘導した子供たちに車のドライバーがチップを払うかどうかはわからない。木曜日の10:00頃のことである。

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 カフェ・ボンジュールのまずいハムチーズ・クロワッサンを食べた。カフェに人が入ってくる気配はなかった。料金が高いのに、フード関係がまずいことが知られているからかもしれない。カプチーノはうまかったけれど。

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 ダウのバスターミナルには物乞いが多かった。バスターミナル内で金をねだられた。

 ダウはファンキーである。そして退廃的である。理由はアンヘレスの近くだからなのだろう。マニラから直接アンヘレスに向かうバスはないはずで、バギオ、トゥゲガラオ、オロンガポ、ラワグ、ビガンなどに向かうバスの一部がダウ・バスターミナルに停車する。


オロンガポへ

 ダウ・バスターミナルからオロンガポに向かう。2013年バギオから乗ったビクトリーライナーはダウ経由のオロンガポ行きだった。

 バスターミナルでオロンガポに行きたいと伝えた。全員が、ビクトリーライナーに乗れと言った。たまには他のバスに乗りたいのだが。ダウからオロンガポまでは140ペソ(≒308円)。

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 ビクトリーライナーは高速道路に入った。1時間30分ほど乗った。

 高速の出口でスマートフォンのグーグルマップを立ち上げた。バスはオロンガポのバスターミナルに直接向かうのではなく、一度スービックのなかに入った。リーサル・ハイウェイを走り、ピュアゴールド・ハーバー・ポイントというショッピングモール前のバス停で停まった。そのあとモールの敷地内を抜け、リーサル・ゲート(クラークとオロンガポの間にあるゲート)を通過した。川沿いを東に進み、マグサイサイ通りを北に走った。マグサイサイ通りの最初のバス停で下車した。


オロンガポを歩いた

 昨夜予約したACME・イン・スービックのチェックイン時刻は13:00である。12:30にチェックインさせてもらえた。建物の安普請さを派手な色合いでカバーしている。写真写りはよいのだろうが、雰囲気はちょっと怪しげである。しかし部屋はまあまあ広いし、(必要ない)テレビは映るし、部屋でWifiはつながるし、石鹸もタオルも付いているし、1,000ペソ(≒2,205円)にしては上出来である。デポジットは500ペソ。フィリピンのホテルでデポジットを取られることは多くない。

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 明日の行き先はバランガだが、バランガへのバスがあるのかどうかを知らない。『地球の歩き方』にはマニラと各都市を結ぶバスの有無を載せているが、不十分極まりない。そういう状態で、マニラを経由しない地方都市間の交通について載っているわけがない。バス路線がないはずはないのだが、ネットでそれを見つけるのは難しい。

 レセプションで尋ねてみた。

 明日バランガに行きたい、バスで行けますか?
 トライシクル!
 
 いくら何でもトライシクルでは行けない。バランガはオロンガポから直線距離で40kmほど離れている。

 私の[バランガ]という発音をレセプションの女性が聞き取れていなかった。オロンガポの地区名を思い浮かべて答えたらしい。そのあと10回ほど「バランガ」という発音の矯正指導を受けた、強制的に。

 [バ] そのままでいいらしい
 [ラ] ([ラ]は[L]の発音。舌を上の歯茎の裏に付ける)
 [ン] ([ン]は鼻に抜ける感じで、小さく発音するかしないかレベル。日本語表記は必要ないかも)
 [ガ] ([ガ]は[ン]といっしょに発音する感じ)

 これで発音は大丈夫よ。ビクトリーライナーのバスターミナルに行けば、表示があるから。
 ありがとう。

 またビクトリーライナーの世話になることになった。ルソン島北部の旅には欠かせない存在である。

 ACME・イン・スービックを出て、マグサイサイ通りを北に歩いた。

 ビクトリーライナーのバスターミナルまで歩いてみよう。そこはオロンガポの中部でもある。

 マグサイサイ通りを北に歩いた。

 おもしろい通りだ。建物の色は派手なのだが、光沢がないので古ぼけた印象が残ってしまう。

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 タトゥー・スタジオ。

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 第二次大戦中、日本の船が連合国の捕虜や民間人を輸送する際に、米軍の攻撃を受け死者を出したケースがある。あるサイトによるとその確定的な資料はないらしい。鴨緑丸はそのなかの一隻である。米国では“HELL SHIP”(地獄船)と呼ばれている。マグサイサイ通りに碑があった。

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 500m歩いてリサール通りに出た。オロンガポの幹線道路である。飲食店はあまりなく、おもしろい通りではなかった。途中、家具店が集まっているエリアがあった。

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 Marikit公園があった。戦闘機と機関車の展示があった。LRT2路線、MRT1路線以外の鉄道がフィリピンで動いていることをほとんどの人は知らない。トンドのトゥトゥバン駅からアラバン駅まで、ナガとシプコットの往復(日本の気動車が使われていた。日本が無償供与したらしく車掌に感謝された)を乗ったことがあるが、それとは別に昔のフィリピンにはさとうきび積み出しのための鉄道があった。

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 機関車のプレートにあった“VICTORIAS MILLING COMPANY”を後日調べてみた。機関車の製造業者ではなかった。1919年に創業した製糖会社で、現在は世界最大級の製糖業を営んでいる。つまりさとうきび畑で使われていた機関車だった。製糖会社は立派なホームページを持っていた。子会社を通じ食品加工、レジャー、不動産などの分野にも進出しているようだ。

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 サンタ・リタ川に注ぐ水路を渡った。

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 サウログトランジットのバスターミナルの先にビクトリーライナーのバスターミナルがあった。サウログトランジットのバスターミナルにはチケット売り場がなかった。

 ビクトリーライナーのバスターミナルは長距離路線(マニラ行き)と周辺路線にターミナルが分かれていた。正しい発音で「バランガ」行きの時間を尋ねた。

 練習の成果があった。一発で通じた。

 4:00から1時間ごとに1本出ている。4:00、5:00、6:00・・・といった具合。

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 ビクトリーライナーのバスターミナル周辺には店が集まっていた。周辺を歩いてみた。チェーン系の店はあるが、地元の店もあった。

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 広場の真ん中に先住民族の像があった。勇敢な「族長アポ」?の像はオロンガポという地名の由来である(とされている)。もっともフィリピンの民族構成は複雑である。ネグリト、原始マレー、古マレー、新マレーの四層構造になっているらしい。

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 チョーキン(超群)で昼ご飯。シュウマイにチャーハン。食べられなくはないが、とくにうまいとは思わない。

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 リサール通りを南に走るジプニーに乗った。黄色のジムニーである。8ペソ(≒17円)。

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 ジプニーはリサール通りを歩いてきた方向に走ったが、マグサイサイ通りには入らずにそのまままっすぐ進んだ。

 川の手前で曲がり、川に沿って東に走ると隣りの人が教えてくれた。スービックのなかには入らないということだ。もしかしたらマグサイサイ・ゲートから入るのかもしれないけれど。

 川に架かる橋の手前で下車しリサール通りを南に歩いた。川を渡ったところにリサール・ゲートがあった。検問はなかった。

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スービックを歩いた

 スービックは米海軍基地だったところである。1992年に米軍が撤退し、広大な土地がいきなり空き地になり再開発の対象になった。経済特区である。

 2014年オバマ米大統領がフィリピンを歴訪したとき、フィリピン政府は米国の船と航空機に基地の使用を認める協定に調印した。中国のプレゼンスに対抗するためである。

 マニラ通りをまっすぐ歩くとスービック湾に出るはずである。そのまま歩いた。

 米軍が撤収した敷地に住宅街と飲食店、店が混在している。小学校もあった。リゾート地に仕上げようという意思を感じるが、やや力不足であるという感じがしないでもない。全体として建物の密度は薄いが、一方でゆったりしているともいえる。

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 点在しているレストランや食堂を見ながら海に出た。スービック湾だ。

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 対岸はスービック・ベイ国際空港である。

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 ウオーターフロント通りを歩いた。ビーチ沿いの道に人がちらほらと歩いていただけである。人の割合と店の数がアンバランスだ。人がこんなに少なくては店の経営は難しいだろう。

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 公園はゆったりと作られていた。敷地が広すぎるのだろう。基地の再開発というのはケタはずれの投資が必要となる。大きな公園や公共施設を作り、マンションを建設し(高層マンションにする必要がない)、ホテル、ショッピングセンター、シネマコンプレックス、スポーツ施設などを誘致してもまだ土地は余る。

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 普天間基地がなくなったあとの宜野湾を想像してしまった。4、5年前、那覇から普天間の地下を通り名護に至る鉄道の計画に予算をつけると発表されたことがあった。鉄道建設は、宜野湾市(普天間)と名護市(辺野古)の基地問題を一気に解決に向かわせるため誰かが知恵をひねり出したはずなのだが、そのあとどうなったのかわからなくなった。

 そうでなくても波打ち際はフォトジェニック、そうであるゆえにかわいそうな犬。インスタ映えを狙った女の子たちのために10分ほど下ろしてもらえなかった。

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 こわかったね。

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 デューイ・アベニュー沿いにあったのはレストラン、カフェだけではない。ホテルもいくつかあった。

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 カジノもあった。

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 クツリームリー・クスプレッソ・カフェに入った。

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 SBMAバスターミナルがあった。歩いているときバスを見かけなかったが、スービック内の一部地域には走っているようだ。スービック国際空港に向かうバスがあった。

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 周辺をぶらぶら歩いた末、地元の食堂に入った。チョーキンよりうまかった。

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 オロンガポからスービックに入るときリサール・ゲートを通ってきたが、もう1つの出入り口がマグサイサイ・ゲートである。18:00頃、マグサイサイ・ゲートには多くの人の流れができていた。スービック側からオロンガポ側に向かう人と逆コースで歩く人は同じくらい多かった。

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 マグサイサイ・ゲートのスービック側にはピュアゴールド・ハーバー・ポイントがあった。ビクトリーライナーのバスから見えたショッピングモールである。オロンガポから入ってくる人たちはこのモールに吸い込まれていった。流行ってないと思われたレストランもこの時間から混み始めるのだろう。

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 マグサイサイ・ゲートを抜け、オロンガポに入った。

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 オロンガポ側にあるSMシテイにあるスーパーマーケット。

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 日本の2、3斤分を1袋に詰めている食パンが、フィリピンの家庭が大家族であることの証明になるのかどうかを知らない。

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 サンミゲルを買いACME・イン・スービックにもどった。

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15日目 2017年10月18日 トゥゲガラオ ダウ

タージ・ホテルをチェックアウト

 7:30、タージ・ホテルをチェックアウトした。部屋は悪くないのだが、モノを壊した場合や紛失した場合の料金一覧表があった。こういうホテルは世界各地にあるが、その項目が多すぎた。うかうかモノに触れない。チェックアウトの際には従業員を部屋に行かせ備品を確認させるだろう。中国、マレーシアのホテルによくある悪しき習慣である。レセプションが混んでいたこともあり、案の定チェックアウトに時間がかかった。

 カレッジ・アベニューからバルザン・ハイウェイの入口まで歩いた。そこでトライシクルに乗った。ビクトリーライナーのバスターミナルまで10ペソ(≒22円)。

 市内をどれだけ乗っても10ペソなのだが、トライシクルの使い勝手がいいのはバルザン・ハイウェイである。交差する道路が少ない幹線道路なのでトライシクルは順調に走った。一方、市内中心部ではトライシクルが渋滞しているところもある。


ビクトリーライナーでダウへ

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 昨日ビクトリーライナーのバスターミナルで出発時刻を確かめてあった。5:30発のバスがダウを経由する。ダウを経由する次のバスは9:00発で、そのあとは午後の発車になる。

 バスターミナルのなかで止まっていたバスのフロントにCALOOCANの表示があった。カロオカンはマニラの北にある。ダウを経由するこのバスの発車時刻は8:00だった。

 おかしい、掲示されている時刻表にダウを経由する8:00発のバスはなかった。

 窓口で尋ねてみた。このバスは時刻表に載っていない、それだけ言われた。そうであるのなら何のための時刻表なのだろう。

 8:00発のバスがダウに着くのは18:00くらい。9:00発のバスは19:00に着くらしい。8:00発のチケットを買った。今は7:50である(9:00発のバスに乗るつもりでいた)。

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 菓子と飲み物を買いバスに乗った。バスは8:05に出発した。

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 バスにWifiの設備はあったが、コンセントはなかった。パソコンとスマートフォンを交互に立ち上げまたオフにしながらの旅になった。

 都市間の距離の一覧表がドアに貼られていた。パサイ(マニラ)・トゥゲガラオ間は679km、パサイ・アパリ間は820kmとなっていた。

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 9:35頃、タマウィー二に入った。カガヤン川のほとりの町である。トゥゲガラオから50kmほど走ったことになる。

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 10:10、カガヤン川の支流イラガン川を渡った。支流といえど大河である。

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 10:20頃、バスはイラガンで15分ほど停止した。

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 10:50、カガヤン川を渡った。カガヤン川のほとりのアパリやトゥゲガラオを旅してきたのにカガヤン川を見たのは初めてである。この旅のなかでカガヤン川を見るのは最初で最後になるはずだ。

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 11:30、カウアヤンに入った。幹線から横道に逸れたところのバスターミナルで10分停止した。

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進まないバスにいらいら それでもフィリピンのバス旅はおもしろい

 バスは満席状態が続いていた。ここまで途中のバス停で多くの人を乗せ、また下ろした。思うようなスピードが出ていない。当然距離を稼ぐことはできない。業界最上位のビクトリーライナーといえど、高速道路を走るわけではない(高速道路はマニラの一部地域にしかない)。高速バスの会社ではなく、ただの長距離バス会社である。

 幹線道路には大して速くないジプニーが頻繁に走っている。町に入ると圧倒的に数が多いトライシクルが道路を埋めている。信号はほとんどないのに、速度の異なる乗り物が狭い道路を走っているので、バスのスピードは上がらない。

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 12:00過ぎ、バスは雨のなかを走っている。大降りではない。

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 12:30頃、アシリス通過。この辺りからバスは順調に走り始めた。

 13:05、サンチャゴ・バスターミナルに入った。ビクトリーライナーの専用ターミナルである。10分ほど停車。パサイまで456kmのところまで来た(パサイまでは行かないけれど)。ダウまでの距離がわからない。ダウまでの行程の3分の1ほど進むのに約5時間使ったことになる。ダウまでの所要時間が10時間だとすると、行程の半分のところに到達していないといけない。このままではダウに着くのは20:00頃になるだろう。

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 サンチャゴ・バスターミナルを出て10分ほど走ったら、ガソリンスタンドに寄った。アジアのバスは随分進化したが、変わらないところは変わらない。だからアジアである。

 それでもフィリピンのバスの旅は好きである。ガソリンスタンドで買ったピーナツを食べながら乗っている。 

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 バスは山のなかに入った。荷物を積載している大型トラックは時速10kmほどで上っていく。登坂車線はないのでバスも乗用車もそれに付き合わされることになる。カーブの多い山のなかで対向車が多い場合、遅いトラックを抜き去ることができない。それに加えフィリピンのバスドライバーの運転はうまくない。本当に下手なドライバーが多いのだ。これまでの旅日記でもそういうことを書いてきた。バス前方の席に座った場合、トロトロした運転にいつもいらいらさせられている。

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 今日一日バスに乗っているだけである。だから実況中継風の旅日記になってしまう。

 15:15頃、ソラノのバス停で10人ほど下車した。ダウまでのようやく半分くらいの距離を乗ったことになる。

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 16:00、バンバンに入った。バスは夕方の、トライシクルの軍団に捕まった。バスが夕方の町に入るのは自殺行為である。

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 16:15、バスは唐突に道路沿いにあるビクトリーライナーの専用食堂の駐車場に止まった。アパリに行くとき夜中に立ち寄ったCCQ Bus Stop and Restoと同じ設計だった。15分の休憩である。こちらが尋ねないと停車時間を教えてくれない。尋ねているのは私だけである。日本の長距離バスのように出発時刻は示されない。他の国の長距離バスにも当てはまるのだが、その国の人たちはどのようにして出発時刻を知るのだろう。

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 バスターミナルを出て少し走ったところでバギオへの分岐点があった。バギオまで109(?)kmの標識があった。トゥゲガラオを出てからここまで8時間30分かかっている。

 バギオまでの距離を示した標識を見たとき、ある疑問が浮かんだ。トゥゲガラオからバギオに行くバスは、もしかしたら今乗っているバスと同じルートを通り、さっき見た標識の交差点を右折するのではないか、という疑問である。そうであるのなら昨日と一昨日私は大きな勘違いをしていたことになる。

 昨日、バギオ行きのバスを探してトゥゲガラオの北側をうろついた。探し当てたのはDALIN Transport(1日3本)、DANGWA(1日1本)のバギオ行きバスである。これらのバスが走るルートはボントックを経由するルートである(バギオからバナウェに向かうときボントックを通過したことがある)と信じ切っていた。

 しかしボントック経由でないのなら、つまり今乗っているバスと同じルートを走りさっきの交差点からバギオに向かうのであれば、バギオ行きのバスを探す必要はなかったわけだ。

 旅のルートにモルディブとパプアニューギニアを組み込んだ時点で、トゥゲガラオからバギオまでの間で下車しどこかの村で宿泊することを諦めた。途中下車するつもりなら最初からタブクに行くトランスポートに乗っている。昨日の旅日記でそのことについては触れなかったが、タブク行きのトランスポートを昨日見つけていた。

 もう一度このルートを辿る機会があるのなら、バスではなくトランスポートでタブクまで行くことになり、その先はジプニーを乗り継ぐことになるのだろう。
 
 17:30前後、山の上の雲がわずかに黒橙色だった。日が暮れたのはサンタフェの細長い村の山道を抜けているときだった。

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 19:20、サンホセの手前で新しい商業施設のあるターミナルに入った。これだけ遅れているのだから、こういうところに寄るのは止めようといいたいが、これは日本でも同じである。日本のほうが厳格である。

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 残りは120kmほどある。ちなみにフィリピンのバスが遅れたため、私は2:00頃と3:00頃にそれぞれ見知らぬ町でホテル探しをさせられたことがあった。

 このパーキングエリアでドライバーが交代した。新しいドライバーはトゥゲガラオ出発時から車掌だった人だ。この人はとても親切だった。それより何よりドライバーとして優秀だった。

 運転の基本テクニックがあり、全体のプラン(サッカーでいうとゲームプラン)を立てられる人だった。どこでスピードを出し、どこで追い抜きどうスピードを維持するかという判断ができるドライバーだった。乗客の体が外部にむき出しになっているトライシクルとの車間、追い抜き方には配慮があった。安心して見ていることができた。


3時間半の遅れでダウ到着

 ダウ・バスターミナルに着いたのは21:30である。3時間半の遅れであるが、それでも2人目のドライバーは到達時刻を縮めてくれた。

 2013年8月、バギオからアンヘレスに行くときこのバスターミナルで下り、トライシクルに乗ったことがあった。アンヘレスはダウ・バスターミナルの南1kmのところにあるが、そこまで行かない。

  ホテルズ・ドットコムで予約したブリスホテルはダウ・バスターミナルから5分ほどのところにある。古いタイプのホテルで部屋は広かった。1泊1,492ペソ(≒3,283円)はフィリピンで一番高い宿泊料金になった。

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 ホテルを出て食事のできる店を探した。マクドナルド、チョーキン(超群)、バーガーキング、ジョリビー、チョーキン、マン・イナサルなどお馴染みの店は集結していたが、それ以外の店はまったくなかった。ミニストップでパンを買ってホテルにもどった。

