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アジアンカフェをよろしく!

旅の夢をみよう いつかその場所を訪れるまでは  /  旅はヒーローになれる! 初めての街にはその舞台が用意されている。
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12日目 2018年12月17日 ガントク シリグリ バグドグラ

SNTバススタンドで

 7:00、MGマールグで開いている店はなかった。だからカフェも開いていなかった。

 メインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドから乗合ジープに乗るか、SNTバススタンドからバスで行くかのどちらかである。前者からは最低24本、後者からは13:30までに8本の運行本数がある。

 SNTバススタンドに向かった。窮屈なジープよりバスでゆっくり行くことにした。

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 ガントクからシリグリまでは124㎞。バス料金150ルピーは安い。チケットに記載されていたのはバスのナンバープレートの番号だった。[SK01B0578]のナンバープレートのバスを探した。

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 チケットの出発時刻は7:15となっていたが、チケット窓口の横の時刻表には掲載されていなかった。

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ガントクからシリグリまで

 SIKKIM NATIONALISED TRANSPORTバス/ガントク 7:15 → シリグリ 12:00頃

 バスは国道31A号を南下しながら、徐々に高度を下げた。

 途中、多くの中学生を乗せた。

 シングタムからはTeesta川が並走してきた。

 ガントクを出てから2時間ほど走ったところで休憩となった。立ち寄った食堂はTeesta川沿いにあった。

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 ランポを通過した。バスはここでシッキム州から西ベンガル州に入ることになる。しかしグーグルマップをよく見ると、国道31A号が西ベンガル州に入ったということで、Teesta川を挟んだ対岸はシッキム州である。しばらくの間、車窓のシッキム州を見ながら、西ベンガル州を南に走った。

 ダージリンへの道が分岐するTeesta橋が見えた。2日前(12 月15日)に渡った橋である。

 セボークはシリグリからジャイガオンに向かった8日前(12月9日)、ジャイガオンからダージリンに向かった4日前(12月13日)に通過したところである。土煙が舞い上がる土木工事区間を通ったが、集落を見ていない。

 ここまでのTeesta川は山間を流れていた。セボーク以南のTeesta川は広い河原を持つ川となる。

 Teesta川は下流でジャヌマ川に合流する。ジャヌマ川はバッドマ川と合流し、さらにダッカの東側から流れてきたメグナ川と合流し、ベンガル湾に注ぐ。

 ジャムナ川流域のタンガイル、ジャヌマ川とバッドマ川が合流するダウラディアには興味深いエリアがある。それらはバングラデシュのアンタッチャブルである。

 セボークからシリグリまでは20㎞ほどである。

 途中で渋滞になった。シリグリに近づいてきた。


シリグリからバグドグラへ

 渋滞を抜けたバスはシリグリのSNTバスステーションに到着した。シッキム方面へのバスが出ているバススタンドである。このなかにあるシッキム・ツーリズムでシッキム州へのパーミットについて尋ねたのは9日前 (12月 8日)である。

 バグドグラはつまらないだろうが、それ以上にシリグリに飽きている。シリグリで見たい場所はなかった。

 SNTバスステーションの外でオートリキシャと交渉した。

 シリグリからバグドグラ空港までは17㎞ほどである。バグドグラの中心部までは15㎞だろう。500ルピーの言い値は350ルピーになったが、それ以下にはならなかった。

 見た目と中身が一致しないのは人間だけではない。オートリキシャはボンコツだった。まったくスピードが出なかった。満身創痍のオートリキシャはヨレヨレと青息吐息で走った。

 最初はとろとろと裏道を抜けた。途中からAH2という幹線道路に入った。脇を抜ける車におびえながら走っていた。

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 途中、警察官に止められた。ドライバーは何やら話していた。あまりのボンコツさに見かねて声を掛けてきたようである。

 1.5倍ほどの時間がかかったはずである。バグドグラの中心らしきところで下ろしてもらった。


OYO14331ホテルアクアリウムにチェックイン

 幹線道路を西に歩いた。薄汚れたホテルが1軒あった。

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 さらに西に歩いた。ホテルが2軒あった。小さなバグドグラでホテルの選択肢は多くない。早く決めたほうがよさそうである。ホテルアクアリウムに泊まることにした。