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14日目 2017年10月17日 トゥゲガラオ

トゥゲガラオの朝

 朝から咳が出ていた。3日前のポートモレスビーのエンシシハイツのエアコンのせいだとわかっている。昨日は咳がおさまっていたので、治ったと思っていたが、そうではなかった。熱はないが、嫌な感じではある。

 9:00頃、ホテルを出た。地元の食堂でコーヒーは飲めない。昨日入ったinfiniteaに行ってみたが、閉まっていた。

 5分もあれば着いてしまう町の中心に向かって歩いた。

 モール・オブ・バレー周辺では露天で野菜や魚を売っている人たちがいた。フィリピン版の朝市といったところ。

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 カフェを探しながら歩いていたが、infinitea以外に気の利いたカフェはなさそうだ。ミスタードーナツに入った。

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 ドーナツ大国フィリピン。ミスタードーナツ、J.COドーナツ&コーヒー、クリスピー・クリーム・ドーナツ、ダンキンドーナツなどがひしめいている。どんな田舎でもドーナツ店は必ずあるが、田舎になればなるほどイートインスペースはない。イートインスペースがあればコーヒーを飲むことができる。

 表面しか見ることのできない海外の商品や店については何でもいえるが、少し事情を知っている国内の状況は厳しいものだ。1980年代から幾度ものチャレンジを経てコーヒーをヒット商品に仕上げた日本のコンビニンスストアは少し前からドーナツの品数を縮小した。好感度の高いテレビCMで勝ち抜いてきたミスタードーナツも近年は客数減少で低迷している。カフェスタイルへの内装転換を加速している。日本のドーナツ市場が予想されたほど大きくなかったというのは定説である。つまり市場限界説である。

 カラオ・ケープに行くかどうかを迷っている。トゥゲガラオの周辺には300ほどの洞窟がある。カラオ・ケープはトゥゲガラオの東北40kmほどのところにある大きな洞窟である。トライシクルで40分ほど、そのあと渡し船に乗る必要がある。見に行くべきか、行かなくてもいいのかの境界線にある見どころである。

 ミスタードーナツを出たとき雨がぱらぱら降ってきた。タージ・ホテルにもどった。

 しばらく部屋にいた。窓がないので外の様子がわからない。雨が降っているのか止んだのを確認するため2、3度ロビーに出た。雨は止みそうになかった。

 ホテルに併設されているインドレストランで昼ご飯を食べた。

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 昼過ぎに雨は小降りになった。傘を差さなくても歩ける。晴れてくる気配である。13:00頃、ホテルを出た。

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 そしてカラオ・ケープに行くのを止めた。


バギオ行きのバス探し

 昨日トランスポートのバンを下りた辺りに行ってみる。トゥゲガラオ中心部の東北にある、バス、トランスポートの発着場になっているところである。
 
 カレッジ・アベニューを東に歩いた。カレッジ・アベニューは400mほどの通りで、西側にはSt.Paul UNIVERSITYがある。歩いているときに通りの南側に「UNIVERSITY OF CAGAYAN VALLER 1948」の紋章を見つけたが、大学があるとは思えない場所だった。それに2つともユニバーシティで、通りの名称であるカレッジではない。

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 バルザン・ハイウェイに入った。雨は完全に止んだ。空の半分くらいは青くなった。

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 下の1枚はフィリピンの墓石のプレートである。

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 昨日バルザン・ハイウェイを歩いたとき、オートバスのバスターミナルを見つけることができなかった。グーグルマップに表示されたところには他の建物があった。オートバスは2013年にバギオからバナウェを往復したときに利用したトランスポートである。グーグルマップを見せながら尋ねたが、そんな名前のバス会社を聞いたことがないとみんなに言われた。オートバスを探すのをあきらめた。

 途中、右に折れた。通り沿いにはDagupan Bus Line、Van/Bus Terminal For Alcala、Van/Bus Terminalの3つのターミナルがあるはずだ。しかしそれらの場所にバスターミナルはなかった。かってバスターミナルだったと思われる更地があった。

 建設中の大きな建物があった。もしかしたらそこが新しいバスやトランスポートのターミナルになるのかもしれない。昨日多くのトランスポートのバンがバルザン・ハイウェイ沿いにあったのは現在ターミナルがないからなのだろう。

 市場があった。DON DOMINGO PUBLIC MARKET。雨上がりの地味な市場はあまり流行っていなかった。

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 万事休すではない。タージ・ホテルのレセプションで、バギオ行きのバスを走らせている会社名を教えてもらっていた。その名はDALINである。

 何人かに尋ねた。DALINは今歩いている通りをさらに歩いたところにあるらしい。

 DALINを見つけた。正式名称は“DALIN Transport”。整地されていない土の広場に2台のバスが止められていた。露天の乗り場である。DALINの関係者はいなかったが、バギオ行きの発車時刻が掲示されていた「14:00発、15:00発、16:00発」。到着時刻を確認できないが、バギオまでの所要時間は10時間ほどである。一番早く出発する14:00発に乗った場合のバギオ着は24:00ということである。

 早朝発がなかったのは残念だ。バギオ行きに乗るかどうかを迷いながら“DALIN Transport”を出た。

 歩いている途中に水滴が落ちてきた。一瞬で大雨になった。

 近くにあったジョリビーの軒先に避難した。ジョリビーは昨日一昨日と立て続けに入った。3日連続は嫌なので隣りにあるマクドナルドに行きたかったが、スコールは30mの移動を許さなかった。

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 ジョリビーでコーヒーを飲んだ。

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 雨が止むのを待ってジョリビーを出た。

 昨日道行く人に、バギオ行きのバスについて尋ねていたとき、何人かは「ビクトリーライナーに行け」と言った。ビクトリーライナーがバギオ行きを走らせていないことは確認済みであるが、バギオに行かない場合、マニラ行きのバスに乗ることになる。マニラ行きのバスの時刻を確かめるために、ビクトリーライナーに寄った。午前便は2本あった。

 帰る道すがらトランスポートのバンのドライバーたちにバギオ行きの有無を尋ねながら歩いていた。執拗な行為である。昨日も同じようなことを試みていたが、成果はゼロだった。

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 執拗さは功を奏した。新情報が出てきた。そのバス会社はDANGWA。

 歩いていたのは南方向であるが、DANGWAはバルザン・ハイウェイを北に行ったところにあるらしい。

 北に歩いた。さっき立ち寄ったばかりのビクトリーライナーのバスターミナルの前を通り過ぎた。

 途中そういう会社を知らないという人はいたが、知っている人が1人いた。DANGWAを知っている2人目である。DANGWAは存在する。

 さらに北に歩いた。バルザン・ハイウェイの左手に原っぱが見えた。

 それは原っぱではなかった。トゥゲガラオ空港の貧弱な滑走路だった。空港の近くまで歩くことになるとは思っていなかった。

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 トゥゲガラオ空港の手前の、バルザン・ハイウェイの右側に2台のバスが止めてある広場があった。土の広場はでこぼこで整備されているわけではない。KABUGAO Van TERMINALの看板が掛かっていた。止まっていたバスはクバオ(マニラ)行きだった。

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 広場の奥に屋根のある建物が見えた。屋根の下に2台のバスが止まっていた。近づいてみると、そのうちの1台がバギオ行きだった。バスの近くにチケットを購入する台が置かれていた。

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 探したかいがあったと思ったのは2分間くらいである。明日のバギオ行きの発車時刻は16:30だった。1日1本の運行である。DALIN Transportの14:00発のバスより2時間30分遅い出発である。空港の近くまで歩いたことは徒労に終わった。

 疲労感に支配された帰り道だった。

 途中でトライシクルに乗った。町中のMang INASALで夜ご飯。

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 タージ・ホテルにもどった。


バギオ行きのバスを探した理由/深夜にバギオに着きたくない理由

 バギオ行きのバスを探した理由、深夜着のバスを避けた理由を記しておきたい。

 2013年8月バギオに行った。バギオからボントック経由でバナウェの棚田を見に行き、またバギオにもどった。

 トゥゲガラオからバギオ行きのバスを探していたのは、山のなかを走るからである。途中の村や集落で下り、泊まりながらバギオに抜けるつもりでいた。アパリとトゥゲガラオに行くことをきめたとき、そういう旅をしようと決めた。

 しかしそのあとモルディブとパプアニューギニアの旅を組み入れてしまった。旅程を詰める必要が生じたので、途中の村に泊まるのは止めたが、それでもバスのなかから村や集落を見ておきたい。1日かけてそのルートを辿ることがいつの間にかやるべきことの最低ラインになってしまった。トゥゲガラオからバギオへのルートにこだわったのはそのためである。

 バナウェの棚田は有名であるが、ティグラヤン村にも棚田はある。おそらく2軒しか宿泊施設のないマイニット村はフィリピンのド田舎である。この村には地元の人しか入らない温泉がある。日本の名もなき田舎の、地元の人だけが入る湯の、フィリピン版である。おそらくどの村も貧しく子供が多く商店はなく人は素朴だろう。山のなかの宿にエアコンが付いているわけはなく扇風機もなく、シャワーは水だと思われる。そんな山のなかを抜けるには3日か4日は必要なのだ。

 その最終地点であるバギオだけは都会である。そのバギオに深夜に着くことは避けたい。理由は、バギオの安ホテルのチェックイン事情にある。バギオのホテル料金は上昇している。一方民泊は増えているが、信じられないチェックイン時刻が存在するのがバギオである。11:00~13:00、12:00~12:30、14:00~15:00。フィリピンでこんなチェックイン時刻がある街はバギオだけである。旅行業としての自覚がない。旅行業の風上に置けない。14:00~20:00というのはよいほうである。24:00過ぎのチェックインで安いホテルを探すのはわりと難しいことなのだ。

 また山のなかのバギオは街の中心を少しはずれると急こう配の坂道が普通にある。坂道ではなく山道の様相を呈することもある。そういったことは地図からは読み取りにくい。

 トゥゲガラオとバギオを結ぶルートはあきらめることにした。しかし「また」はある。

 友人のIさんは「また来るためには何かを残しておいたほうがいい」と言った。その国や地域を完全消化しないほうがいいという意味である。フィリピンに「また」来る理由ができた。そのうちの1つはトゥゲガラオからバギオまでの山のなかの村に行くことである。

13日目 2017年10月16日 アパリ トゥゲガラオ

夜行バスでアパリに着いた

 バスはパン・フィリピン・ハイウェイを走っている。山のなかを走っているようだが、バギオ経由よりずっと起伏は少ないはずだ。

 1:00過ぎ、バスはCCQ Bus Stop and Restoに停車した。ビクトリーライナー専用の食堂兼休憩所らしい。食事を取ることができ、食べ物、菓子類、飲料が売られていた。

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 グーグルマップで位置を確認したとき、偶然「エホバの証人の王国会館」を見つけた。英語名は「Kingdom Hall of Jehovah‘s Witnesses」となっていた。フィリピンにいくつかの支部があることはすぐにわかった。日本では反対運動が起きたキリスト教系新興宗教である。

 あまり寝ることができなかった。いつものことである。夜行バスに乗りたくない理由でもある。

 5:00頃、サブのドライバーが乗客の1人1人に声を掛けていた「もうすぐトゥゲガラオだ」。どうやら順調に走っているらしい。

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 何回か寝ては起きたが、最後に起きたときはカーテンの隙間から陽が差し込んでいた。

 バスはカガヤン・バレー・ロードを北に走っていた。アパリに入る1本道である。

 アパリのウェルカム・ゲートをくぐった。少し走るとホテルが見えてきた。最初がリヴァービュー・ロイヤルホテル、次にホテル・ダイアン・アパリ、そしてもう1つ見えた。最初の2つのホテル名だけは調べてきていた。

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 8:00過ぎ、バスはガソリンスタンドに止まった。そこが終点だった。ビクトリーライナーはアパリに拠点を持っていないということだ。

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 運転してきたドライバーにトゥゲガラオ行きのバスの時間を確かめた。15:00発の1本しかない。トゥゲガラオを経由するマニラ行きかもしれない。

 アパリに泊まるかトゥゲガラオに移動するのかを決めていない。


東シナ海の海岸線に出た

 『地球の歩き方』にアパリは掲載されていない。アパリのオフロードマップをダウンロードしてきただけである。

 トライシクルが行き交うカガヤン・バレー・ロードを北に歩いた。トライシクルが多いのはフィリピンのすべての町に当てはまる。

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 カガヤン川の支流を渡った。パブリック・マーケットがあった。あとで寄ることになるだろう。その近くにホテル・アパリがあった。

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 ジョリビーに入った。フィリピンで食べるのに困ったときの救世主である。朝メニューでパンケーキとコーヒーが60ペソ(132円)。田舎のジョリビーは列に並ぶ必要がなければ、席にも余裕がある。残念ながらWifiもコンセントもなかった。

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 ジョリビーの北側を東西に走るのがリサル・ストリートである。カガヤン・バレー・ロードはテ・リベラ・ストリートに名前を変える。寄り道しないでまっすぐ北に歩いた。

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 クイリーノ・ストリート、クエソン・ストリート、ロックサス・ストリート、バルスタロス・ストリートを越え、どんどん北に歩いた。商店は途切れ家屋が並んでいるエリアに入った。最後のカラーッサ・ストリートを越えると海が見えた。

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 海岸線の先は東シナ海である。いつかこの海を見たいと思っていた。ずっとずっと前からである。

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 台湾のアミ族の舟に乗って男はやってきた。ルソン島の北の海岸に着いた。不法入国である。映画のなかの話だ。


映画『海燕ジョーの奇跡』① 東シナ海を渡った男

 ドラマ『過保護のカホコ』(日本テレビ)を少しだけ観た。時任三郎が出演していた。懐かしい俳優だ。

 物語は沖縄から始まった。ロケ地を調べてもわからなかったが、宜野湾警察署は映像に映っていた。ヤクザだった南風ジョー(時任三郎)は対立する組のトップを殺してしまう。那覇とコザは昔からライバル関係にあるが、それはヤクザの世界にも存在した。

 北野武が『海燕ジョーの奇跡』について語っているわけではないが、湿っているようでどこか乾いた沖縄のやるせない風景は映画『ソナチネ』とダブってしまう。それは映画『生きない』(主演・脚本/ダンカン)、『涙そうそう』(主演/妻夫木聡.長澤まさみ)など沖縄を舞台にした映画の共通イメージといえるかもしれない。

 警察と対立する組の双方に追われたジョーは潜伏を止め沖縄から出ることを決意する。知り合った左翼崩れ役の田中邦衛は「誰もどんづまりの南へ向かうとは思わない」という意味のことを言った。

 ジョーは漁船よりはるかに小さなボートに乗った。船頭は三船敏郎である。宮古島経由で与那国島に脱出する。与那国は国境の島だが、そこはまだ国境のこちら側である。

 与那国の西南にはフィリピンがある。台湾のスピードボートに乗り換えた。そのあとにアミ族の、トビウオを捕る船で東シナ海を渡った。

 海を舞台のロードサイドムービーだ。

 ジョーはフィリピンの海岸線にたどり着いた。そこがどこなのかはわからない。映像のなかに、町はなく海岸線が映し出されただけだった。そのあとジョーはトラックに金を渡し早々とマニラに向かう。

 400kmほどである台湾とフィリピン(ルソン島)の間をコンテナ船は動いているが、今も旅客航路はないようだ。アメリカ国境を越えたメキシコからの不法移民や鴨緑江を渡る脱北者をメディアは取り上げるが、東シナ海を越えてフィリピンの海岸線に着くことは想像できない。


映画『海燕ジョーの奇跡』② 沖縄とフィリピン

 フィリピン人の父と日本人の母との混血であるジョーは父の国に帰ったことになった。映画にはフィリピンの猥雑さがふんだんに登場している。フィリピンを知るにはよい映画である。

 1984年に公開された『海燕ジョーの奇跡』を観たのは、おそらく1980年代後半の深夜のテレビである。ストーリーが破綻している、時任三郎がよくないといった評価が定着しているが、映像は私に突き刺さった。ユーラシア大陸と北海道が主な旅の舞台だった当時の私が「南」を意識した最初だった。

 そのあとビデオを2回ほど借りHuluでも観たが、原作となった小説『海燕ジョーの奇跡』(作/佐木隆三)を読んだのは去年である。

 映画のなかではフィリピンで死ぬことになったジョーは、小説のなかでは6ヶ月間のフィリピン生活を経て沖縄にもどることになっていた。映画のなかのフィリピンの映像は強烈だったが、小説では沖縄に比重が置かれていた。これは佐木隆三が2年間沖縄に移住していたことと関わりがあるのだろう。小説としてのおもしろさをまったく感じなかったが、作家の視点は沖縄の戦後に向いており、その意味ではおもしろかった。

 『海燕ジョーの奇跡』の、フィリピンでのロケ地はまったくわからない。ネットのなかに情報はまったくなかった。

 ジョーがたどり着いた海岸はフィリピン北端であることにまちがいない。アパリはルソン島の最北端ではないが、ルソン島北端の町である。

 アパリに来たのは東シナ海の海岸線を見るためだが、アパリは実際のロケ地ではないだろう。

 しかし「ジョーが着いたフィリピン北端の海岸線」は、つまり映像のなかの海岸線の風景は下の4枚と寸分違わなかった。

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アパリを歩いた

 アパリの南側はカガヤン・バレー・ロード沿いに店があるだけだが、北側は東西にも町が広がっていた。それでも町は広くなかった。

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 パブリック・マーケットに入った。古い市場だ。観光客が来ない町の市場は素朴で、まったく擦れていない。地元の人はいつものように市場にやってきていつものように必要なものを買って帰るだろう。

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 歩いている途中にバスターミナルらしきところがあった。バスは止っていなかったが、13:00発のバスがトゥゲガラオに行くという。ビクトリーライナーのバスより2時間早い出発である。チケットは出発時にしか買えないらしい。

 まだ時間があるので南のほうに歩いてみた。ビクトリーライナーのバスが止まっているガソリンスタンドを過ぎた。

 町はカガヤン・バレー・ロード沿いつまり南北に延びているだけで、東西への広がりはない。南に行けば行くほど商店は少なくなった。

 やがて町は終わってしまう。引き返そうと思ったその先にトランスポートのバンが数台止まっていた。バスとジプニーの中間的な存在で、中距離の小規模輸送を担っている。料金はバスよりは少し高い。

 次ぎのトゥゲガラオ行きは30分後だといわれた。13:00のバスに乗るつもりでいたが、トランスポートで行くことにした。

 発車したのは12:00前だった。トゥゲガラオまで140kmほど移動して100ペソ(≒220円)。

 カガヤン・バレー・ロード沿いに大きな町はなかったが、集落はところどころにあった。車窓に畑はあったが、多くは未開拓なジャングルだった。トゥゲガラオまで3時間の車内は狭く、乗り続けるのは苦痛だった。

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トゥゲガラオの北側でバギオ行きのバスを探した

 着いたのはトゥゲガラオ中心部の北である。バルザン・ハイウェイ沿いの両側にトランスポートのバンが何十台も止まっていた。

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 バギオへの移動手段を探しながら町の中心にむけて歩いた。南西方向である。

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 ホテルが2、3軒あった。

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 ビクトリーライナーのバスターミナルがあった。マニラ行きのバスははあったが、バギオ行きはなかった。

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 バルザン・ハイウェイ沿いに止まっているトランスポートの行き先を片っ端からチェックしたが、多くはアパリや周辺の町に行くものばかりだ。バギオ行きを見つけることはできない。明日もう一度探しに来ることになるだろう。

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 カガヤン・バレー・ロードが東西に走る道路と交差する辺りにジョリビー、マクドナルドがあった。

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 チョーキンで遅い昼ご飯を食べた。プレートと飲み物を注文した。チキンはわりとうまかった。

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 バルザン・ハイウェイにあると思われたオートバスのバスターミナルはなかった。誰に尋ねてもそんなところはないと言われた。バギオ行きがなかったのではない。バスターミナルがなかった。
 
 トランスポートを下りたところから1.5kmほど歩きトゥゲガラオの中心部に入った。

 久しぶりのホテル探しである。町の中心であるホテル・デルフィノをめざし南に歩いているつもりだったが、カレッジ・アベニューを西に歩いたようだ。そのことに気が付き、方向を変えたところにタージ・ホテルがあった。インド系ホテルに入ってみた。部屋は新しかった。1泊860ペソ(≒1,890円)。2泊することにした。

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トゥゲがラオを歩いた

 陽は暮れていない。町に出てみた。

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 町は碁盤の目になっておりわかりやすいはずだが、雰囲気はどの通りも同じである。

 町の東にある聖ピーター大聖堂に向けて歩いた。トライシクルが邪魔になってまっすぐ歩けない、そんな町である。

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 聖ピーター大聖堂は予想したより大きかった。多くの人が祈りに来ているのだろうと思っていたが、人はほとんどいなかった。

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 特徴があったのは南側のゴメス・ストリートと北側のゴンザレス・ストリートに挟まれたモール・オブ・バレーだ。4階建ての建物は特に大きくはないが、緑色が際立っていた。

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 歩いている人は多かった。ごった返している、の一歩手前というところだろう。

 モール・オブ・バレーの東側を南北に走るボニフェイシオ・ストリートの反対側にホテル・デルフィノはあった。最初にめざしたホテルである。

 下の1枚はMang INASAL。“Mang”はタガログ語で「ミスター」、“INASAL”は「丸焼き」という意味であることは旅の2日目に書いた。フィリピンのどの町にもあるチェーン店である。うまいとは思ったことはないが、手軽に食べることはできる。

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 タージ・ホテルの近くにお洒落なカフェがあった。町のはずれに近いところである。カフェの名称は“infinitea”。ミルクティ、フラッペが主体の店である。若い人たちで一杯だった。テーブルのある席に座ることができなかった。コーヒーゼリーinミルクティ。

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 タージ・ホテルにもどった。

12日目 2017年10月15日 マニラ

ニノイアキノ空港の前で警察官と

 10:00前、ノマズMNLバックパッカーズホームステイをチェックアウトした。

 パサイ行きのバスに乗ろうとして、ニノイアキノ空港駐車場の前の道路を横断したとき警察官に呼び止められた。「そこを横断してはいけない」と大声で言われた。わかっているが、みんな横断していた。そこを横断しない場合、大幅な迂回をさせられることになる。

 警察官は私に「動くな、待っていろ」と言った。いわゆる難癖というやつである。近づいてきて「旅行者?フィリピン人の奥さんいるの?」と尋ねてきたあと、金がほしいという仕草をした。20年ほど前にはこういう手口が通用していたのだろう。私には初めての経験であるが、警察官の態度はあまりに軽く破壊的に怖くない。もうちょっと迫力を身に付ける必要がある。演技指導してやろうかと思ったくらいだ

 「旅行者で、フィリピン人の奥さんはいない」と答えたあと「もう行くから」と言い、その場を離れた。うしろのほうで警察官は「じゃあ」と挨拶したようだった。くだらない。

 パサイ行きのバスに乗った。料金は12ペソ(≒26円)。

 本格的なフィリピンの旅が始まる。旅のスタートとして馬鹿な警察官の登場は気が利いている。


アラバンへ

 終点のパサイまで行ってしまうとアラバン(Alabang)行きのバス乗り場を見つけるのは面倒くさそうだ。空港を出たバスが、パサイに向かう道路に入ったところでバスを下り、反対側を走っているはずのアラバン行きバスを捕まえるのがベストの選択だろう。時間短縮もできる。名案である。

 隣りの席の人に尋ねた。バスが走っている道路の、反対車線で乗れると教えてくれた。バスを下りてよい場所も教えてくれた。

 バスを下り、少しもどったところにある歩道橋を渡った。反対側のバス乗り場に着いた。

 しかしアラバン行きのバスを捕まえるのは難しかった。

 ↓ここでパサイ行きのバスを下り

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 ↓ここでアラバン行きのバスを捕まえられるはずだったが・・・

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 そもそもアラバン行きのバスは多くなかった。カビテ行きのバスが走っていた。今日カビテには行かないが、次回の情報収集としては役に立った。

 バスは次々やってきた。長距離バスが多かった。100mくらいある細長い停車場のどこにバスが停まるのかわからない。右往左往というより道路に沿って前後の移動を繰り返した。数十本のバスを見送ったあとアラバン行きに乗ることができた。料金は32ペソ(≒70円)である。

 マニラの中心部を抜けても渋滞はひどかった。

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 アラバンまで1時間半かかった。

 アラバンには2度来たことがある。1度目はトンドの近くのトゥトゥバン駅から乗った鉄道をアラバン駅で下車した。アラバン駅の近くに巨大なスラムが見えた。そのうち行かないといけないと「思いつつ」、そのうちはまだやってきていない。そう「思いつつ」あるうちに興味は薄れてしまっている。2度目はルソン島の南にあるナガで乗ったバスが早朝にアラバンに着いたときである。マニラ行きだと思ったバスはまさかのアラバンが終点だった。

 アラバンは交通の要衝である。

 ジプニー乗り場はあったが、目的地に行くジプニーはそこから出ていなかった。アラバン周辺のジプニーの経路が入り組んでいる。すべての主要道路をジプニーが頻繁に行き交い、そうでなくてもわかりにくいジプニー路線はさっぱりわからなかった。

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 そのなかでたまたま見つけた走行中のジプニーのフロントに、「カタルニガン」という文字を読み取った。渋滞で停まったところで追いつき、ドライバーにモンテンルパに行くことを確認し乗り込んだ。

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 ここからも長かった。アラバン周辺は激しく渋滞していた。5、6kmほどの距離を40分近くかかった。そして下ろされたところはモンテンルパ刑務所のかなり手前だった。

 トライシクルのあんちゃんは、モンテンルパ刑務所までは50ペソ(≒110円)だとおっしゃる。ジプニーを8ペソ(≒17円)で乗っているのだから、ここまで来て50ペソを出すのは嫌だ。

 あっちだ、とみんなが指さす方向に歩き始めた。モンテンルパという呼び方はあまり通じなかった。地域全体を指す名称なので、目的地の伝え方としては適切でないようだ。「ニュービリビッド」のほうが地元の人には通じる。

 途中トライシクルのドライバーに尋ねると20ペソだと言うので乗った。それでも高いのかもしれない。

 トライシクルは最初走っていたビリビッド・ロードを逸れ公園(刑務所の敷地かもしれない)のなかの道に入った。

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モンテンルパ刑務所に入ることはかなわず

 昨夜モンテンルパの見どころで検索すると、commercenter cinema、Festival Supermall、Starmallといった施設が上位にランクインされていた。ショッピングモールまたはそのなかにある施設である。1位だと想像していたモンテンルパ刑務所は5位に留まっていた。

 公園のなかの道を700mほど歩くとモンテンルパ刑務所が現れた。別名「ニュービリビッド刑務所」である。地元での呼び名としては、主が「ニュービリビッド刑務所」で、別名が「モンテンルパ刑務所」になる。

 モンテンルパ刑務所は、死刑・無期懲役囚が収容されるマキシマム(重刑犯刑務所)、20年以下の中期有期刑の囚人を収容するキャンプ・サンパダキ(ミディアム)、それらの敷地外にある軽微犯のリビング・アウトに分かれる。

 フィリピン人の学生カップルがなかに入りたいと懇願していたが、撃沈していた。私もなかに入りたいと何度も懇願した。

 ここを見るためだけに来たんです
 10年も前から関心があったのです
 遠路はるばる日本から来たんです
 賄賂払いますけど・・・

 俺はドゥテルテの友だちだから入れろ、とは言わなかった。

 刑務所の門は堅く閉ざされたままだった。実際には門は開いていたけれど、入れなかった。

 うるさい、入ることはできないと強圧的な姿勢を警備員が取ったわけではなかった。ごめんね、入れてあげられないんだ、という態度だった。

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 以前はなかに入れたはずである。最近でも建物の玄関内までは入ることができると書かれたサイトがあった。

 ツアーに参加すれば見学できることを知っている。実施しているのはフレンドシップ・ツアーズである。信頼できるツアー会社である。2013年11月**日9:00、マカティにあるオフィスが開いたと同時に掛け込み、マニラからコロン行きの当日午後の航空券を買ったことがあった。しかし刑務所見学のツアー料金はあまりに高かった。料金の割におもしろくないことは確かである。マキシマム(重刑犯刑務所)を見学できるかどうかはわからない。

 入るには周到な準備がいる。事前に刑務所のしかるべき人を通す(そういうルートを開拓する)、入所者にコンタクトを取って面会させてもらうなどである(この方法を模索したことがあったが早々にあきらめた)。そうでなければ犯罪者として逮捕されるしかない(これは考えていない)。

 刑務所の周辺にはなぜか学生が多かった。ボランティアをしているのかもしれない。

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モンテンルパ刑務所① 戦犯たちの墓

 モンテンルパ刑務所は、第2次世界大戦後日本人捕虜収容所として使われていた。フィリピン全土で捕らわれた日本人は戦犯か否かの選別をされたあと、ここに送られた。1949年時点での受刑者は死刑囚74人、無期刑30人、有期刑29人。いわゆるBC級戦犯である。日本人捕虜のうち17人が処刑されている。山下奉文将軍は郊外のロス・バニョスで処刑された。日本人捕虜が作詞・作曲した『ああモンテンルパの夜は更けて』(歌手/渡辺はま子)は大ヒットした。近くにある日本人墓地に献花に来る日本人は多いが、私は興味があるわけではない。

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モンテンルパ刑務所② 映画『天国から来た男たち』

 2001年に上映された『天国から来た男たち』(出演/吉川晃司、山崎努、大塚寧々、遠藤憲一、及川光博)はよい映画だった。一方、原作となった同名の小説(林洋司)は最低だった。

 フィリピンで逮捕された男の物語の舞台はモンテンルパ刑務所である。映画は刑務所内の実態をリアルに反映したものだった。

 刑務所を扱った映画のなかでは、『天国から来た男たち』『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』が私のベスト3である。ちなみに『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』の原作はともにスティーブン・キングである。

 2002年の日本アカデミー賞最優秀アカデミー賞を受賞したのは『千と千尋の神隠し』である。最優秀賞でないのは仕方がない。しかし『ホタル』や『ウォーターボーイズ』がそれなりに部門賞を取っているのに『天国から来た男たち』はノミネートもされなかった。2001年度のブルーリボン賞にも入っていない。審査員たちは、最後のシーンが気に入らなかったのだ、きっと。

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モンテンルパ刑務所③ ドキュメンタリー『世界で一番オシャレな刑務所』

 2007年より開催されているのがアジアンクィア映画祭である。クィア「Queer」は「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉であったが、現在ではセクシュアル・マイノリティ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルなど)の人々を包括する言葉として使われている。

 2013年に『世界で一番オシャレな刑務所』(監督/Chun Kit Mak)がこの映画祭で上映された。舞台はモンテンルパ刑務所である。ファッションデザイナーが週に一度この刑務所を訪れ、30人の参加者に服を準備させ、ファッションショーを開くというドキュメンタリーである。この様子を書いた記事を読んだことがあるが、ドキュメンタリーを観ていない。

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モンテンルパ刑務所④ ノンフィクション『バタス/刑務所の掟』(藤野眞功)

 1ヶ月ほど前『バタス/刑務所の掟』(藤野眞功)というノンフィクションを読んだ。モンテンルパ刑務所に19年間服役し、ギャング団のトップに昇りつめた日本人、大沢努の記録である。

 刺激的なノンフィクションだった。明治維新後の北海道の道路建設を担った刑務所の過酷さを描いた映画『北の蛍』(監督/五社英雄)とは別の意味で強烈だった。

 旅行代理店から独立した大沢努はパサイの置屋に嵌められ拳銃不法所持で逮捕されたが、父親が金を工面し無罪となったフィリピンでのコネを活かし多くの「ジャパゆきさん」を入国させた。フィリピンでの仕事を継続していくなかで、マルコス大統領の「家族」として認められた。しかしそれが仇となった。

 1986年日本人観光客の「営利誘拐、不法監禁」の罪で再び逮捕された。マルコス政権がエドゥサ革命により打倒されたことによって大沢は「腐敗しきったマルコス残党」としては死刑宣告を受け、モンテンルパ刑務所に収監された。大沢が生き延びたのは、1987年に死刑制度が撤廃されたからである。それによって大沢は無期懲役となった。

 刑務所内の治安はプリズン・ギャングのコマンダー(ボス)と刑務局との折衝により保たれている。それは刑務所側が所内の治安を保つことができないということである。所内では金がいる。金さえあれば何でも手に入る。囚人たちは金を稼ぐために仕事をする。大沢は所内でハンディ・クラフトの仕事を組織することによって成り上がっていった。職人を集め品質を向上させ、日本人向けの輸出ルートを開拓し、所内で勢力を伸ばしていった。そしてプリズン・ギャングのスプートニク(ギャング名)のコマンダーになった。こういういきさつが書かれた本である。

 塀の中は抗争、殺人が常時行われており、疑うことなく金と暴力が支配する世界である。凄惨な事件が数々発生している。

 2005年大沢は出所した。今は浦安で暮らしている。

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フィリピンの刑務所/2017年

 2017年7月3日の朝日新聞の記事「フィリピンの刑務所、定員を580%上回る過密状態に」をまとめてみた。

 1年前にドゥテルテ大統領が就任した後、刑務所の入所者が急増し、全国で定員を580%上回る過密状態にあることがわかった。ドゥテルテが強硬な麻薬犯罪の取り締まりを進めているなか、6月半ばまでに麻薬犯罪がらみで約130万人が自首、8万2千人が逮捕された。それによって刑務所や看守の不足が深刻化している。

 フィリピン・スター紙が2日に報じた刑務管理局長の発言によると、2017年6月30日付の入所者は全国に14万2013人。ドゥテルテの就任後に約4万4千人増えた。一方で全国466の刑務所の定員は2万746人分(2016年末時点)しかない。

 さぞかし大変なことになっているのだろう。それでなくてもフィリピンの刑務所の実態はすさまじい。


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プエルト・プリンセサのイワヒグ刑務所

 プエルト・プリンセサ(パラワン島)郊外のイワヒグ刑務所に入ったことがある。1924年にアメリカ人により建設された塀のない刑務所である。道路からは離れたところにあった。服役者たちは農業をしながら服役していた。見学者に服役者がダンスを披露する刑務所である。「ファーストラブ」(宇多田ヒカル)を踊ってくれた。セブにもダンスを見せてくれる刑務所があるが、入ったことはない。

 キリバスで刑務所を見学させてもらったことがあった。たまたまそこに行く人がいたので連れていってもらった。殺人犯もいる刑務所だったが、農作業をする畑があるのんびりした刑務所だった。

 バングラデシュの刑務所に入ったことはないが、ファーストクラスの刑務所があるらしい。広い部屋があり、秘書がいる服役者も存在する。望みの料理が与えられ、女性が必要になれば、隣の独房でいっしょに過ごすことができる。これはフィリピンの刑務所と同じである。バングラデシュではこのクラスに入所するのは野党の政治犯(政治家)であることが多い。政権が交代すれば与党の自分たちが入所させられる可能性があり、反対派の政治犯を優遇して保険を掛けておくといわれている。


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大渋滞のマニラを行く

 ジプニーでアラバンまでもどった。帰り道の渋滞は少し解消されていた。

 アラバン・バスターミナルの北にあるスターモールに入ってみたが、すぐに出てきた。

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 ジプニーが頻繁に行き交うなかでパサイ行きのバスを探していたら、クバオ行きがやってきたので乗った。

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 パサイ→アラバンが32ペソ(≒72円)だったのに対し、アラバン→クバオは60ペソ(≒132円)だった。後者は割高であるが、全体としてはもちろん激安である。

 後者の料金が高かったのは途中で高速道路に入ったからだ。

 バスは順調に走っていた。それは高速道路を下りてもしばらく続いていたが、パサイの手前からは渋滞にはまった。

 なんとかパサイを抜けたバスは、MRT・line3に沿った道路を走った。自転車と競争すれば間違いなく負ける。

 それでもこのままのスピードで進めばよいのだが、バスは止ってしまった。そしてうんともすんともいわなくなった。恐るべきマニラの渋滞。1mも前に進まなくなった。日本でも外国でもほとんど経験したことのない渋滞である。タイヤが道路に張り付いていた。

 ついに運転を止めて道路上に出ている人たちが出始めた。

 一番前に座っていた私はドライバーと話のできる位置にいたが、「クバオまでどれくらいかかりますか?」と尋ねることは無意味だった。そんなことは誰にもわからない。

 3、4人の乗客がバスを下りた。バス停でなくても当たり前のように下りることができるのはフィリピンのバスのよいところである(礼賛しているわけではない)。

 バスの停まった場所をドライバーに確認したうえで彼らに続いて下車した。(前述のように)バス路線はMRT・line3に沿っており、少し歩けばMRTに乗ることができる。

 バスが停まったのは、北に少し歩けばロビンソン・ギャレリア・コンプレックス、南に歩けばSMメガモールがある場所だった。

 南に10分ほど歩いた。MRTオルティガス駅を越えSMメガモールに入った。人は多すぎた。モール内のカフェはどこも一杯だった。

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 それでもなんとかレストランに入った。ビーフケバブはうまかった。

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アパリへの夜行バスに乗る

 MRTオルティガス駅からLine3のノース・アベニュー行きに乗り2駅目のカムニン駅で下りた。

 10月5日に来たところである。ジョリビーでハンバーガーを食べ、ビクトリーライナーのバスターミナル内で菓子を買った。チケットは10日前に買ってあった。

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 ビクトリーライナー マニラ 18:30 → アパリ 「**:**」

 上の行の「**:**」には、アパリ到着の時刻を書き入れるつもりだったが、アパリ着が何時になるのかを知らない。おそらく誰に尋ねても正しい答えはない。たぶん翌朝8:00頃だと推測している。

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11日目 2017年10月14日 ポートモレスビー マニラ

車に乗せてもらってポートモレスビー空港へ

 8:00過ぎ、今日も部屋に朝食が届いた。

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 昨夜から咳が出ていた。朝になっても状態は変わらなかった。乾いた咳は喉から出ている。熱はなく風邪ではないようだ

 *咳は帰国後まで続き日本で病院に行くことになった。治ったのは1ヶ月後である。

 チェックアウトを早くしてもう一度タウンに寄ってからポートモレスビー空港に行こうと思っていたが、止めることにした。

 チェックアウト時刻の12:00まで部屋にいた。

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 ポートモレスビーに見どころは多くない。

 出発前に世界遺産を調べてみた。「クックの初期農業遺跡」がそれに当たるらしい。ニューギニア島の南部山岳州にあるクック(湿地帯)でバナナ栽培が行われていた。その後入植していたヨーロッパ人たちによって、コーヒーや茶のプランテーションが営まれた。そういった各時代の農業の痕跡が世界遺産になっているのだが、ポートモレスビーとは関係がない。

 チェックアウト時刻ぎりぎりでホテルを出た。外はぼんやりとした曇り空である。

 エンシシハイツにタクシーを呼んでもらった場合、空港までの送迎料金は40キナである。ワイガニ・ドライブで拾えば空港まで20キナで行ける。

 ワイガニ・ドライブを走るタクシーはすべて客を乗せていた。20分ほどの間に10台ほどのタクシーが通過していったが、空車は1台もなかった。

 バスは頻繁に発着していた。バスでボロコまで行って、そこでタクシーを拾うこともできる。ボロコからポートモレスビー空港までは3kmほどである。その気になれば歩くこともできる。タクシーを待つのを止めバスに乗ろうとしたとき、通りがかりの車のなかから声がかかった。