 看板には[14331OYOホテルアクアリウム]の文字があった。数字[14331]の意味するところを知らないが、OYOは「オヨ・ルームズ」である。

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 シリグリにもあった。インドでたまに見かけるチェーン系のホテルである。

 ウィキペディアから抜粋しておく。

 OYOはホテルと提携して一部の部屋を借り、無料Wi-Fi、朝食、エアコン、テレビをふくむ30項目のチェックリストを独自に作成し基準を満たしているホテルにOYOブランドを与えて部屋を提供している。
 ・・・・・・・(略)・・・・・・・
 2015年7月1日-・・・・・・・・・ソフトバンク・ビジョン・ファンドと既存投資家から1億ドル調達


 この旅の4ヶ月後に次の文章が加えられた。

 2019年3月28日-ヤフーと合弁でOYO TECHNOLOGY & HOSPITALITY JAPANを設立し日本で賃貸住宅事業開始

 2019年4月4日-ソフトバンク・ ビジョン・ファンドと合弁でOYO Hotels Japan合同会社を設立し日本でホテル事業を開始


 さすがソフトバンク。

 ブッキングドットコムでチェックしてみた。シリグリとその周辺地域には81の宿泊施設が掲載されていた。そのうち33の宿泊施設がオヨ・ルームズだった。[OYO 14795 Hotel Priyanshu]、[OYO 3078 near Hong Kong Market]、[OYO 12992 Prince lodge]などである。


バグドグラを歩いた

 ホテルアクアリウムはAH2という幹線道路沿いにある。高架工事が行われていた。工事の音は響いていなかったが、車の走行に伴う土煙がひどく空気は著しく悪い。

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 空港がある以外にバグドグラには何もなさそうである。シリグリの郊外に空港を建設するとき、何もないバグドグラに白羽の矢が立ったのだろう。

 それでも幹線道路沿いにはいくつかの食堂があった。そのうちの1つでチキンとPANEER PARATHAを食べた。PANEER PARATHAはインドのパンである。パイのようである。

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 南東方向にあるバグドグラ駅に行ってみる。

 空き地があった。塀で囲われており、何かの施設の予定地かもしれない。塀の内側はゴミ捨て場になっていた。

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 集落のなかに入った。通りは舗装されていない。トタンの家が多い。この辺りが古いバグドグラの集落のようである。スラムではなく、治安が悪い感じはしない。

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バグドグラ駅で

 バグドグラ駅に着いた。

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 駅には列車が置かれていた。

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 下の1枚は料金表である。グワーハーティ、ニューデリーへの料金が掲示されていた。グワーハーティ行き、ニューデリー行きの列車があるということではない。グワーハーティはバグドグラから300㎞ほど東にあるアッサム州の街である。少し興味がある。

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 バグドグラに停車する列車は1日5本ある。5本の列車の終点はカティハル、バルルガト、マルダコート、ラドヒカプールの4ヶ所である。知っている街はない。

 5本の列車はシリグリを経由するようだ。シリグリから鉄道でバグドグラに来るという選択肢があったことになる。乗車時間は15分程度だろう。

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 もうすぐ列車がやって来る。15719列車カティハル・インターシティ・エクスプレスは15:19にバグドグラ駅に到着し、15:21に発車する。それを待ってみることにした。インターシティは主要都市間を結ぶ列車である。

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 カティハル・インターシティ・エクスプレスは5分遅れてバグドグラ駅に着いた。インド国鉄の軌間は1,676㎜である。まじかに見るインドの列車は大きく迫力がある。。

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 写真を撮ってはいけないと駅員に注意された。撮った写真を消せ、とは言われなかった。

 列車を見送ってからバグドグラ駅を出た。

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OYO14331ホテルアクアリウムにもどるまで

 来た道をもどらずに、北に歩いた。幹線道路のほうである。

 集落に厚みはなかった。幹線道路の手前と幹線道路沿いのところどころに小さな店や食堂はあった。

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 菓子を買って帰ろうとして菓子店に寄った。注文したものが皿に盛られてしまったので、食べて帰ることにした。

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11日目 2018年12月16日 ガントク

ガントクの朝

 昨夜は寒かった。昼間と同じような服を着て寝た。

 10:00頃、ホテルヘリテージを出た。坂を下りMGマールグに入った。

 パンやケーキが陳列されていたベーカリカフェで朝ご飯。

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 カフェの窓からはカンチェンジュンガ(8,586m)の頂上部が見えていた。裾野まで見えていたダージリンのほうが眺めはよかった。