 乗せてくれるらしい。目的地が空港であることを伝えた。

 女性ドライバーだった。助手席には子供が乗っていた。パプアニューギニアで女性ドライバーは多くないだろう。車が好きだから乗っていると言った。おおらかで楽しい人だった。

 エアコン付きの車は6kmを快適に走ってくれた。ありがたかった。女性はビジネスをしていた。

 ポートモレスビーでバスに乗ったのは3回だけである。初日に500mほど警備員の車に乗せてもらい、2日目にはホテルの車に乗せてもらい、夫婦で乗っていた車に助けてもらった。そして今日も助けてくれた。ラスカル5人に遭遇したが、一般のパプアニューギニア人は親切で面倒見がよかった。

 昨日と今日、乗せてもらった車のなかで聞かれたことは同じだった。

 最初は「中国人か日本人か?」という質問である。「日本人だ」と答えたときの反応も同じである。日本はよい国だと思われている。中国人は相当な嫌われようである。日本が金銭的、技術的な支援を行っている一方、中国は豊富な資源を求め多くの土地を買い、現地の人が立ち退かなければならないことが生じているからである。

 もちろん乗せたのが中国人であった場合、中国人に合った接し方をするのだろうけれど。

 国籍の次にくるのは、ビジネスで来ているのかツーリストなのかという質問だ。彼らはビジネスマンを期待していたと思われる。日本人あるいは中国人とビジネスの話をしたいのだ。そういうコネクションを作りたいのだろう。

 もちろん私が旅行者だからといって対応が変わるわけではない。彼らは一様に自分の住所を私に渡してきた。昨日ボロコのバスターミナルまでついてきてくれた人も同じだった。

 エアコンの効いた快適な車はジャクソン空港に着いた。


ポートモレスビー空港で

 出発フロアに椅子は3席しかなかった。40席くらいあるカフェでロングブラックを2杯飲んだ。

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 エンシシホテルが朝食をサービスしてくれたこと(2泊の宿泊にたいし3日分の朝食が出された)、4台の車に乗せてもらったことによって滞在費はかなり節約できた。予想以上にキナが残っていた。

 ポートモレスビー空港内の両替所で。

 USドルに両替したい
 ドルはもうない
 えっ
 ドルはない
 では円に両替したい
 円もない(日本行きの便がありさっき日本人が空港内にいた。こういうことがあるかもしれない)
 ユーロは?
 これだけ(10ユーロ札1枚があった)
 とりあえずユーロに両替したい(10ユーロ分を両替した)
 他にはどの通貨があるのですか?
 オーストラリアドル

 オーストラリアに行く予定はない。そのとき救世主が現れた(ラスカルにはヘンシンしなかった)。2つある窓口の、もう1つのほうでドル紙幣をキナに両替した人がいた。そのドルを回してもらった。

 マーレ(モルディブ)で2度、ドルが釣りとしてもどされた。パプアニューギニアではまさかのユーロの出現である。1ドル紙幣は旅の前より増え、ユーロを持って帰ることになるとは思わなかった。

 出国審査後、菓子を買い残っていたコインを使い切った。

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 空港は混み合っていなかった。出発ゲート前近くに店は多くなかった。その半分ほどは16:00頃にシャッターを下ろした。

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 何気なく出発時刻表を見た。16:50発のマニラ行きは今日の、最後から2番目のフライトである。だから店が閉まったのだ。

 最終便は19:00発のPX72(エアニューギニア)。行き先はPNIとなっていた。ポンペイ(ミクロネシア連邦)である。かなり前にポンペイに行こうとして何度かチェックしたことがあったが、ポートモレスビーからのフライトがあることを知らなかった。

 *帰国したあと調べてみると「2016年12月3日就航」という情報が出てきた。

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マニラ到着

 PX10 ポートモレスビー・ジャクソン空港 16:50 → マニラ・ニノイアキノ空港 20:10

 下の写真の右上にわずかに写っているのはサウスパシフィックEXPORT・ビールである。極楽鳥の絵柄で、エッジ・カフェで飲んだSPビールよりもうまかった。

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 パプアニューギニアに行くときに観た映画『ワンダーウーマン』をまた観てしまった。『ブラック・スキャンダル』も『96時間/リベンジ』も退屈しなかった。『96時間/リベンジ』のアルバニアの風景は平凡すぎたけれど。

 ニノイアキノ空港第1ターミナルを出て、空港の前を走るパラナク・スカット・ロードに出た。パスコアドライブに入りまっすぐ歩いた。もはやお馴染みの通りである。セブンイレブンがありミニストップがあった。左折しそのまま歩いた。

 住宅街のなかの小さな商店街に入った。庶民的な通りである。22:00頃まで活気があるが、23:00を過ぎると店も閉じ、少し寂しくなる。トライシクルは入ってくるが、車は入らない。

 路地に入り少し歩いたところにあるノマズMNLバックパッカーズホームステイに着いた。4日前に宿泊した民泊である。4日前に会ったオーナーが迎えてくれた。

10日目 2017年10月13日 ポートモレスビー

ホテルの車でボロコへ

 今朝も朝食が部屋に届けられた。朝食は全員にサービスされているようだ。

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 8:30、エンシシハイツを出ようとしたとき、ホテルの警備員が送ってくれることになった。ポートモレスビーのホテルでは宿泊者を市内に送るというのはよくあることだが、いつも頼れるわけではない。

 パプアニューギニアのホテルには宿泊者を守ろうという配慮がある。裏を返せばそれほど危険であるということだ。チェックイン、チェックアウトの際の送迎は有料だが、こういう場合は無料でやってくれる。

 送ってくれた警備員は親切だった。車のなかで地図(グーグルマップをコピーしたもの)を取り出した私に、今どこを走っているとかどこに何があるといったことを丁寧に説明してくれた。


ボロコを歩いた

 エンシシハイツを出るとき、ボロコ(BOROKO)に行きたいと伝えていた。商業地区らしいが、詳しくはわからない。

 車は5kmほど走り、広場に乗り入れた。近くにはバスターミナルがありミニバスが並んでいた。ボロコに着いたようだ。

 だだっ広い広場にスーパーマーケット、商店、デパート、食堂などがあり、地元の人たちが集まっていた。ぶらぶらしているだけの人たちもいる。仕事を求めてポートモレスビーにやってきたが、職に就くことができない。暇を持て余しているような人たちからはそんな気配が漂っていた。

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 適当な場所に物を並べて売っている人たちも大勢いたが、建物が林立しているわけではない。ボロコはポートモレスビーの中心ではないようだ。

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 口のなかを赤くしている人たちがいた。ブアイを噛んでいる。ヤシの木の一種のビートルナッツと呼ばれる「実」、マスタードの茎、石灰粉を口のなかで混ぜ合わせると真っ赤な唾液が出る。気分が高揚し眠気覚ましになるらしいのだが、人々はそれを道に吐きだす。土が赤くなっているのはブアイを吐きだした跡である。

 スーパーマーケットに入った。なかは暗かった。スーパーマーケットで特産品が売られているのは先進国である。発展途上国ではそもそも絶対的な商品の品数は少なく画一化されているので、同じ大きさのスーパーマーケットでは同じものが売られることになる。

 デパートには商品がしっかり並べられていた。

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 ピジン語では、食事のことをカイカイという。カイ・バー(KAI BAR)は食堂である。入ってみた。商品が鉄柵のなかにあるのは暴動による略奪から守るためである。フィジーやトンガなど南の島国ではよくあることで、暴動の際にターゲットにされる中国人商店などは必ず鉄柵で防御している。食堂のなかの売り場が鉄柵で囲われているのは初めて見た。鉄柵のなかにコーラなどの飲料を置いてあるので商店と同じことになるのだろう。

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 スーパーマーケットを中心とした広場を通り抜けると住宅街に入った。住宅街を歩き続けるのはおもしろくなかったが、ボロコの一画の南側にあるポートモレスビー総合病院まで行ってみることにした。

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 途中にホテルが2、3軒あった。どのホテルも3mほどの鉄の塀で覆われていた。あまりに殺風景で、一般的にイメージするホテルの外観と異なるのはエンシシハイツと同じである。治安事情はホテルの塀を見ればわかる。

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 すぐそこがポートモレスビー総合病院というところで行き止まりに突き当たった。行き止まりを突き抜けることができれば広い通りに出ることができるのだが、迂回しても行き止まりを抜けることはできそうになかった。引き返すことにした。

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 ボロコのバスターミナルに向かった。

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 途中で道を尋ねた人がいっしょに付いてきてくれた。それだけではなくタウン行きのバス乗り場を見つけてくれた。タウンを通るバスはバスターミナルのなかから発車しているわけではなかった。


ラスカル(強盗団)1号出現! カメラを引っ張る手

 タウン行きのバス停はヒューバート・マレー・ハイウェイ沿いにあった。案内してくれた人はバスが来るまでいっしょにいてくれただけでなく、やって来た4番バスのドライバーに(私を)タウンで下ろしてやってくれと伝えることを忘れなかった。

 走り出したバスが丘陵地帯の下り坂に差し掛かったとき、車窓に海が見えた。次のバス停にバスが停まったときも海は見えていた。ドアのすぐ後ろに座っていた私は写真を撮ろうとしてカメラを取り出した。窓の外にカメラを出したとき、窓の外から手が伸びた。

 バスを下りたばかりの男が窓の外から手を伸ばしカメラを奪おうとした。カメラをつかんで引っ張ったのだ。

 カメラの紐は私の手首にまかれた状態だった。外の男とのカメラの引っ張り合いになったが、手首にまかれた紐がカメラを守った。

 一瞬車内は騒然とした。「気を付けて」と近くにいた人に言われたが、車内はすぐに平穏を取り戻した。珍しいことではない、車内はそんな雰囲気だった。私だけがどきどきしていた。


水上家屋周辺

 コキ・マーケットの近くでバスを下りた。

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 近くに水上家屋があった。水上家屋の手前の広場では、何組かのグループが輪を作ってくつろいでいた。何気なく近づいてみた。彼らが警戒していることがわかったが、水上家屋を写真に撮りたいと伝えると、どうぞという感じだった。

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 ただ水上家屋のなかに入っていくことは止められた。

 彼らはモツ族らしい。おそらく800ある部族の1つである。広場にいた人たちの求めに応じ、写真を撮った。

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コキ・マーケットとコキ・フィッシュ・マーケットを見た

 コキ・マーケットに入った。

 一部の場所では土のうえに野菜、果物などがそのまま置かれていた。イモ類が多かった。賑やかなマーケットで、ここでも多くの人の写真を撮った。

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 何事もなくコキ・マーケットから出てくることができた。

 コキ・マーケットの近くにコキ・フィッシュ・マーケットがあった。屋根はあるが吹き抜けのような建物である。商品の種類は多くなさそうだが、魚、蟹、貝などが所せましと並べられていた。日本では見かけない熱帯の魚が並べられていた。

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 2日目(10月5日)にカメラが故障してから、メニュー画面を押すことによってカメラをオンにし、スクリーンタッチでシャッターを切っている。通常の電源ボタンは機能せずシャッターを押せない状態である。3日目(10月6日)のブログにそのことを書いたが、問題は他にもあった。暗すぎる場合、露出機能がうまく作動しない。照明が不足している室内写真は真っ黒になってしまう。コキ・フィッシュ・マーケット内の写真はすべて真っ黒だった。

 今歩いているコキという地区はゴードン(ワイガニ・ドライブ沿い)と並んで、ポートモレスビーのなかでもっとも危険な地区である。ポートモレスビーの市内ツアーでコキ・マーケットは「車窓からの見学」になっている。

 外務省安全情報に次の一文があった。2008年5月28日に発表された古い情報である。

 ポートモレスビーにおける注意喚起のほとんどは「ポートモレスビー市内では・・」という書き出しで始まっていたが、下の記事だけは「ゴードン地区」と特定されていた。

 5月23日、ポートモレスビー市内ゴードン地区において、警察官の制服を着た犯人が偽の検問を実施していたところ、車両を運転中のインド系住民2名が求めに応じて停車しました。警察官の制服を着た4人組の犯人は、当該車両に乗り、2名を人質とした後、2名の勤務する会社の金庫を襲い、約6万キナ(240万円)と会社の車両を奪って逃走しました。

 もしカメラを取られていたら、たぶんゴードンで売られることになる。

 海に沿った道路をタウンのほうに歩いた。道路の名称はヒーリー・ロードである。4車線の車道の両側には歩道がある。車はときどき通るが人は歩いていなかった。

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 ロータリーを過ぎたところでヒーリー・ロードはエラ・ビーチ・ロードに名称を変える。エラ・ビーチ・ロードの海側にはエラ・ビーチがある。

 右手は丘陵地帯、左手は海、1km先には小高い山が見えた。この小高い山周辺はラスカル(強盗団)の出没地帯である。
 
 その小高い山に登るつもりはないが、800mほど先を右に曲がった辺りはタウンである。

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ラスカル(強盗団)2号出現! 70m後ろにぴたりと張り付いてきた

 上の写真の道を歩いていたとき不審な感じがしていた。コキ・マーケットもコキ・フィッシュ・マーケットにも多くの人がいたが、ヒーリー・ロードだけは1人も歩いていない。誰もいないというのは安心である反面、不気味でもあった。

 歩き始めてすぐに後ろを振り返ってみた。70mほどのところを1人の男が歩いてきていた。大人ではない、おそらく15歳くらいの少年である。私は立ち止まり海を見た。そういうふりをしてみた。

 少年も止った。そういうこともあるだろうが、やはり不審な感じである。私は再び歩を進めいきなり止まって後ろを見た。私のほうに歩いてきていた少年もそこで歩くのを止め、海を見た(ふりをした)。怪しすぎる。

 もう1度それを試みた。少年のリアクションは同じである。少年を先に行かそうと私は止まったままでいたが、少年も動かなかった。

 ラスカル(強盗団)であることを確信した。ラスカル2号と命名した。1号はバスのなかでカメラを盗ろうとしたヤツである。ロンドンハーツの場合は2号まで、ということになるが、ここはパプアニューギニアで相手はラスカルである。


ラスカル(強盗団)3号4号出現! 急襲された!

 私は歩いては止ることを繰り返した。そのうちラスカル2号の前に2人組の子供たちが歩くようになっていた。私と同じ動きをする(歩いては止ることを繰り返す)少年を、後ろから歩いてきた2人組が追い抜いたということである。

 それぞれ10歳くらいの2人組はそのまま私に接近してきた。私が何回目かに振り返ったとき、2人組はすぐ近くまで来ていた。2人組は自然な歩き方だったと思う。

 私は2人組を先に行かそうとした。「こんにちは」と声を掛けた私に2人組は挨拶を返した。

 その瞬間である。2人組はラスカル3号4号に変身した。「ヘンシン!」とは言わなかった。

 ラスカル3号と4号は私のショルダーバッグを奪い取ろうとした。未だにこの行為が解せない。私はショルダーバッグを肩に掛けていたのではない。たすき掛けにしていたのだ。たすき掛けにしている者からショルダーバッグを奪うことはそれなりに難しい。私は184cmで3号4号はちびっ子ラスカルである。私からショルダーバッグを奪いとろうとすることは現実的でない。ショルダーバッグの紐の部分をちぎろうとしたのか、ショルダーバッグのポケットを開けようとしたのか理解に苦しむ。


ラスカル(強盗団)5号出現! 救世主は悪魔だった!

 そいつはやってきた。疾風怒濤の黒い影が4車線道路を走って横断してきた。私が3号4号と向かい合っているとき、そのなかに割り込んだ。戦局は一変した。[私 対 ラスカル3号4号]の状況は、[私+救世主 対 ラスカル3号4号]となったのである。

 184cm日本人と175cmパプアニューギニア人の急造ペアが圧倒的戦力でちびっ子ラスカルを追い払ったのでない。救世主は1人で突進しラスカル3号4号を蹴散らしたのだ。それはまるで場外からリングにあがったブルーザー・ブローディのようであった。

 そして私が礼を言おうしたとき、ブルーザー・ブローディはラスカル5号にヘンシンしたのである。

 どいつもこいつも「ヘンシン!」と言わずにラスカルになる。だから不意打ちに近い状況での対応を迫られる。それに登場してくる全員がラスカルなのだ。

 ラスカル5号もまた理解不能な攻撃方法を取ってきた。たすき掛けにしている私からショルダーバッグを奪おうとしたのだ。また同じことを書くしかない。ショルダーバッグの紐の部分をちぎろうとしたのか、ショルダーバッグのポケットを開けようとしたのかわからない。ラスカルは大人も子供もやることは同じである。彼らは、殴る、蹴る、投げる、倒すという格闘技には精通していない。ただショルダーバッグに手を掛け、引っ張ろうとするだけなのだ。引っ張ったからといってショルダーバッグは彼らのものにはならない。くどいようだが、私はたすき掛けをしているのである。

 大声で「ポリス!」と叫んだ。人がいるコキ・フィッシュ・マーケットまで300mほど離れている。私の声は聞こえない。聞いた可能性があるのは、逃げていくラスカル3号4号と、70m後方にいたラスカル2号である。襲ってきたのがラスカルなら目撃証人もまたラスカルなのだ。やれやれ。

 私は空手の真似事をしたわけではなかった。右の拳はギャラクティカマグナムを打たなかったし、北斗神拳の奥義も封印したが、意外と気弱なラスカル5号は勝手に退散した。

 ヒーリー・ロードはラスカル的世界の入口だった。その世界においてラスカルはまるでショッカーのように大量生産されるのだ。

 
ラスカル(強盗団)まとめ/発見から対処まで

 最新のイージスシステムは最大探知距離324km、200個以上の目標を同時に探知し追尾できる。私のイージスシステムは、後方に出現していたラスカル2号3号4号を捕捉し追尾することに成功していた。

 私の追尾を知っていたラスカル2号(15歳少年)は後方70mの距離を維持したまま付いてきたが、私を襲うことをしなかった。私は3、4回振り返り立ち止まり「お前のことを知っている」という探針音を送っていた。私が立ち止まったときに立ち止まったラスカル2号は私の探針音をキャッチしていた。

 ラスカル3号4号(10歳くらいの子供2人組)が最初に私の視界に入ったのは、追尾を始めたばかりのラスカル2号を確認しようと振り返ったときだ。後方からやってきたラスカル3号4号は2号を追い抜き、前を歩くようになっていた。私が挨拶し彼らが挨拶を返してから襲撃までは2秒くらいである。襲われるまで相手がラスカルであるかどうかが判断できないので対応は難しい。

 後ろを歩いていたラスカル2号3号4号を追尾していたというのに、4車線道路の反対側からこちら側に駆け寄ったラスカル5号を捕捉できなかった。ノーマークの175cmの黒人(がっしりタイプ)が視界に入ったのは私との距離が10mに迫ったときである。

 1時間に5人のラスカルに遭遇した。実際に襲撃してきたのは4人だ。襲撃に失敗した彼ら(1号3号4号5号)はいずれも「未遂」に終わり、何もしてこなかったラスカル2号は、3号4号5号が絡んだ襲撃の「目撃者」に格上げされたのである。

 彼らが凶器を持っていなかったのは幸いだった。

 ラスカル3号4号は傾斜角70度くらいの右手の丘陵地帯を上って逃げた。まるでヤギである。ラスカル5号はコキ・マーケットのほうに逃げた。70m後ろを歩いていたラスカル2号もまたコキ・マーケットのなかに消えていった。