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 ガントクには3つのビューポイント(タシ・ビューポイント、ガネーシュ・ビューポイント、ハヌマーン・ビューポイント)がある。早朝にタクシーで行く人もいるらしい。


空中で止まったロープウェイ

 12:00前ベーカリカフェを出た。
 
 MGマールグを南に歩いた。HOTEL GOLDEN NESTを過ぎ、ロープウェイ乗り場に向かった。

 日本では廃止が検討されるだろう。ロープウェイの施設は老朽化していた。一瞬、大丈夫かな、と思った。

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 往復117ルピーのチケットを買った。片道チケットはないようである。

 ロープウェイの乗り場からもカンチェンジュンガが見えた。

 4階から出るロープウェイに10人ほどが乗り込んだ。

 上空からの景色は素晴らしかったが、連日似たような景色を見ているので慣れてしまっている。
 
 ガントクは斜面に造られた街であることがはっきりとわかる。道路は傾斜地に敷かれており、その道路に沿って家が建っている。

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 5分ほどで下の駅に着いた。移動したのは1㎞ほどである。

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 下の駅に着いても、私を除く全員がそのままゴンドラのなかに残った。私は一度外に出たが、ゴンドラはすぐに折り返すという。

 上の駅で乗ったときに、全員の往復チケットは回収されている。ここで下の駅から外に出てしまうと、上り坂を歩いて帰ることになるかもしれない。下の駅の近くにはチベット学研究所があるが、日曜日の今日は休みである。だから歩きたい場所ではなくなっていた。

 発車間際のゴンドラのなかのインド人たちが、私に乗るのか乗らないのかはっきりしろといっているようで、集団心理に押されて乗り込んでしまった。

 復路でハプニングがあった。ゴンドラが停止した。景色をゆっくり眺めるために空中で停止したわけではない。

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 自家発電装置はあるのだろうが、インドでの停電は日常的に発生する。乗る前に老朽化した設備を見ている。

 ゴンドラのなかにいたインド人たちは何も気にしていないようだった。私だけが最初から心配していた。停止時間が長引くにつれ、どうなっているのだと彼らも話をし始めた。私は停止している時間を気にしていた。

 5分の停止は長すぎた。停止位置は急な坂の上空であり、地面からの高度は30mほどある。落下した場合、住宅に引っ掛からなければ、ゴンドラは角度のある斜面を谷底に向かって転げ落ちるだろう。

 空中でのしばしの休息と心配ののち動き出したゴンドラは出発地点にもどった。乗客たちは何もなかったかのように散っていった。 
 

MGマールグで

 朝よりは暖かくなった。日差しがぽかぽか照るMGマールグで人々はくつろいでいた。それは日曜日のガントクのいつもの風景なのだろう。ガントクにはカップルかファミリーしかいない。

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 カフェに入った。他にやることがない。旅日記を書いているが、完成はいつになるかわからない。前回(10月から11月にかけて)の旅もまだ数日分しか書いていない。

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 カフェを出てホテルにもどった。

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再びMGマールグ

 ホテルの部屋を出た。ホテル前の坂道を下った。

 MGマールグに出た。周辺をぶらつた。

 歩いている途中、たまたまルムテク・タクシー・スタンドと書かれた表示のあるところを通った。ルムテクは24㎞ほど離れたところにあるゴンパである。谷を下りて、向かいの山の尾根を上ったところにある。近くにいた人に尋ねると、昼以降、乗合タクシーはほとんど出ていないらしい。


ラル・マーケット

 ラル・マーケットに入った。

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 屋上からはガントクの街が見渡せた。よい風景だった。

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 カンチェンジュンガも見えていた。朝よりは少しぼんやりとしていた。

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 ラル・マーケットは建物のなかにある。階段を下りた。

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ガントクとオーガニック

 下の階では野菜や果物が売られていた。

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 シッキム州はオーガニクを推奨しており、野菜と果物を他の州に依存していない。

 街にスーパーマーケットはない。スーパーマーケットがなければ、農家が野菜の販売の多くを独占することができる。市場で売られている野菜は農家が運んでくる。それが100%無農薬の野菜であるかどうかはわからないが、生産から、消費者が購入する直前までの流通管理を行うことによってオーガニックは完成する。