 サラエボ(セルビア)にスナイパー通りがある。ヒーリー・ロードからエラ・ビーチ・ロードにかけてはラスカル街道である。


コキ・マーケットにもどった

 そのままさらに歩く気にはなれかった。コキ・マーケットに引き返した。

 コキ・マーケットのバス停付近にはスーパーマーケットがあった。ボロコにあったスーパーマーケットとほとんど同じである。内部は暗かった。壊れたカメラでは十分な露出が得られなかった。

 4番バスに乗った。タウンに向かうバスである(かどうかを知らないが、おそらくそうである)。


エッジ・カフェ

 今朝、ホテルの警備員に送ってもらったとき、タウンにあるカフェを教えてもらった。グーグルマップでエッジ・カフェの場所は確認できた。

 エッジ・カフェの近くのバス停でバスを下りた。

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 エッジ・カフェを見つけるのに手間取った。カフェはニュージーランド銀行の隣りの、外国人ビジネスマンたちが住む高級マンションの敷地内にあった。警備員のチェックを受けないと入れないエリアである。

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 敷地内にお洒落なカフェは2軒あった。

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 奥にあったエッジ・カフェに入った。SPビールを飲んだ。パプアニューギニアには3種類のビールがあるが、パプアニューギニア人にはこのSPビールが一番人気らしい。

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 エッジ・カフェを出た。官庁街のタウンを歩くつもりだったが、止めた。


ゴロカまで車に乗せてもらった

 ゴロカにもどることにした。乗ってきたバスの反対方向に向かうバスに乗ればよいはずなのだが、反対車線にバス停はなかった。そのバス停を探していたとき、通りかかった車のなかから声が掛かった「乗せてあげるよ、どこに行きたい」。

 怪しい感じではなかった。乗っていたのは中年の夫婦である。遠慮なく乗せてもらった。一般のパプアニューギニア人はとても親切だ。その親切な人たちの住む国がラスカルを生んでいる。

 ゴロカにもどってきた。もう一度ゴロカを歩いてみた。

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 バスターミナルにはミニバスが集まっていた。ワイガニ方面に行くバスは9番らしい。バスは頻繁に出ているようだ。今日3本目のバスに乗った。

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 窓から外を見ていたが、目印となるスーパーマーケットを見逃がした。1つ先のバス停で下りるはめになってしまった。それだけで緊張してしまった。

 15分ほど歩いてエンシシハイツにもどってきた。近くにある学校の門は閉まっていた。

 部屋に入ったのは16:00だった。

9日目 2017年10月12日 ポートモレスビー

パプアニューギニア入国

 PX11 マニラ・ニノイアキノ空港 (-1)21:25 → ポートモレスビー・ジャクソン空港 5:00

 10月4日から8日間でLCCに5本乗った(ジェットスター1本、スクート4本)。この旅で6本目のフライトはLCCではない。久しぶりに食事の出るフライトである。エア・ニューギニアのビーフはうまかった。

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 機内で観た映画『ワンダーウーマン』はおもしろかった。単純なアメリカンヒーローとは一線を画す映画に仕上がっていた。時代考証を精密にすることによって映画にある種の深みを与えていた。一方でエンターテインメント性を失っていなかった。

 舞台となったのは、原作の第二次世界大戦ではなく第一次世界大戦である。後日知ったことがある。時代を第一次世界大戦下としたのは、ヒロインのガル・ガドットの出身がイスラエルであることと関係があるらしい。もし第二次世界大戦下のドイツを舞台にしていたら、ワンダーウーマンはホローコーストの復讐になってしまう。

 観た映画のもう1本は『オデッセイ』である。こちらもおもしろかった。いつの日か人類は火星でじゃがいもを育てることができるのだろうか。

 2本の映画のせいであまり眠れなかった。

 4:50にポートモレスビー・ジャクソン空港に着いた。遅れてもよいときには遅れないのが飛行機である。

 パプアニューギニアの入国にはビザで必要である。日本のパプアニューギニア大使館でビザを申請すれば、写真を貼ったビザ申請書が必要だが、ポートモレスビー空港では必要ない。ビザ申請のために並ぶ必要はあるが、手続きの時間は長くない。ビザ発給と同時に入国管理が完了する合理的な入国審査が行われていた。つまりビザ申請と入国審査は同じ場所で行われるので並び直す必要はない。かって必要だった手数料(100キナ)はなくなっていた。

 10,000円を両替した。282キナが渡された。
 
 ジャクソン空港の到着フロアと出発フロアはともに1階である。

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タクシードライバーとの一戦

 宿泊先はエンシシハイツである。昨日メールが入っていた。ホテルチェックイン時に迎えてくれる2人の人物の名前、空港からタクシーに乗った場合の料金、宿泊料金をクレジットカードで支払いできないことなどが書かれていた。

 エンシシハイツまで6kmある。タクシーに乗るしかない。このホテルより近い場所に安いホテルはなく、2軒あった安い民泊は8kmほどのところにあった。民泊の方向にバス路線があるかどうかを確認できなかった。もっともエンシンハイツのほうもバス路線があるかないかはわからない。幹線道路が近いところを走っているので、バス路線があるだろうと推測しただけである。

 問題は距離よりも治安である、と書きながら、治安については高を括っている。朝っぱなからラスカル(強盗団)は出現しないだろう。

 あまりに早い時間に着いた場合、エンシシハイツも困るだろう。時間をつぶすために出発フロアにあった小さなカフェに入った。空港で唯一つのカフェである。リストレット(エスプレッソ)を飲んだ。

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 空は明るくなってきた。タクシーで行くか歩くかを迷いながら、空港ビルの外に出た。空港関係の人に尋ねてみた。

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 エンシシハイツに行きたいのですが、どっちの方向ですか?
 エンシシハイツは有名じゃない その近くにあるワイガ二ロッジをめざすといい 歩いていくの?
 歩きます
 遠いですよ
 知っています 歩くのは危険ですか?
 危険ということはないです

 危険ではないらしい。天使は微笑んだ。意気揚々と歩き始めたが、その先にいた駐車場の警備員が別のことを言った。

 危険だ 今タクシーを呼んであげるから
 いや歩く
 ダメダメダメ

 そのとき別の警備員の乗る車が通りかかった。Jマートショッピングセンターまで乗せてくれることになった。車には2人乗っていた。

 下りるときに10キナ要求してきた、ひそひそ話をするような小さな声で。ニタニタと笑いながら。嫌な感じである。もちろん断った。この10キナ要求で、ウキウキしていたムードは消えた。そういう土地柄だということだ。

 500mほど乗せてくれたのだから、本来は感謝すべきことであるのだけれど。

 Jマートショッピングセンターは大きな通りが交差するところにあった。数台の客待ちのタクシーがいた。

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 最初に逢った駐車場の警備員にタクシー代は10キナ(≒344円)ぐらいだと確認してあった。その金額を軸に交渉した。

 ワイガニロッジの近くにあるエンシンハイツまでは「20キナ」、タクシードライバーはそう言った。ドライバーはいかにもぼりそうな感じだったが、交渉するとあっさりと10キナになった、半額である。しかも一気にそうなった。

 8キナ(≒275円)だったら乗る、と言ってみた。8キナになった。このタクシーで行くことにした。

 5kmほど走った。目的地とは異なるところに向かっているようだ。なんとなくそういう気がするということなのだが、こういう勘はほぼ当たっている。

 結論から書くと、ドライバーはエンシシハイツはもちろんワイガニロッジも知らなかった。知らないで運転していることが途中でわかった。止めてくれと言ったが、止めようとしない。ドライバーは笑っていた。

 怒鳴ってようやく止めさせた。「止めてくれ」と私が言ったら「止める」ことを約束させた。

 スマートフォンのグーグルマップを起動させた。オフラインの地図をダウンロードしているので地図は表示されるが、位置情報が表示されない。グーグルマップのコピーを持ってきているが、地名表示はあまりに少なかった。ただ、この場合に必要なのは地図そのものではなく位置情報である。

 車はワイガニ地区に入ったと思うが、走行地点がわからない。もっともグーグルマップの住所と実際の場所が異なることが今まで数回あったので、位置情報が機能しても目的地に正しく着けるとは限らない。

 停めたタクシーを下り、歩いていた2、3人に尋ねている(私が尋ねている)途中で、ドライバーが「ワイガニ***(なんとか)」という別のところに向かっていることがわかった。目指しているのは「ワイガニ***(なんとか)」ではなくワイガニロッジ(ホテル)である。タクシーに乗ってから「ワイガニロッジ」という名前を私は10回ほど連呼していたのに、選挙カーから流れてくる候補者名のように。

 念のために断っておくと、ワイガニロッジは目的地ではない。ワイガニロッジは、予約してあるエンシシハイツから300mほど離れたところにある、多くの人が知っているらしいホテルだということで、とりあえず目印にしているだけである。ワイガニロッジでさえ直接の関係はないのに、「ワイガニ***(なんとか)」とやらは「あっしには何の関わり合いもございません」。

 ドライバーは自分の正当性を主張していたが、私に質問された道行く人たちはワイガニロッジの方向を教えてくれた。タクシーは大きな交差点をまちがえて曲がってしまったようだ。これ以上、こいつの助手席に座るのはうんざりである。すでに1kmほど余計に走っている。8キナ払って引き取ってもらう。ワイガニロッジもエンシンハイツも1km圏内にあるはずだ。

 ところがタクシードライバーは「20キナをよこせ」と主張してきた。

 やれやれ。まったく予想していなかったわけではないけれど。

 交渉後の金額ではなく最初に提示した金額を払え、とタクシードライバーが言ってきたことは今までにもあった。最後にこの種のトラブルがあったのはインドだった気がするが、タクシーにはほとんど乗らないので頻繁にあるわけではない。

 数年ぶりに遭遇したこの面倒くさいヤツを撃退しないといけない。

 とりあえず戦闘能力70ぐらいで戦うことにした。50だと迫力に欠けるだろう。

 まずは駐車場の警備員が10キナで行けると言っていたことを話した。交渉は20キナ(≒688円)→10キナ(≒344円)→8キナ(≒275円)という経過を辿り、8キナで合意したはずである。合意は契約であり、ムービングゴールは許されない(ムービングゴールとは、あらかじめ設定された共通認識であるはずのゴールがあとでずらされることである)。

 相手は譲らないが私も譲らない。

 こういうときの金額の決め方として世界共通の方法は両者の主張の「なかを取る」である。私は平均値〔(20+8)÷2=14キナ〕で折り合いたくはないが、集まった人だかりは子供を含め7、8人になっていた。集まってきた人のなかには、20キナを払うべきだという人がいた。10キナあるいは8キナでよいという人はいなかった。完全アウェイである。日の丸ははためいていなかった。

 タクシードライバーはあいかわらず20キナを主張していた。

 15キナ(516円)で決着した。

 私は頑張って交渉しなかった。戦闘能力を100にして戦わなかった。

 理由はエンシシハイツから昨日届いていたメールにある。宿泊先のエンシシハイツから送られてきたメールには、ホテルまでのタクシー料金は40キナ(≒1,376円)と書かれていた。メールを読んだとき、私はこの料金を高いと思ったが、それを基準に考えると、決着した15キナという金額は割安である。

 あっさり解決してしまった。トラブルのあとの不快感はなかった。

 ここからは徒歩である。さっきまでタクシーが走っていたワイガニ・ドライブまでもどった。エンシシハイツまでの600mほどを歩いた。丘陵地帯の道は曲がりくねっていた。


エンシシハイツにチェックイン

 エンシシハイツの出入り口はトタンで覆われていた。殺風景な風景のなかに警備員が2人いた。トタンを張り巡らせているのは治安のためであるが、2人の愛想はすこぶるよかった。

 警備員はホテルのスタッフに連絡を入れてくれたが、すぐにチェックインはできないと言われた。仕方がない、エンシシハイツに着いたのは7:30である。

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 チェックインタイムは14:00である。「早朝に着くので荷物を預かってほしい」とメールをしておいたが、Wifiにつなぐことができなかったので、返事が来ているのかどうかわからなかった。

 15分ほど待っただけで、8:00前にチェックインをさせてもらえた。外出しているオーナーがもどってからでないと鍵を渡せないと言われたが、30分後には手元に届いた。

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 鍵のすぐあとに、突然朝食が部屋に運ばれた。朝食はホテル料金に含まれていないしリクエストもしていなかったが、無料だというので遠慮なくいただいた。予約しているのは2泊である。仮に朝食が付いた場合でも、それは明日と明後日の朝食ということになるはずだ。

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 この朝食は翌日も翌々日も部屋に運ばれた。2泊3日の滞在で私は朝食を3回食べることができた。マニラにもどったとき、ブッキングドットコムでもう一度予約内容を確認してみたが、「朝食はなし」となっていた。

 飛行機内でほとんど寝ていなかったので、ベッドに横になったらすぐに寝入ってしまった。


ポートモレスビーの1日があっけなく終ってしまった

 13:00頃、目が覚めた。

 今日一日を棒に振った、起きたときそう思った。

 ささやかな抵抗を試みた。ホテルの近くを歩くことぐらいはできる。

 14:00頃、外に出た。近くに学校があった。生徒たちが囲いのなかから話しかけてきた。

 ワイガニ・ドライブに出た。

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 スーパーマーケットの前ではカラフルな服をまとった女たちが派手な服や小物を売っていた。この国で人々の写真を撮るのは簡単である。それどころか喜ばれる。次から次に撮影のリクエストがくるので断るのに苦労するくらいだ。

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 リクエストに応じ市場で撮影しているとき、雨が降ってきた。

 すぐに止むのが南国の雨である。雨は強くなかったが、それでもみんな徐々にスーパーマーケットに避難し始めた。

 雨が小降りになったとき、傘を取りにエンシシハイツにもどった。エンシシハイツに着いた直後、雨足は強まった。

 雨はすぐに止んだが、もう外に出る気はしなくなった。本当に一日がつぶれてしまった。

 エンシンハイツにWifiの設備がないことはブッキングドットコムに記載されていた。1泊7,835円の部屋でやることは旅日記を書くことしかなかった。


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パプアニューギニアについてまとめておく。

パプアニューギニア①

 世界で2番目に大きい島はニューギニア島である。その東半分と周辺の島々からなるのがパプアニューギニアだ。そこは秘境であり800の部族がそれぞれの言語と文化を持ち暮らしている。

 情報は少なかった。図書館で借りてきた「地球の歩き方パプアニューギニア」は「GEM STONE」シリーズとして出版された。内容はまるで雑誌のようで、ガイドブックとしての機能を放棄していた。パプアニューギニアの人口と面積はわかったが、歴史と称した2ページ分の年表と2ページに渡って記載された政治・経済の内容は乱雑極まりなかった。中学社会の教科書を見習うべきだろう。首都の地図すら記載されていないガイドブックにバス情報が載っているはずはなかった。住所と電話番号しかないホテルの記載に意味はない(20年くらい前の「地球の歩き方」のホテルの記載はまだそういった体裁だった)。

 飛行機内の座席ポケットにある機内誌程度の記事を集めたレベルの書籍が売れるはずはなく、2009年12月の初版はそれが絶版となったようだ。マーケットは正当な評価をしたということである。図書館でこの本を借り必要な6ページほどをコピーし返却した。


パプアニューギニア② 言語

 パプアニューギニアは4つの地方に分類され19の州と首都で構成されている。独立は1975年で、オーストラリアとのつながりは強い。

 公用語は英語、ピジン語だが、800の言語があると言われている。それは部族の数と一致する。ピジン語は英語からの借用で成り立つ言語である。学習するのは難しくないかもしれない。

 ありがとう → tenkiu tru テンキュー トゥルー
 ごめんなさい → sori tru ソーリー トゥルー
 私は元気です → Mi orait ミー オレイト、

[私]は [Mi](ミ)しかない。[I][My][Me]はない。[あなた]は[Yu](ユ)で、[私たち]は[We]ではなく[Yumi]となる。


パプアニューギニア③ ラスカルと治安 → 翌日ラスカルたちに遭遇することをこの日まだ私は知らない。

 国の全域で治安はよくない。首都ポートモレスビーの治安は最悪であるといわれている。世界で最も住みにくい都市ワースト3の常連である。外国人が歩いていると、ラスカル(強盗団)に金品を奪われる可能性は低くない。ブログの旅行記を5つ読んだ。そのうちの2件それぞれに、ブログの「管理人本人」が遭遇した(つまり伝聞でない)盗難と暴行の記載があった。その発生確率は驚愕に値する。

 首都の空港から街中まで遠くはないが、バス路線はない。ラスカル(強盗団)に変貌する可能性のあるタクシーを利用しないで、ホテルに送迎を依頼しておくのは半ば常識化している。今朝私はタクシーを利用したけれど。

 空港、ホテル、街中、スーパーマーケット、バスのなか、外国公館、住居周辺など犯罪はどこでも発生している。警察署内で発生していると書かれてはいなかったが、国際線ターミナルと国内線ターミナルの間の100mでラスカルが出現する国である。

 外国人だけが狙われているわけではない。住民もまた被害にあっている。ラスカルは公平なのだ。強盗事件は日本の約75倍、殺人事件は約40倍らしい。シリアやフィリピンのマラウィなどの戦闘地帯を除いた場合の、世界最悪地帯と考えたほうがよいかもしれない。

 日本にいるときツアーを探してみた。参加するつもりはもちろんないが、見どころを知っておくためである。所要3.5時間のポートモビスレー観光の内容は「送迎、国会議事堂見学(下車)、国立植物園見学(入場)、ダウンタウン(車窓)、中華料理の昼食、送迎」となっていた。特筆すべきはダウンタウンを「車窓からの見学だけ」で済ますことである。これには治安の悪さがかかわっている。

 パプアニューギニアに派遣される青年海外協力隊が男性に限られているのは治安が悪いからである。その男性隊員がポートモビスレーにだけ派遣されないのはポートモビスレーの治安が極端に悪いからである。

 ちなみにツバルに青年海外協力隊が派遣されていないのは、隊員がホームシックにかかりやすいからである。それほどツバルには何もない。しかし総計42,367人(2015年3月末)の派遣人員のなかで、ツバルに行った人は1人もいないのはどうかと思う。ツバルの治安はすこぶるよい。国土があまりに狭く、ツバルを脱出する飛行機が週2便なので、犯罪者はすぐにつかまるだろう。

 翌日ラスカルたちに遭遇することをこの日まだ私は知らない。


パプアニューギニア④ 魔女狩り、人食いなど

 パプアニューギニアには魔女がいるといわれている。魔女がいるところに「魔女狩り」が存在する。黒魔術をかけた者を裁くというリンチ殺人事件で残忍な殺され方をした女性たちがいた。人の死は自然なものでなく魔術のせいだと思っている。

 体や顔にペイントをしているコロワイ族は人食いといわれている。被害にあった外国人がいる。未遂だったケースもある。原始時代のような文化が一部で残っているらしい。

 国土の多くに原初の自然が残っている。そこには人が住んでおり人の営みもまた原初の自然に添うかたちで存在している。意図的に保存されているというのとは少し異なるようである。ただ高額なツアー料金から供給される金が彼らの生活に回っているということはそれもまた保存の1つのスタイルだといっていいかもしれない。

 ヨーロッパの入植後、宣教師は熱心にキリスト教の布教をしたらしい。人口の99%はクリスチャンで日曜日には教会に通っている。

8日目 2017年10月11日 マニラ (ポートモレスビーへ)

ノマズMNLバックパッカーズホームステイをチェックアウト

 8:00過ぎに目が覚めた。

 バックパッカー宿の朝食はシリアル、パン、コーヒーが標準である。1階に降りると、テーブルにサンドイッチが用意されていた。どこかで買ったものではなく手作りである。バックパッカー宿や民泊の宿泊では初めてのことだ。