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 シッキム州ではプラスティック系のバッグの使用は10年以上前に禁止されている。


国道31A号周辺

 昨日乗合ジープを下りたのは国道31A号である。周辺を歩いた。

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 ガントクにはスタンドやファストフードの店が多い。国道31A号沿いのファストフードの店でサンドウィッチを食べた。

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 幹線道路である国道31A号の東側にMGマールグはある。2つの高低差を埋めているのは階段である。階段はいくつかあり、場所によっては途中に店もある。

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 MGマールグにもどった。


ガントクとゴミ

 MGマールグにゴミは落ちていない。細長いMGマールグの中央部にはゴミ箱が30mぐらいの間隔で並べられていることと関係あるだろう。分別は「乾いたゴミ」と「湿ったゴミ」の2つである。中国の住宅地のゴミ分類と似ている。

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 それ以上に驚いたのは、小さな店の前にもゴミ箱があったことである。店が用意しているゴミ箱だろう。インドの他の街では考えられない。

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 私が最初にインドに来たのは2001年である。その頃のインドは本当に汚かったが、清潔な街は増えてきている。ゴミ事情は随分変わってきているように思う。


夜のガントク
 
 レストランで夜ご飯。

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 すっかり夜になっていた。

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 菓子を買ってホテルにもどった。

10日目 2018年12月15日 ダージリン ガントク

ガントクに行くかカリンポンに行くか

 ホテルディップパレスをチェックアウトした。

 今朝も寒い。12月にインドを旅するのは初めてである。今回の旅で「インド=暑い」というイメージは吹き飛んだ。

 ホテル前の坂を下りヒル・カート・ロードに入った。バススタンド、乗合ジープスタンドまで歩いた。

 歩きながらまだ迷っていた。ガントクに行くか、カリンポンに行くか。

 ブータン王国に支配されていたこともあり、ブータンと繋がりのあるカリンポン。カリンポンの郊外にある3つのゴンパを見に行くかどうかで迷っている。3つのゴンパはカリンポンの北(2つ)と南(1つ)に散っており、3つとも歩いていける距離ではない。だからちょっと面倒くさい。写真で見ると大したことはないように思える。カリンポンの街がつまらないことはわかっており、3つのゴンパを見たあとすぐにガントクに移動することになる。

 カリンポンに行かないのなら、直接ガントクに行く。ガントクはシッキムの州都である。気持ちはガントク行きに傾いている。

 シッキム王国の誕生は1642年。18世紀以降、ネパール、ブータン、英国の勢力が増大し、19世紀英国の保護領となった。その頃からチベット人が増えた。1975年、シッキムはインド22番目の州になった。そのためインド人が増えた。シッキム州のHPには、ガントクはインドとチベットを結ぶ拠点で、コスモポリタンな街であると紹介されている。


乗合ジープスタンドで

 7:00前、ジープスタンドに着いた。カリンポンに行かないで、ガントクに向かうことを決めた。ガントク行きの乗り合いジープが3台あったが、この時間帯にカリンポン行きがなかったからである。

 どのジープも乗客の人数は同じで、1列目の運転席の横に2人、2列目4人、3列目4人である。ぎゅうぎゅう詰めである。運転席の横は2人客が隣同士を希望したときのために空けている。ガントクまで1人250ルピー、2人なら400ルピーである。どのジープも運転席横の2人席の1人使用を私に勧めてきた。1人で運転席の横を独占したい場合は2人分400ルピーを払え、ということである。客が集まっていなかったということもある。

 250ルピーを払い、あるジープの2列目に乗り込んだ。

 ジープの選択は間違っていなかった。7:15、私の乗ったジープは4人を乗せて、他のジープの先陣を切った。他のジープは人が集まっていなかった。乗客4人で出発したことは不思議だった。


カンチェンジュンガを見ながらガントクへ

 ジープはまずグームに向けて出発した。昨日ダージリン・ヒマラヤ鉄道に乗った区間と並走している道路を走った。

 グームを過ぎたジープはある集落で止まった。そこで3人を乗せた。どうやらこのジープを予約していたらしい。屋根に乗せた荷物は大きかった。

 ジープはどんどん山を下った。左手にはずっとカンチェンジュンガ(8,586m)が見えていた。

 8:40、店が数軒並ぶ集落で朝食休憩。コーヒーだけを飲んだ。

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 20分の休憩のあとジープは出発した。多少のアップダウンはあったが、山を下るルートである。ところどころに集落はあり、人がいた。どこかで下りてみたいと思わせる集落だった。