 3日後にマニラにもどってくる。ノマズMNLバックパッカーズホームステイにまた泊まることにした。部屋でパソコンを開き、3日後の予約を入れた。

 チェックアウトするとき、さっき予約を入れたよねと声を掛けてきたオーナーはおそらくまだ20歳台である。

 路地を出て店がある細い通りに出た。フィリピンのどこにでもあるような小さな店が並んでいる。ときどき行き交うトライシクルが細い商店街を活性化させていた。人が多く子供が遊んでいる楽しい通りだった。

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 ミニストップとセブンイレブンを過ぎ、パラナク・スカット・ロードに架かる歩道橋を渡った。ニノイアキノ空港の外から出ているパサイ行きのバスに乗った。

 今日行きたい場所はない。空港からあまり離れてないところでゆっくりするつもりだ。


SMモール・オブ・アジアで暇つぶし

 6日前パサイで乗ったバスが大回りをし、SMモール・オブ・アジアに寄ったあとニノイアキノ空港に向かった。SMモール・オブ・アジアは、2006年5月にマニラ湾の埋め立て地に開業したショッピングモールである。

 SMモールに行くことにした。

 パサイまで行ってしまってはダメで、どこかで乗り換える必要がある。バスのなかで隣りの人に尋ねた。

 教えてもらったところで下車し、SMモール行きのジプニーを捕まえた。
 
 5分ほどでSMモール・オブ・アジアに着いた。

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 SMはフィリピン最大の流通企業である。フィリピン国内では、日本のイオンとイトーヨーカドーを足したくらいの独占力を持っている。マニラの各地にあるだけでなく人口が一定規模の地方都市には必ずある。暑いフィリピンを歩いていてどこかで休んでコーヒーでも飲みたいとき、SMシティはその要望に応えてくれる。経営者は中国系フィリピン人で常に富豪ランキングの1位に君臨する。

 フィリピンにおける富豪ベスト10は中国系資本家が独占している。ドゥテルテ大統領の中国への弱腰の背景には中国経済の影響力があることは容易に想像できる。
 
 SMモール・オブ・アジアは500以上の店舗、180のレストランがあるアジア最大級のショッピングモールである。必ず歩き疲れる越谷レイクタウンより大きいだろう。

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 ワタミ、ペッパーランチ、ユニクロなどの日系の企業が出店していた。

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 チョーキン(超群)で食事をした。中華料理のファストフード店である。フィリピンでは人気のチェーン店である。一応安心できる味なので何度か食べたことはあるが、うまいと思ったことはあまりない。

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 スターバックスコーヒーは席の確保が難しかった。マクドナルドやジョリビーは行列ができており並ぶ気がしなかった。

 モール内の西側の、マニラ湾に近いところまで歩くと空いているカフェがあった。ドーナツを食べ、コーヒーを飲んだ。

 フィリピンはドーナツ大国である。ミスタードーナツ、J.COドーナツ&コーヒー、クリスピー・クリーム・ドーナツ、ダンキンドーナツなどがしのぎを削っている。

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 海岸沿いに出てみた。

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 SMシティがまだできていない2001年にこの海岸線に来たことがある。雰囲気は変わっていなかった。

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 4時間半ほどSMモールにいた。もう限界である。


ニノイアキノ空港へ

 ニノイアキノ空港に行くことにした。SMモールの前にバスの発着場がある。ジプニーも頻繁にやって来ているが、空港行きのバスは多くなかった。30分ほど待って乗ることができた。

 マニラの渋滞はすさまじい。40分ほどかかって第1ターミナルに着いた。

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 2009年ニノイアキノ空港の第3ターミナル近くにリゾートワールドマニラ(RWM)が誕生した。フィリピン初の巨大エンターテインメント施設らしい。世界中から多くの観光客が集まっていると「地球の歩き方」に書いてあった。第1ターミナルからはRWMのロゴの入った赤いバスが出ている。警備員にバスの発着場所を確認し待っていたが、来る気配がない。30分ほど待ったが、1時間に1本運行されているバスを捕まえることはできなかった。あと30分待つことはできるが、帰りの便もこういう状態になってしまうと困る。行くのを止めた。


パプアニューギニアへ

 第1ターミナル内の椅子に座ってエアニューギニアのカウンターが開くのを待った。シンガポール行きのジェットスターが欠航になっていた。理由はわからない。自分の身に振りかかることを考えると恐ろしい。

 エアニューギニアのカウンターが開いたのは出発の3時間半前だった。多くの人が多くの荷物を持っていた。何度も荷物を開けられている人が何人かいた。段ボールのガムテープを剥がされたり、木箱の釘を抜いては打ち直すといった光景にも出くわした。15番目くらいに並んでいたのに、私のチェックインが終ったのは、列に並び始めてから50分を過ぎていた。

 保全検査はすぐに通過できた。スターバックスコーヒーでコーヒーを飲みながら出発を待った。

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 PX11 マニラ・ニノイアキノ空港 21:25 → ポートモレスビー・ジャクソン空港 (+1)5:00

 世界中で大ヒットしているらしい映画『ワンダーウーマン』を機内で観ることができた。

7日目 2017年10月10日 シンガポール マニラ

マニラへの復路/またシンガポールにやって来た

 TR2509 マーレ国際空港 (-1)21:10 → シンガポール・チャンギ空港 4:55

 特に来たいわけではないシンガポール・チャンギ空港にまた着いた。4日ぶりである。第1ターミナルでかろうじて横になることができるのは、カフェの椅子と出入り口付近の10人くらいが座れるS字形状の椅子だけである。この空港からは、旅人を横に寝かせないという強い意思を感じる。世界一の空港と評価している人はこの空港の何を見ているのだろうか。4日前にも書いたが、評価者は利用者の快適さという物差しを持ち合わせていない。

 1階の荷物預かり所にリュックを預けた。

 5:20頃、MRT東西線の空港支線に乗った。2つ目のタラ・メラ駅でジョー・クーン方面に向かう東西線に乗り換え、12駅目のオータムパーク駅で下車した。


チャイナタウンを歩いた

 夜は明けていなかった。雨が降っていた。傘を差し中華街をめざした。

 ニューブリッジロードは簡単に見つかった。右手にあったクレタ・アヴェニューに入った。中華街で最初に迎えてくれたのはインドのドラヴィダ様式の寺院だった。

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 昨夜ご飯を食べていない。中華街なら朝早くても開いている店は多いだろう。そう思ってやってきたが、ほとんどの店は閉まっていた。そのなかで1軒だけ開いていた中華風のカフェのような店に入った。

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 中華風モーニングセットらしきものを注文した。もうちょっとしっかり食べたかったが、他に開いている店がないのだから仕方がない。まだ6:00過ぎである。何より雨が激しく暗いなかをこれ以上歩くのは嫌だった。

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 テーブルでゆっくりしながら雨が止むのを待った。夜が明けるとともに雨は小降りになっていった。一睡もしていない不快感はあったが、歩くしかない。そのためにやって来たのだ。

 MRTチャイナタウン駅のほうに歩いた。

 チャイナタウン・コンプレックス(牛車水大厦)は大規模マンションの1階と2階にある商業施設である。1階には雑貨店や地元の食堂、2階にはホーカーズ(屋台食堂街)があるようだが、あまりに早い時間なので店は開いていない。だから店についてはよくわからない。

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 スミス・ストリートやトレガンヌ・ストリートを歩いた。土産物屋、中国料理店がごちゃごちゃと並んでいる中華街らしい中華街であるが、こちらも店は開いていない。なんとなく中華街であることを感じるだけである。

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 チャイナタウン駅のほうに珍珠坊が見えるのはテンプル・ストリートである。お洒落で洗練された中国風デザインの建物はなかなかいい。

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 モスク・ストリートにあったア・バックパッカーズ・ホテル。ネーミングに反応してしまう。

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 サウス・ブリッジ・ロードにあったのがスリ・マリアマン寺院だ。チャイナタウンにあるヒンドゥー寺院である。4日前に入ったテッカ・センターではインド系屋台のなかで中華系屋台が幅を利かせていた。こういった類の混在をおもしろいと思うのは海外だからである。日本でも教会の近くに寺や神社があるが、それを奇異に思わないのは慣れ親しんでいるからなのだろう。

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 クラブ・ストリートにはレストラン、カフェ、バーが並んでいた。ここは中華風ではない。テーブルが道路に面して置かれているところもある。店々は新しくお洒落な通りである。

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 クラブ・ストリートからアースキン・ロードに入った。

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 シアン・ホッケン寺院は道教の寺院である。船乗りを守る天后が祭られているらしい。テロック・エア・ストリートは昔の海岸通りで、ここで船乗りたちの安全を祈願したという。

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 近くにあったシンガポール・オルゴール博物館を知っている人はいなかった。自力で見つけた博物館はまだ開いていなかった。

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 アモイ・ストリートを北に歩き、MRTテロック・エア駅に着いた。駅周辺は観光エリアではない。多くの人が速足で行き来するビジネス街のようだ。カフェは多いが、ゆっくりくつろいでいるというより、仕事に行く前に慌てて食事を取っている人たちが多そうだった。

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シティ・ホール周辺を歩いた

 テロック・エア駅でMRTダウンタウン線ブキパンジャン行きに乗り4駅目のブギス駅で下りた。東西線パーシル・リス行きに乗り換え1駅目のシティ・ホール駅で下車した。

 シティ・ホール駅を出たところがあったのがラッフルズ・シティである。スイソテル・ザ・スタンフォード(ホテル)のロビーにつながっているショッピングモールである。極彩色のリトル・インディア、混沌としたチャイナタウン、エキゾチックなアラブストリートのような強烈な特色はない。観光エリアではあるが、建物は近代的で透明感がありビジネス的でもある。

 ラッフルズホテルに行ってみた。19年前に入ったことを思い出した。外観も内装も最初の姿を堅持しているということなのだろう。

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 ラッフルズ・シティにもどりスタンフォード・ロードを渡った。

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 セント・サンドリュース聖堂の西側にあるノースブリッジ・ロードを南に歩いた。右手にあったのはキャピトル・プラザというショッピングモールである。

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 右に折れヒル・ストリートを渡ったところにあったのが小さなアルメリア教会。

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 アルメリア教会の横の切手博物館は小学生の団体が占拠していた。元々英国系中国人小学校だったところである。

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 ヒル・ストリートには中央消防署があった。Heritage Galleryが併設されていた。

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マリーナ・ベイへ

 シンガポール川に沿って西に歩けばクラーク・キーである。そこまで行こうとして200mほど歩いたが、止めた。クラーク・キーまで片道1kmほどあり、もどってくる気力がなかった。他にも行きたいところはある。それに今日は暑すぎる。

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 シンガポール川の北側を南東に歩いた。マリーナ・エリアの方角である。左手には国会議事堂やアジア文明博物館があった。

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 シンガポール川の向こうに見えていた超高層ビル群が近づいてきた。

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 北に方向を変えたシンガポール川に架かっている橋は2つある。

 1つ目はカベナ橋である。白く美しい橋である。ヨーロッパの橋のようだ。シンガポールを好きな人はこういう橋が好きなのだろう。袂にリバークルーズ船の乗り場があり、少年たちが川に飛び込む像があった。

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 2つ目の、フラトン・ロードが通っている橋を渡ったところにあるスターバックスコーヒーの脇を抜けた。

 スターバックスコーヒーは75ヶ国で約24,400店舗(2016年11月10日プレスリリース)を展開している。フラトン・ロード沿いにあるフラトン・ウォーターボートハウス店はシンガポールで100店目の店である。ちなみに海外1号店は東京にある。この近くにはフラトン・ホテル・シンガポールがある。

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 スターバックスコーヒーを過ぎエスプラネード・ドライブの下を潜るとお馴染みのマーライオンである。2度目なのでがっかりはしなかった。

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 マリーナベイ・サンズを見るのは初めてだ。3つの超高層ビル(最高部で高200m、57階建て)を屋上で連結した建物である。ホテル、ショッピングセンターがあるらしい。

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 サンズの東側はガーデンズ・バイ・ザ・ベイという植物園になっている。写真を見たことがあり行ってみたいと思っていたが、暑さにやられてしまっている。マリーナベイ沿いを歩くと2km以上ありそうで、しかもガーデンズ・バイ・ザ・ベイのなかはかなり広い。行くのを止めた。

 シンガポール川の南側を歩きMRTラッフルズ・プレイス駅周辺に来た。駅周辺のショッピングセンター内の食堂で昼ご飯。

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 別のショッピングセンターのなかのカフェでコーヒーを飲んだ。

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シンガポール・チャンギ空港からマニラへ

 ラッフルズ・プレイス駅からMRT東西線パーシル・リス行きに乗り、10駅目のタナ・メラ駅で空港支線に乗り換えた。

 チャンギ空港に着いたのは15:00過ぎである。1階の荷物預かり所でリュックを受け取った。

 マニラ行きの搭乗券はマーレ国際空港でもらっていたので、そのまま保全検査に向かった。チェックインカウンターに寄る必要がないのは楽である。マーレからシンガポールまでの飛行機内で出入国カードが配られたので、半券の入国カードを持っているが、チャンギ空港の出国管理は自動ゲート化されている。入国カードはそのまま手元に残ってしまった。

 TR2508の出発ゲートは出発フロアの先端にあるようだ。そこまで行ってしまった場合、カフェはない。4日前にも書いたが、こういう点においてもチャンギ空港は不便である。中央部のカフェでコーヒーを飲みながら出発を待った。

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 TR2726 シンガポール・チャンギ空港 17:50 → マニラ・ニノイアキノ空港 21:30

 TR2726は定刻に出発し、少し早くマニラ・ニノイアキノ空港に着いた。

 第1ターミナルは7日前に入国し6日前に出国したターミナルである。入国フロアは7日前ほど混んでいなかった。


マニラの夜の小さな商店街

 ターミナルビルを出て左手に歩いた。空港の前を走るパラナク・スカット・ロードに架かる歩道橋を渡った。パスコアドライブに入りまっすぐ歩いた。セブンイレブンがありミニストップがあった。7日前に泊まったエアポートトラベロッジマニラはミニストップを過ぎたところを右折するが、今夜宿泊するノマズMNLバックパッカーズホームステイはほとんど同じ場所を左折する。

 昨日ノマズMNLバックパッカーズホームステイからメッセージが届いていた。最初はメールで届いたが、そのあとラインに切り替わった。携帯番号から私の登録を見つけたのだろう。これには驚いた。

 ラインのメッセージは道案内だった。案内は丁寧だったが、最後に書かれていたのは「タクシーが入れない道なので(トランクではなく、バックパックを背負っているのなら)バイクで送迎できる」というものだった。

 バイク送迎を断った。歩くつもりである。ミニストップの先を左折したところは普通の住宅地だったが、庶民的な小さな商店街でもあった。22:00過ぎはまだ活気があった。商店も食堂も開いており子供たちが道や店にいた。かろうじて車が通れる道だったが、タクシーが通行禁止になっているというのは本当のようだ。トライシクルはときどき通っていた。マニラの夜の、普通の人たちの生活がありありと伝わってくる通りだった。

 その通りを7、8分歩き左に折れた。路地を80mほど歩いたところにノマズMNLバックパッカーズホームステイがあった。

 住宅を改装した民泊だった。狭い部屋にカラフルなベッドが置かれていた。1階でインスタントコーヒーは自由に飲めるし、菓子も用意されていた。

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 23:00過ぎ、部屋を出てミニストップまで歩いてみた。10分ほどの距離である。さっきまで開いていた店の半分くらいは閉じており、活気はもう失せていた。営業を終えたトライシクルがまとめて並べられていた。マニラの小さな商店街の10月10日は幕を閉じたようだ。

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6日目 2017年10月9日 マーフシ島 マーレ ヴィリンギリ島

マーフシ島を出る

 朝食を終え、急いでマーフシインをチェックアウトした。船着き場まで徒歩2分だ。
 
 7:30発のマーレ行きの公共フェリーに乗った。公共フェリーは1日1便しかない。これを逃すと1日4便ほどあるスピードボートになってしまう。乗船時間は30~40分ほどしか違わないのに料金は10倍になる。

 フェリーに乗り込むとき大雨になった。ずぶ濡れになった人たちが乗り込んできた。

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 公共フェリー マーフシ島 7:30発 → マーレ 9:00過ぎ

 マーフシ島に向かうときに寄ったGulhi島には寄らなかった。


マーレ経由でヴィリンギリ島へ

 海は少し荒れていたが、公共フェリーは無事にマーレ南西ハーバーに着いた。  

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 南西ハーバーの北側を歩いてみた。PASFANNUというリゾートっぽいところがあった。砂浜は造成され泳いでいる人もいたが、全体はまだ建設の途上である。パラソルのある椅子に座って海を見ても居心地はよくない。10分ほどで離れることにした。

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 マーレは暑い、マーフシ島のように。南西ハーバー周辺にカフェや食堂はわりとあった。たまたま入ったカフェは冷房が効いており、テーブルの後ろにコンセントがあった。南国の何もない首都のカフェで長居ができる条件は、冷房が効いていることとコンセントが使えることである。

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 シンガポールへのフライトは21:00過ぎである。それまでマーレで過ごすしかないのだが、見るべきものの大体を見てしまっている退屈な首都の歩き方に工夫の余地は多くない。街の隅々まで暑さが張り巡らされているので積極的に動くわけにはいかない。

 マーレの西側にヴィリンギリ島がある。マーレの人口が増加しその受け皿となっている島である。モルディブに来る前に読んだ友人のNさんのHPに登場していた。リゾートに行かないのにわざわざマーレにやって来て、ブログに載せるのは旅狂いのNさんくらいしかいない。

 カフェを出て南西ハーバーにもどった。

 ヴィリンギリ島までは3.25ルフィア。釣りのなかにクオーターの硬貨が入っていた。帰りの便で使えることをすぐに思い付いた。
 
 ドーレ(渡し船)は頻繁に出航しているようだ。15分ほどでヴィリンギリ島に着いた。下船者が歩くほうに付いていったが、人々はすぐに散ってしまった。

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 大きな通りを歩いてみた。ホテルが1軒あり食堂が3軒ほどあった。いわゆるローカル島である(こういうネーミングはモルディブにしかない)。

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 大きな通りの先に海が見えた。小さい島であることが証明された。

 町は碁盤の目になっているようでジグザグに歩いても迷うことはなさそうだ。

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 海が見える木陰のある小さな公園の、ハンモックのような椅子に座って1時間ほどのんびりと過ごした。

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 12:00前アザーンが流れてきた。さっき通り過ぎたモスクからだと思われる。キリスト教会の鐘楼の音にはなんとも思わないが、性能の悪い拡声器から流れてくるアザーンは遠いところに来たことを感じさせる。アザーンには砂と夕陽とブブカが似合うが、南の島のアザーンはさらさらしている。

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 この島に観光的要素はない。オートバイのうるさいマーレとは異なり、住民はのんびり過ごせるだろう。公園が多い。商店が閉まっているのは昼を過ぎたからだろう。閉店時刻について店々の統制は取れている。この一体感を出せれば、モルディブ代表のサッカーは強くなるだろう。ヴィリンギリ島にもサッカーグランドがあった。フィリピンの多くの場所にバスケットボールのコートがあるように。

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 ゴルフカートを大きくしたような数人乗りの車が頻繁に走っていた。島をぐるぐる回り人を乗せ船着き場に向かうようだ。十分歩ける島だが、乗っている人はいる。

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 ゴルフカートとは別にタクシーも走っていた。3回ほど目撃したが、1台のタクシーを3回見かけたということのようだ。

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 島の、船着き場の反対のほうにビーチがあった。マーレの人たちはここに泳ぎに来るらしい。

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 インド系のファストフードの店に入った。

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マーレにもどった

 15:00前に船着き場にもどってきた。船着き場の建物は新しくドーレの時刻表が掲示されていた。マーレとの間には24時間の運航がある。ヴィリンギリ島の人口が多いとは思わないが、両島の人の動きは活発なようだ。

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 ヴィリンギリ島にいたのは5時間ほどである。ここで日曜の午後を過ごすのは悪くない。

 ドーレに乗り、マーレにもどった。

 街を歩きながら島の北西にあるナサンドラ桟橋をめざす。

 2日前に歩いたのと異なる道を歩こうとしたが、ほとんどは重なってしまった。

 マーレ南西ハーバー周辺に集まった店を抜け、マジディー・マグに出た。マーレの真ん中を東西に走る通りである。適当なところで北に歩いた。

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 野菜市場と魚市場に寄った。野菜市場は売り物がまだ多く残っていた。魚市場では半分くらいのスペースに魚が残っていた。16:00を過ぎたというのにどちらの市場も活気があった。

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 途中のカフェに2時間近くいた。旅の時間は不規則に流れる。忙しいときは忙しいのに、極端に暇になるときがある。

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 ドーレの乗り場からはフルマーレにある国際空港の飛行機が見えた。

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シンガポールへ

 ドーレに乗り、マーレ国際空港のあるフルマーレに渡った。3日前は夜なのでわからなかったが、進行方向右手に建設中の橋が見えた。来年には完成するかもしれない。そうなるとドーレは廃止され、空港から橋を渡りマーレの奥のほうまでバスが走るのだろう。宮古島と伊良部島のようになってしまう。

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 マーレ国際空港の椅子に座って出発を待った。出発時刻の3時間前にスクートのカウンターが開いた。これからシンガポール経由でマニラに向かう。

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 スクートはシンガポール・チャンギ空港での乗り継ぎ客にたいして、1つ手前の出発空港のチェックイン時にチャンギ空港発の搭乗券を発券している。チャンギ空港でスクートのカウンターに並ぶ必要がない。これだけで搭乗が随分楽になる。

 下は、ここまで乗ってきた飛行機の席の番号である。

 成田 → マニラ      ジェットスター  席12D
 マニラ → シンガポール  スクート     席12F
 シンガポール → マーレ  スクート     席12F

 3フライト連続で、席は12だった。ジェットスターとスクートは同じ機種のようで、席12と席13の乗客は脱出に際し非常ドアを開ける手助けをする義務を負う。チェックイン時にそのことを引き受けたのだが、この2列だけは前の席との間が広かった。前の座席の下に荷物を置くことはできないが、184cmある私にとって、ここまでの3便は快適に乗っていることができた。

 4フライト連続で席12あるいは席13の席にしてもらえることを期待していたが、甘かった。[マーレ→シンガポール]、[シンガポール→マニラ]ともに30Dだった。

 TR2509 マーレ国際空港 21:10 → シンガポール・チャンギ空港 (+1)4:55

5日目 2017年10月8日 マーフシ島

マーフシ島の一日

 バックパッカー宿の朝ご飯としてはよい部類に入るのだろう。コーヒーはネスカフェだったが、これはモルディブの多くのカフェやホテルでは普通のことである。うまいコーヒーを飲みたければ一流ホテルに行くしかない。

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 マーフシ島のようなバックパッカー系リゾートでもダイビング、シュノーケリング、サーフィンなどはできる。ジンベイザメ、イルカ、マンタを見るツアーがある。朝ご飯をいっしょに食べた中国人の夫婦はツアーに参加すると言っていた。

 朝の港周辺を歩いてみた。7:30発のマーレ行きの公共フェリーが港を出ていった。

 一度部屋にもどり10:00過ぎにまた部屋を出た。

 マーフシインの裏は海である。そこは港とは反対方向になる。島は縦0.2km、横1.5kmほどの細長い島である。一周しても50分ほどだろう。

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 朝とは異なり気温は上昇してきている。40℃を越えているかもしれない。日焼け止めは歯が立たない。

 白い砂の道を歩く。一度補装された道の上に砂が溜まっている。観光的にこの砂は悪くない。武富島と同じ雰囲気がある。

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 島の外周部に沿って歩くことはできない。それはどの島にもいえることである。

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 島の端に刑務所があった。小さな島に似つかわしくない大きな刑務所である。モルディブの他の地域からの受刑者がここに移送されてくるのだろう。南の国の刑務所はゆるい。キリバスとプエルトプリンセサ(フィリピン)の刑務所に入ったことがあるが、厳格な雰囲気はまったくなかった。

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 刑務所の入口に掲げられた「ウェルカム」の文字はアイロニーなのかそれとも見学者歓迎という意味なのかわからない。所内を歩いている人がいた。見学できるのかどうかを尋ねてみたが、ダメだと言われた。今日が日曜日だからなのかもしれない。

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 疲れているわけではなかったが、あまりに早く終わってしまう島内一周にゆっくりと時間をかけるため、ホテルのカフェに入った。カフェの敷地は白い砂である。コーラを飲んだ、日本ではコーラを飲まないのに。

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 学校があった。

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 12:00頃、カフェリオでダールカレー。経営者はインド人だ。

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 13:00頃、マーフシインにもどった。ホテルの門をくぐったとき強い雨になった。

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 旅先で閉じこもる理由の第一は雨である。仕方がない外は大雨なのだから。どうせ10分くらいで止むのだろうけれど。

 部屋に窓がないので雨が止んだのかどうかわからないまま、パソコンを開きネットにつなげ、何かを書きそして止めた。少し眠った。

 気がついたら17:00を過ぎていた。半日をつぶしてしまった後悔はかすかにあったが、この島では何かをしてもしなくても同じだろう。

 外の気温はすっかり下がっていた。ぶらぶら港まで歩く。ゆっくり歩いても徒歩2分。

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 港付近をぶらぶらしながら、どこかのホテルのレストランに入った。

 ピザ・ボロネーゼのチーズの量が少なすぎた。本家イタリアのリストランテのようにはいかない。まずくはないが、うまくはない。メニューに載っているビールはまがい物のジンジャービアである。

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 港付近のホテルには灯りがあるが、他は完全な闇になっていた。

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4日目 2017年10月7日 マーレ マーフシ島 

マーレを歩いた

 昨日は疲れていた。2:00過ぎに着いたシンガポール・チャンギ空港で一睡もできず、そのあと暑いシンガポールを歩いた。シンガポールからマーレに着いたのは夜で、食事のあとはすぐに寝た。

 10:00頃まで寝るつもりでいたが、起きたのは8:00だった。窓を突き抜けてくる歓声に目が覚めた。オフディインの窓から見えるグランドでは早朝からサッカーをやっていた。モルディブの人々はサッカーが好きなのだ。昨日は22:00を過ぎてもサッカーをやっていた。FIFAランク150位前後のモルディブはW杯予選で韓国と引き分けたことがある。

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 10:00前にオフディインをチェックアウトした。

 フィア(モルディブ通貨)を手に入れなければならない。見つけたATMで新生銀行の国際キャッシュカードを入れてみた。残高があることにまちがいないが、フィアを引き出せなかった。

 今日は土曜日で銀行は閉まっていた。ボドゥタクルファヌ・マグ(マーレの北側の海に沿った通り)を西に歩いた。5、6ヶ所のATMにカードを入れてみたが、結果は同じだった。

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 チャンダニー・マグまで歩いてようやく両替商を見つけた。日本円をフィアに両替した。

 チャンダニー・マグはマーレの中心である。

 Number1-Jetty(大統領専用桟橋)の前にあるのがジェムフーリー・メイダーンという公園である。公園内にある国旗掲揚塔の東側には国家警察がある。公園の南側には木が茂っており、その下で休んでいる人たちがいた。国旗掲揚塔の国旗はモルディブで最大サイズの国旗がはためいていた(国旗を撮影したはずなのだが、削除してしまったようだ)。

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  ジェムフーリー・メイダーンの南側にあったイスラミック・センターに入った。黄金のドームと白い壁の建物を持つイスラミック・センターは、世界中のイスラム教徒の寄付によって1984年に建てられた。入っていいのかどうかわからなかったが、誰も何も言わなかったので入ってみた。広々とした礼拝堂にはシャンデリアがあり豪華な感じがした。図書館や学校が併設されている。

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 フクル・ミスキーはモルディブ最古(1600年代)のモスクらしい。ミスキーはモスクのことである。石ではなく珊瑚(と木)でできているらしい。内部の造りは細部まで凝ったものだった。敷地内には墓石があり、日本の墓地と似た雰囲気があった。灯台のようなミナレットがあった。

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 フクル・ミスキーの前には大統領官邸(ムーレア-ジェ)。ヨーロッパの屋敷のようにお洒落である。ゲートの色合いはかわいい。使われていないのだから、入場料を取って開放してもよいと思うが、入ることはできない。

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 隣りにあるゼラヤス墓地には入れなかった。

 サルタンパークはスルタンの宮殿の敷地内にあった庭を公園にしたものである。緑が多く植物園の雰囲気があったが、大きくはなかった。

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 いきなりの雨である。好都合なことにサルタンパークの入口には国立博物館があった。モルディブの歴史、仏教国からイスラム教国への変遷が学べる博物館であるが、ほとんど興味を持てなかった。土偶、土器、陶器などを見て回った。

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 私が入館してから出るまで誰も入ってこなかった。雨が止むのを待って国立博物館を出た。

 マーレは小さな街で、チャンダニ―・マグ周辺は広くはない。食事処を探しながら歩いた。

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 シーガル・カフェ・ハウスに入った。有名店のようだ。12:00を過ぎたところだったが、ブレックファストメニューを注文できた。

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 マーレの街中をぶらぶら歩きながら、島の南西方向をめざした。チャンダニー・マグを離れれば、閑散としているだろうと思っていたが、賑やかな雰囲気は西側の海岸まで続いていた。

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 13:30、マーレ南西ハーバーに着いた。

 マーフシ島に向かう公共フェリーは満席で乗れないことがあるらしい。だから早めにやって来た。チケット売り場に着いたのは1時間半前である。無事にチケットを買うことができた。片道23フィア。

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 昨夜マーレ国際空港の港から乗ったドーレ(渡し船)が着岸したエアポートエクスプレスターミナル付近からマーフシ島行きのスピードボートが出ている。到着時間は半分近くに短縮されるが、料金は25ドルに跳ね上がる。公共フェリーの10倍である。もし公共フェリーのチケットを買うことができなかったなら、来た道を40分ほど歩き、スピードボートで行くしかなくなる。

 チケット売り場の近くに店はなかったが、周辺はわりと賑わっていてカフェや地元の食堂がいくつかあった。南西ハーバーに向けて歩いているときカフェを見つけていた。5分ほどのところにあったカフェに入り出発時刻を待った。

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 マーレ南西ハーバーには小さな船が頻繁に出入りしていた。

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 15:00、公共フェリーは出航した。客は多くなかった。出航時刻ぎりぎりにやって来ても十分に乗れた。

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ついにマーフシ島へ

 フェリーはそれほど揺れなかった。途中リゾート島を2つほど見ることができた。

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 Gulhiという島に立ち寄った。そこで数人の外国人が下りた。

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 17;00前、マーフシ島に着いた。

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 フェリーを下りたところには多くのホテルの迎えがあった。迎えといっても荷物を載せるための手押し車による迎えである。0.2km×1.5kmほどの細長い島で車は必要ない。リュックを手押し車に載せてもらいホテルの案内人といっしょに砂の道を歩いた。

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 港から徒歩2分のマーフシインにチェックインした。2泊する予定である。1泊31.8ドル(3,595円)はマーフシ島最安値のバックパッカー系ホテルである。

 バス、トイレ付きの部屋はきれいだった。Wifiはオープンスペースで使えるとブッキングドットコムに書いてあったが、「可能なら、Wifiが使える部屋を希望する」とリクエストしておいた。案の定、1階のレセプションに近い部屋があてがわれた。外の音が少し聞こえてきたが、問題ない。Wifiは部屋のなかでもつながった。

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 このレベルの宿はマーフシ島とその他のローカル島にしかない。

 モルディブには26の環礁と1,200の島がある。そのうちリゾート島は120くらいである。そこは1島につきリゾートホテルが1軒と決められている。宿泊費は1泊数万円~20万円ほどになる。リゾートの紹介は304ページの「地球の歩き方」のほとんどすべてである。

 数年前からモルディブ政府はローカル島にゲストハウスを作るのを認めた。地元の人が暮らすローカル島は200くらいあるが、ゲストハウスのある島がどこなのかまったくわからない。そのなかにあってマーフシ島こそはモルディブ国内で唯一バックパッカー的な旅ができる島である。マーフシ島は「地球の歩き方」には1行の記載もない。

 17:00を過ぎても、陽はまだ残っていた。

 島を歩いた。山がないどころでの話ではない。小高い丘も、ちょっとした盛り上がりさえない。ツバル、キリバスにはわずかな起伏があった気がするが、明日の朝から半日ほどの時間をかけ、砂浜の砂をかき集め積み上げたら、(人工的な建物と木を除いて)マーフシ島の最高地点を作ることができるかもしれない。日本の島にはあり得ない平坦さである。

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 大きくないホテルがあり商店があった。ハンモックのような椅子が家の前に置かれ、休んでいる人たちがいた。

 突然雨が降ってきたが、すぐに止んだ。雨は道の砂を浮き上がらせていたが、それもすぐにおさまった。

 道は白く細かい砂の道であると最初思ったが、一部の道に補装されたようなところがあった。その上に砂が積もっているようだ。毎日砂を掻き出すのはやっかいな仕事である。いつしか砂を掻き出すことを住民たちは止めてしまったのかもしれない。

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 下の“Hotel Rocket Cafe”はもちろん“Hard Rock Cafe”のパクリである。

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 島は狭かった。歩き続けるということは同じところをぐるぐる回るということである。さっき南北に歩いた通りを西から横断したり、同じホテルの前を2、3度歩いたりといった具合になる。

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 そうこうしているうちに夜になった。

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 STINGRAY BEACH INNのレストランに入った。さっき入った商店でビールは売られていたが、レストランにビールはなかった。「ジンジャービアーがある」と注文を取りにきた男は言った。

 欧州で広く普及しているグレックサラダはその原型を止めていなかった。ゴツゴツした感じはなく、甘くなよっとしたサラダにかたちを変えていた。すべてが細かく調理されていた。ナシゴレンはうまかったが特徴のない一品になっていた。

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3日目 2017年10月6日 シンガポール マーレ

カメラが壊れた/ここは深夜のシンガポール・チャンギ空港

 TR2727 マニラ・ニノイアキノ空港 (-1)22:10 → シンガポール・チャンギ空港 1:50

 2:00過ぎにシンガポール・チャンギ空港に着いた。深夜着は安い航空券の代償である。

 昨日から嫌な予感はあった。ときどき作動しなかったカメラがついに壊れた。

 1.スイッチを入れてもレンズが出ない。昨日は5回に1回程度は起動していたが、完全に壊れた。
 2.シャッターが下りない。
 3.レンズが収納できない。これは10回に1回程度収納する。

 上の1と2が機能しない以上、絶望的である。取扱説明書を持ってきているわけがない。世界一といわれているチャンギ空港でWifiに接続できない。対処方法がわからない。2016年9月に稚内で一度壊れたカメラである。

 スマートフォンで撮影できるが、新しいカメラを買ったほうがいいかもしれない。最新のカメラを手に入れるとしたら、他のどの街よりもここシンガポールがよいはずだ。

 30分ほどカメラと格闘したあと解決方法を見つけることができた。

 1.スイッチを入れてもレンズが出てこない → 保存写真を見るためのメニューボタンを押すと起動する。つまり電源はオンになる。スイッチ、シャッター辺りの電源回路は死んでいるが、メニューボタン付近は生きているということだ。

 2.シャッターが下りない → このカメラはスクリーンタッチが可能である。液晶画面に触れるだけでシャッターを押してしまうことがあったのでずっとオフにしていたが、メニューボタンから設定画面に入り、スクリーンタッチをオンにした。これでタッチ操作が可能になった。液晶画面に触れることがシャッターとなった。

 3.レンズが収納できない → 電源が入った状態のまま強制的に電池を抜くとレンズは一度収納され、そのあとすぐに出てくる。収納されたところで、レンズが前に出てこないように手で押さえると、画面に「ズームエラー」と表示されるが、電源を切ることができた。1枚の写真を撮影し、レンズを収納するのに10秒以上かかるが、なんとかなるかもしれない。

 1回の充電でもっとも多くの枚数を撮ることのできるカメラメーカーの1位はカシオ、2位はオリンパスである。充電が容易にできるとは限らない旅先での事情を考慮し、カメラは2社のうちのどちらかを買うことにしている。

 オリンパスSH-2は画期的なカメラかもしれない。電源を入れる方法、シャッターを押す方法がそれぞれ2つあるということだ。つまり電源を入れる、シャッターを押すという基本の撮影手順の裏側にもう1つの手順が用意されていたことになる。

*帰国後、新しいカメラを買うつもりで量販店に行った。そこで、一定レベルの望遠レンズを持ち、なおかつタッチ機能を持つカメラはSH-2以外には発売されていないことを知った。新しいカメラを買うのを止めSH-2を修理に出すことにした。

 さてシンガポールのホテルを予約していない。朝まで空港にいるつもりである。

 シンガポール・チャンギ空港の椅子は貧相である。ハマド国際空港(ドーハ)のようなゆったりした椅子はどこにもない。横になって寝ることを拒否した椅子である。それを意図した備品調達をしたということだ。こういう空港を世界一と呼んではいけない。

 ゆったりできるのはカフェのソファしかなかった。1時間半ほど横になった。

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 5:00前に1階の荷物預かり所にリュックを預けた。最軽量の荷物の場合は24時間で8.56シンガポールドルである。

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シンガポール都市交通の3つのチケット

 MRTで市内に向かうことにした。

 シンガポールの公共交通機関を利用する場合、3つのチケットのどれかを利用することになる。

 ・スタンダートチケット(Standard Ticket)
 ・イージー・リンク・カード(EZ Link Card)
 ・シンガポール・ツーリスト・パス(Singapore Tourist Pass)

 スタンダードチケットは6回分の回数券であるが、1回ごとに券売機でチャージしなければならない。乗車の都度、普通切符を買うのと同じような手間は生じる。10セントのデポジットが発生するが、6回目で10セントが割引される仕組みになっている。MRTしか利用できない。デポジットが10セントなので6回分を乗らなくても、損をしたというふうにはならないだろう。

 ez-linkカードはMRTとバスの両方が利用できる。運賃はスタンダードチケットよりも安く設定されているが、カード料金の5ドルは返却されないので旅行者向きではない。

 シンガポール・ツーリスト・パスは10ドルのデポジットが付加されたパスで、1日券(20ドル)、2日券(26ドル)、3日券(30ドル)の乗り放題券。MRTとバスが乗り放題の対象となる。連続した3日間をシンガポールに滞在し、MRTとバスを利用し郊外まで出かける人にとってはお得になる。1日券の場合、10ドルのデポジットを返却してもらうことを前提に公共交通機関を4~7回公共交通機関を利用しないと損をすることになる。デポジットの返却は期間終了後5日以内に限定されている。

 4日後にシンガポールにもどってくる予定になっている。スタンダードチケットを買った。

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 MRT東西線空港支線の、5:30頃の電車に乗った。


オーチャード通りを歩いた

 空港線はMRT東西線の支線になっている。2つ目のタラ・メラ駅でジョー・クーン駅方面に向かうMRTに乗り換えた。9つ目のシティ・ホール駅で南北線に乗り換え4つ目のオーチャード駅で下車した。