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 Teesta川に架かるTeesta橋を渡ったところからは(シリグリから)ガントクに向かう道路(国道31A号)に入った。

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 車の通行量が増えた。

 Teesta川は国道31A号と並走していた。

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ランポのチェックポイントを通過

 ランポのチェックポイントがあった。シッキム州の入口である。私だけが車を下りた。

 ドライバーといっしょにFOREINNERS REPORTING OFFICEに入った。オフィスのスタッフは私から受け取ったパスポートとパーミットの情報のいくつかを分厚いノートに転記した。手続きは5分で終わった。

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 今朝乗合ジープを探しているとき、ドライバーはパーミットを持っているかどうかを尋ねてきた。持っていなければ、乗合ジープに乗せてもらえるのはこのFOREINNERS REPORTING OFFICEまでとなる。その場合は、ここでシッキムのパーミット(入境許可書)を取ったあと、新たにガントク行きのジープを探さなければならない。

 他の乗客たちが待っているジープにもどった。


いよいよガントク

 ジープはどんどん山を上った。ジープが走っているのは国道31A号である。

 10:30頃シングタムを通過し、11:10頃タドンを通過した。

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 乗客たちは途中の集落で次々下りた。終点まで乗っていたのは私1人になった。


メインライン・デオーラリ・タクシー・スタンド

 いくつかの町を過ぎたジープは国道31A号から少し逸れたところにあるメインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドに入った。公営バススタンドではなく、私設の乗合ジープ、バススタンドのようである。ここはまだガントクの手前である。

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 ここから周辺のいくつかの街に行くジープが出ているようである。

 DEORALI TRANSPORT C0-OPERATIVE SOCIETY LTD.のバスには、シリグリ行き、ダージリン行き、カリンポン行きがあった。カーカルビッタ(ネパール国境)行き、ジャイガオン(ブータン国境)行き、バグドグラ空港行きもあった。

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 BHUMPA TRANSPORT CO-OPERATIVE SOCIETY LTD.のバスはシリグリまで24本、カリンポンまでは2本出ている。

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 上の2つの会社の車両は乗合ジープである可能性が高い。メインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドに数十台のジープが止まっていたが、バスは1台もなかった。


乗合タクシーでMGマールグまで

 メインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドからガントクの中心までは上り坂のようである。

 メインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドに入ってくるタクシーと交渉した。ドライバーの言い値である200ルピーを150ルピー以下にデイスカウントできなかった。

 タクシーと乗合タクシーははっきり区分されているようである。乗合タクシーを拾いたければ国道31A号に出なければならないとタクシードライバーが教えてくれた。

 国道31A号を乗合タクシーは頻繁に走っていた。近くにいた人が、乗合タクシーの止まる場所を教えてくれた。

 ガントク中心部まで乗合タクシーで20ルピー。乗合タクシーは国道31A号を1.5㎞ほど走った。

 右手にある建物と建物の間の階段を上がればMGマールグだとドライバーが教えてくれた。

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 国道31A号にあった階段を上るとMGマールグに出た。ガントクの中心である。

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 さて、まずはホテル探しである。


最初だけ強気のホテル探し

 MGマールグ周辺を少し歩いただけでホテルのある場所はわかった。さっき乗合タクシーを下りた国道31A号沿い、MGマールグの両側、MGマールグの1本東の通り沿いである。

 ホテルの数はとても多い。ホテル探しに苦労することはないようだ。

 MGマールグの2軒のホテルに入った。1泊3,000ルピーのホテルのスタッフは、私の顔を見て少し考え込みながら2,000ルピーにする、と言った。ガントクのホテルは高いと認識させられる1軒だったが、この時点で私はまだ楽観的だった。こんなところには泊まらないと2軒目に入った。2,400ルピー。