 オーチャード通りに立ったときはまだ暗かった。開いていたスターバックスコーヒーに入り、夜が明けるのを待った。早朝のシンガポールは悪くないはずだが、眠気が勝っている。

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 明るくなってきたところで、オーチャード通りを西に歩いた。タイ大使館を越えたところがオーチャードホテルである。

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 オーチャードホテルからオーチャード通りを東に歩いた。眠いという不快感は解消されていったが、暑さがその穴を埋めていた。

 シンガポールは2度目である。マレー鉄道の終点だったシンガポール駅がまだ存在していた19年前のシンガポールには植民都市の香りがまだ残っていた。オーチャード通りからもわずかにその匂いが漂っていたが、今ではすっかりブランドショップ通りになってしまった。ルイヴィトン、コーチ、プラダ、エルメス、シャネル、フェラガモ、グッチ・・・きりがない。伊勢丹、高島屋も進出していた。

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 2つのシッピングビルに立ち寄った。

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 オーチャード通りでもっとも目立っていたのはアイオン・オーチャードというショッピングセンターである。


リトル・インディアを歩いた

 オーチャード・ロードの東の端のドービー・ゴート駅からMRT東北線に乗って1駅目のリトル・インディア駅で下車した。

 駅のそばにあったテッカ・センターに入った。なかはホーカーズ(屋台食堂街)になっていた。建物のなかに店舗のないところはあったが、それでも店の数は多い。リトル・インディアという土地柄と建物の名称上、インド系屋台が軒を連ねていることが望ましいのだろうが、数は中華系屋台のほうが多かった。インド系屋台のメニューはどこも同じだった。

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 ところどころで脇道に入りながら、セラングーン・ロードを歩いた。リトル・インデイアのメインの道路である。

 時間が早いせいかリトル・インディア・アーケードには閉まっている店が多かった。それでも全体の雰囲気はつかめた。お供え用の花、アクセサリー、雑貨などが店内にも通りにもところ狭しと並べられていた。通り全体がお祭りをやっているようだ。

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 インディアン・ヘリテージセンターは閉まっていた。まだ10:00前である。

 ダンロップ・ストリートはインド風であるが、取り留めのない平凡な通りだ。

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 バッファロー・ロードの店構えはどの店も同じだ。その分つまらないのだが、色の使い方は多彩である。カラフルな彩りはリトル・インデイアの特色だ。

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 セラグーン・ロードの西側にある短いベリリオス通りの近くにあったのがスリ・ヴィラマカリアン寺院である。殺伐と破壊の神カーリーが祭られていた。通りを歩いているときは多いと思わなかったサリー姿の女性たちが寺院内には多くいた。

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 セラングーン・ロードはわりと長い。店は通り沿いに続いている。インド・テイストのモノを買いたい場合でなくても、ここに来れば大体のモノは揃うだろう。東北方向に歩いた。

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 セラングーン・ロードの左手にあったアングリア・モスク。

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 アングリア・モスクの奥にあったカラフルな高層アパート。

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 セラングーン・ロードの右手にあったムスタファ・センターはデパートのようなショッピングセンターだった。貴金属類のショーウィンドウが多かった。

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 右手にあったシティ・スクエア・モールの地下に入った。1階は新しいショッピングセンターだったが、地下には庶民的な飲食店があった。フードコートの食堂でフィッシュボール・ミー(魚のすり身団子)を注文した。メニューの写真とは異なるものが出てきた。料理の写真はボリュームがありうまそうだったのだけれど。

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 セラングーン・ロードをさらに東北に歩いた。

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 左手にあったスリ・スリ二バサ・ベルマレ寺院に入った。南インドからの移民によって建てられた寺院だが、古くはない。

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 千燈寺院がタイ風であるのはタイの僧によって建てられたからである。仏像の高さが15mあるとは思えなかった。極彩色の仏像はコミカルである。

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 千燈寺院の近くにあった龍山寺を建立したのは中国の僧である。ここは道教の寺院である。

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 フォーチュナ・ホテルのなかを抜けるとMRTファーラー・パーク駅に着いた。サルタン・モスク周辺に行ってみることにした。


アラブ・ストリート周辺を歩いた

 MRTブギス駅からビクトリア・ストリートを東北に歩き右に折れ、オフィア・ロードに入った。ここまではまったくおもしろくなかったが、オフィア・ロードに沿っているバリ・レーンに入ると様相は異なった。細い通りにはカフェが連なっていた。

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 バリ・レーンの東がハジ・レーンでアラブ・ストリートはさらにその東である。

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 狭い通りが交差するエリアの奥にサルタン・モスクは神々しく建っていた。

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 日本語の残念なお知らせがあった。今日は閉館日である。モスクの周辺は人が溢れていた。

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 カンダハル・ストリートに入った。カンダハルはアフガニスタンの街である。この地名には思い入れがある。

 この名称を付けられた通りがあるのはシンガポールだけでないことを知っている。そしてシンガポールの、この通りが昔からこの名称だったのかどうかはわからない。最近になって観光用に付けられた名称であるような気がする。そうだとうすると、タリバンの支配下にあるアフガニスタンの人々を撮ったイラン映画『カンダハール』に寄るのかもしれない。ストーリーはすっかり忘れてしまったけれど「家に帰ったら外には出られない。・・・家が狭いのなら自分をアリだと思いなさい。そうすれば家を広く感じるから・・」。アフガニスタンに帰る生徒に送った先生の言葉である。

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 ジャラン・サルタンから東は店がなかった。おもしろいエリアは広くなかった。狭いと思うのなら・・・。

 アカデミー・ロースタリー・カフェに入った。店内だけではなく外壁のアートもお洒落で、いわゆるインスタ映えするカフェである。

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ブギスを歩いた

 ブギス駅の西側に行ってみた。そこはブギスと呼ばれているエリアである。

 アラブ・ストリートとはまったく異なるエリアだ。東南亞大飯店やイビスなどのホテルが数軒あったが、エリアとしての統一感はなかった。流行ってはいるし人は多いが、街としての特長はなかった。多くの店は雑に存在していた。

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 人が多すぎ長居しようとは思わなかった。

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 シンガポールの見どころを1日で周ることは無理である。今日はここで終わりだ。4日後にまたシンガポールに来ることになっている。

 ブギス駅からMRT東西線に乗った。8駅目のタラ・メラ駅で空港支線に乗り換えた。


チャンギ空港にもどった

 チャンギ空港1階の荷物預かり所でリュックを受け取った。マーレ行きの搭乗券はマニラ・ニノイアキノ空港でもらっていたので、そのまま保全検査に向かった。チェックインカウンターに寄る必要がないのは楽である。

 チャンギ空港出発ロビー内のカフェは中央部に集中している。端にある出発ゲートまで行ってしまった場合で、コーヒーを飲みたい場合は中央部にもどるしかない。かなり不便である。到着フロアの貧弱な椅子といい、この空港を世界一と認定する根拠がわからない。利用客の快適さを図るチェック項目を増やしたほうがよい。

 TR2508 シンガポール・チャンギ空港 18:25 →  マーレ国際空港 20:05

 TR2508は定刻に出発し、少し早くマーレ国際空港に着いた。


モルディブに着いた

 マーレ国際空港。それはモルディブの玄関口である。

 「滞在日数4日間」「マーレの宿泊先ホテル名」を出入国カードに書いておいたら、1つのホテルに3泊するのかと入国係官が尋ねてきた。

 出入国カードのホテル記入欄に2つも3つもホテル名を記入する人はいない。小さい出入国カードにそんなスペースはない。マーレのホテルに3泊することは不審なことではないと思うが、旅程を一通り質問された。つまり2つ目のホテルと滞在する島の名前を尋ねられた。モルディブの入国はそれほどうるさくないはずなのだけれど。

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 空港のある島はフルマーレ島である。フルマーレには安いホテルが建てられており、予約してきたオフディインより10%ほど安いホテルがあったが、明日の予定のことを考え今夜は首都マーレに移動する。

 空港と港は直結しており、空港を出たところにドー二(渡し船)の乗り場があった。チケット売り場で料金1ドルを払った。夜間は2ドルになるそうだが、私の乗った21:00前には2倍の料金は適応されないらしい。

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 夜の海は荒れていた。ドー二はあまりに揺れた。椅子から転げ落ちそうになった。

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マーレのホテルにチェックイン

 10分でマーレの港に着いた。

 港沿いには5~10階ほどの建物が並んでいた。狭い道をバイクや車が行き交っており町はうるさかった。

 歩き始めて10分経っても、スマートフォンのグーグルマップは起動しなかった。夜のマーレの道はわかりにくかった。迷わなければ10分ほどで行ける距離だったが、5人ほどの人に尋ねながら20分かかってオフディインにチェックインした。21:30を過ぎていた。

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 オフディインはマーレでもっとも安いホテルである。予約したのはシングル。マーレにドミトリーはない。クレジットカードが使えなかった。仕方なくUSドルで支払う(41ドル)。この旅で120ドル分のドル紙幣しか持っていきていない。現金のドルを使うのをなるべく避けたい。

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 オフディインの近くの、地元の食堂に入った。モルディブはイスラム教の国であることを忘れていた。ビールは注文できなかった。お薦めのシーフードピラフはメニューにあった写真とは異なったが、スパイシーでうまかった。

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 クレジットカードが使えるかどうかを確認したうえでこの食堂に入ったのだが、支払い時に読み取り機がカードを読み込まなかった。通信回線の問題だ、店主が言った。フィア(モルディブ通貨)を持っていない。そしてできればドル紙幣を使いたくない。

 食堂の人に付いてきてもらい、ATMが並んでいるオフィスに入ったが、新生銀行の国際キャッシュカードで引き出しができなかった。フィアを手に入れることができない。ちょっとしたピンチである。

 食堂では円で支払った。おつりをドルでくれた。ドル紙幣を増やすことができた。やや混乱させられる状況である。

2日目 2017年10月5日 マニラ シンガポール

パサイでアパリ行きのバスを探した

 10:00頃エアポートトラベロッジマニラをチェックアウトした。朝方雨が降ったようだ。道路は濡れていた。道路の一部に舗装がないことを昨夜気がつかなかった。

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 エアポートトラベロッジマニラの近くに2、3軒の地元の食堂があったが、朝食風のものはなかった。ミニストップのイートインスペースでチキンナゲットを食べた。

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 10分ほど歩いてニノイアキノ空港の前を走るパラナク・スカット・ロードに出た。

 面倒くさい荷物検査を通過し冷房の効いているニノイアキノ空港に入った。外は暑く、汗を乾かすためである。

 ニノイアキノ空港からマニラ中心部へのアクセスは悪い。空港に乗り入れる鉄道はないが、2016年2月プレミアムエアポートバス[UBE Express]が運行されるようになった。そのバスが止まっていた。

 5ルートあるようだが、クバオ行きはない。24人乗りというのは疑いなくプレミアムということだが、すべてがフリークエンシーというわけにはいかないようだ。そのうち「地球の歩き方」にも掲載されるだろう

 Entertainment City Route(30分間隔/5:00~24:00)
 Robinsons Route(2時間間隔/6:00~24:00)
 Makati Route(2時間間隔/6:00~20:00)
 Grand Prix Route(30分間隔/2:00~1:00)
 Atrium Route(2時間間隔/4:00~22:00)

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 プレミアムエアポートバスが誕生したことによって、空港からパサイ行きの路線バスが廃止になっているのではないかと心配したが、運行されていた。バス停は第1ターミナルを出て右に歩いたところにあるが、バス停の表示はなくわかりにくい。しかしプレミアムエアポートバスに乗らないで、タクシーにも乗りたくなければ路線バスしかない。路線バスに乗れば12ペソ(≒26円)でパサイに行ける。これはプレミアムエアポートバスの20分の1以下の料金である。

 激しい渋滞のなか、40分かかって路線バスはパサイに着いた。空港からパサイまでは7、8kmぐらいである。

 バスを下りたのはエドゥサ通り。東に少し歩き歩道橋を渡った。ラブホテルのSOGOは相変わらずそこにあった。

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 LRT・Line1のエドゥサ駅周辺を通り抜けるのは簡単ではない。多くの人が交錯するこの周辺の通りは混雑が常態化しており、反対側に出るのさえやっかいである。交差点を渡り2つ先の通りに出るのは渋谷のスクランブル交差点を抜けるよりはるかに困難である。

 10日ほど前の深夜、テレビで映画『ボーン・レガシー』をやっていた。映画の後半、舞台はマニラになり、突如としてパサイが登場した。MRT・Line1が映っていた。トンドも映っていたように思った。最新の映像技術で撮ったエキセントリックなマニラを観ることができた。

 エドゥサ駅からさらに東に歩きMRT・Line3のタフト・アベニュー駅を越え、バス会社のターミナルが集まっているところに出た。タフト・アベニュー駅の南にもバスターミナルはあった。

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 この周辺のバスターミナルからナスブ行き(2001年)、ラワグ行き(2013年)のバスに乗ったことがあった。

 10日ほど前、ネット上でパサイ発のアパリ行きのバスがあると書かれていた記事を見つけていた。にわかに信じられなかったが、新しい路線ができた可能性があり、パサイでそのチケットを手に入れることができれば楽である。そう思って来てみたが、ファイブ・スター、ビクトリーライナー、フィルトランコその他7社にアパリ行きのバスはなかった。どのバス会社でも「アパリ行きの路線はない。他のバス会社に行ってくれ」と言われた。


クバオでアパリ行きのバスを探した

 歩いて来た道をもどりタフト・アベニュー駅からMRT・Line3に乗った。30分ほどでクバオ駅に着いた。クバオもバス会社のターミナルが集結している街である。

 クバオからアパリ行きのバスが出ているという旅人の情報があった。正確に書くと「クバオのバスターミナルに着いた時刻はアパリ行きのバスが発車したあとで、仕方なくトゥゲラガオ行きのバスに乗った」ということである。だからブログの主はアパリ行きのバスに乗っていない。バス会社の名前は書かれていなかった。

 クバオにある数社のバスターミナルに寄ってみたが、パサイのバス会社と同じことを言われた。

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 期待していたビクトリーライナーのバスターミナルを発着するバスのほとんどは、マニラとオロンガポを結ぶものだった。

 クバオ駅があるのはケソン市である。繁華街であるが、好きなエリアではない。パサイのようにごちゃごちゃしていない。一方アラヤ(マカティ市)のように洗練されてはいない。中途半端な街である。

 エピファニオ・デ・ロス・サントス通り沿いのMangINASALで昼ご飯を食べた。このチェーン店には何度か入ったことがあった。“Mang”はタガログ語で「ミスター」、“INASAL”は「丸焼き」という意味である。「ミスターBBQ」と解釈していいのだろう。残念ながら量が足りなかった。そしてあまりうまいとはいえなかった。

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 クバオ駅近くのショッピングセンター内のミスタードーナツに入った。フィリピンにはドーナツ店が多い。ミスタードーナツ、J.COドーナツ&コーヒー、クリスピー・クリーム・ドーナツ、ダンキンドーナツなどがひしめいている。どんな小さな町でもドーナツ店はある。以前ダンキンドーナツでドーナツを買いバスに乗ったとき、隣に座った人はミスタードーナツの袋を持っていた(その人はラインをやっていた)。ドーナツに入っているクリームは多く、甘いのはフィリピンのドーナツの特徴である。

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カムニンでアパリ行きのバス・チケットを買った

 クバオ駅でMRT・Line3に乗った。1つ先のカムニン駅で下車した。ここにはビクトリーライナー、JAMトランジットなどのバスターミナルがある。

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 出発前、カムニン・バスターミナルとサンパロック・バスターミナルからアパリ行きのバスがそれぞれ2本出ていることをビクトリーライナーのHPで確認していた。だから最初からここに来ればよかったわけだが、久しぶりに歩いてみるのも悪くないと思い、アパリ行きのバスが発着しているかもしれないパサイとクバオに寄ったわけである。

 ビクトリーライナーはルソン島北部に路線を持つ大手バス会社である。サイトでごく一部のバスのチケットを買えるようになっていたが、アパリ行きのバスはその対象ではなかった。

 カムニン駅からMRTの高架下を南に7、8分ほど歩いたところにビクトリーライナーのバスターミナルがあった。ようやくアパリ行きを見つけた。アパリ行きは「3:30発」と「18:30発」である。

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 ビクトリーライナーにしては、広くないバスターミナルの椅子に20分ほど座って、どちらを選べばよいのかを考えた。

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 9日後の10月14日の20:00過ぎに、パプアニューギニアからマニラ・ニノイアキノ空港にもどることになっている。マニラでの時間の余裕は十分あるのだが、問題はMRTの終電が22:30ということだ。飛行機が遅れた場合、パサイまでバスで行くことができても、そこからカムニンへの移動手段がタクシーしかなくなってしまう。

 「18:30発」のチケットを買った。1,070ペソ(≒2,355円)。

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 席を選ぶことができた。9日先のバスの座席表にはすでに7人の予約が入っていた。今日予約しておいてよかった。アパリの手前の町であるトゥゲラガオに行くバスは頻発しているが、アパリまで行くバスの座席は貴重なのだ。日本のブログでアパリ行きのバスに乗った人はおそらくいない。

 今日やるべきことは終わった。


ニノイアキノ空港にもどった

 カムニン駅にもどった。MRT・Line3に乗り、タフト・アベニュー駅にもどった。

 あいかわらずタフト・アベニュー駅周辺はごった返していた。駅からエドゥサ通りを西のほうに歩いた。昼前にニノイアキノ空港からのバスを下りた辺りの、通りの反対側に行ってみた。

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 フィリピンの道路にバス停を示す表示はない。西に歩いていくと人々の集まっているところがあった。どうやらバス停のようである。バスはときどきしかやって来ないが、ジプニーは頻繁にやって来ては発車していった。タクシーもこの辺りから発着していた。

 ニノイアキノ空港に向かうバスがあるのかどうか不安だったが、20分ほど待って、空港行きのバスがやって来た。

 バスはエドゥサ通りを西に進み、SMシテイまで行った。そこから北側に進んだ。ニノイアキノ空港とは反対方向である。車掌に尋ねた。大回りしたあと、折り返すらしい。

 夜の渋滞もすさまじかった。バスはニノイアキノ空港のターミナル2を経由し、1時間ほどかけてターミナル1に着いた。


スクートでシンガポールへ

 スクートのカウンターが開きすぐにチェックインが始まった。

 マニラ行きのフライトを予約したのは4月であるが、マニラからモルディブ行きを追加したのは8月である。マニラからどこかに行けないかと、航空券を探していたらモルディブ行きが比較的安く売り出されていた。シンガポール経由で、往復それぞれでシンガポールに15時間ほど滞在できるフライトである。

 手荷物と機内預かり荷物を合わせて7kgの制限があるのはジェットスターと同じである。成田空港での計測では7.2kgだったので、ポケットにアダプターなどを詰め込み、スクートのカウンター前に立ったが、荷物は計量されなかった。すべてを手荷物として機内に持ち込むことにした。

 搭乗券はマニラ・シンガポール間、シンガポール・マーレ間の2枚をもらった。シンガポール・チャンギ空港での乗り継ぎ便の搭乗券を、出発空港でもらうことができるシステムは「スクート・スルー」と呼ばれている。タイガーエア、シンガポール航空、シルクエアも同じシステムを採用している。チャンギ空港でのエアラインの負担が少なくなると同時に、旅行者に少しでも長くシンガポール中心部にいてもらいお金を使ってもらおうという背景が見て取れる。

 TR2727 マニラ・ニノイアキノ空港 22:10 → シンガポール・チャンギ空港 (+1)1:50
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