 断わってホテルを出てくるのが嫌なので、高そうなホテルには入らない。それにしてもMGマールグのホテルは強気な料金設定をしている。

 MGマールグの1本東側を北に上る坂を歩いた。坂道の両脇にずらりとホテルが並んでいた。ホテルの隣はホテル、その隣もホテルで、向かいもホテルだった。それが坂の上のほうまで続いているようだ。その数は46には及ばないだろうが、「ガントク坂46」と呼ぶことにした。

 レセプションにスタッフのいないホテルが2軒、満室のホテルが2軒あった。まだまだホテルは残っていたが、希望は徐々に後退させられた。入るホテルのレベルは下がってきたが、湯が出ることには期待したい。部屋の暖房はあきらめている。ガントクに暖房の効くホテルはないだろう。

 ジャイガオン、ティエンプー(ブータン)、ダージリンのホテルでは湯が出ず、パロ(ブータン)のホテルでタンク1杯分の湯しか使えなかった。ティエンプー、パロのホテルでは暖房器具から30㎝離れたところで放射熱を感じなかった。冬のインド東北部とブータンのホテルに「暖房」という言葉はない。

 部屋でWifiはつながる、と見え透いた嘘をつく(が、実際にはつながらない)ホテルのレセプションスタッフがたまにいるなか、「部屋のなかでつないでみてくれ、パスワードはこれだ」と言ったホテルがあった。Wifiのことはわからないオーナーだったが、働いているスタッフは親切だった。

 ホテルヘリテージに決めた。階段は木製である。老舗ホテルは寒そうだった。このレベルで1泊900ルピーは高いのだが、妥協した。2泊することにした。

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ガントクを歩いた

 暗い部屋で少し休んでから外に出た。坂道を下りMGマールグに出た。

 MGマールグは歩行者天国になっており、車は入ってこない。両側には5階建てほどの建物が並び、レストラン、店が軒を連ねている。土産物店、ブティックも多く、カフェも数軒あるようだ。インドらしくない街である。

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 立ち食いのファストフード店でバタープレーンドーサ。ドーサはどこで食べても同じ味である。

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 MGマールグの北の端にツーリストインフォメーションセンターがあった。

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 さらに北に歩いた。
 
 どうやらガントクに信号はないと思われる。

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 歩道橋を越え、ホテルチベットを過ぎたところにSNTバススタンドがあった。公共バスのスタンドである。

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 時刻表通りに動くかどうかはわからないが、シリグリ行きのバスの時刻はわかった。13:30までに8本のバスが運行されていた。6:00発、7:00発、8:00発・・・・13:30発といった具合である。

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 乗合ジープを下りたところにあったメインライン・デオーラリ・タクシー・スタンドのほうが本数は多い。

 MGマールグにもどることにした。

 途中にあったのは「M」の字を上下逆さにした「W」のロゴの衣料品店。ファストフードではないし、アルファベットが異なるので世界的ハンバーガーチェーンのパクリではない。色使いは似ているけれど。

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 さっき食べたバタープレーンドーサでは腹が一杯にならなかったので、スタンドで菓子を食べた。

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山道歩いてエンチェイ・ゴンパへ

 MGマールグから山道のほうに入った。舗装されていたが、完全な上り坂である。

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 上り坂は、北に2、300m歩いては南に2、300m歩くといったような、容赦ないジグザグの道だった。

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 途中、近道らしき階段を見つけた。

 下りてきた人に尋ねてみた。階段の上にあるらしい。

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 階段を上り切ったところあったのは電波塔である。その向かいにエンチェイ・ゴンパに入る門があった。MGマールグから3㎞ほど歩いたことになる。地図上での直線距離は近いのに折り返しがあったからである。

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 門から本堂まで参道があった。参道を抜けるとエンチェイ・ゴンパがあった。1909年~1910年に建てられたチベット仏教ニンマ派の僧院である。

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 本堂の内部には壁画があったが、参道を含め改修中である。観光客も地元の参拝客もいなかった。坊さんもいなかった。数人の工事関係者が境内で休んでいた。

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 エンチェイ・ゴンパの門の前に店が3軒ほどあった。商品の品揃えはほとんどなく、流行っている様子はなかった。エンチェイ・ゴンパは鄙びていたが、ゴンパ周辺も十分に鄙びていた。

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MGマールグにもどった

 MGマールグにもどった。

 ぶらぶら歩いているうちに、夕暮れが夜になった。MGマールグは昼間の楽しそうな雰囲気を残したまま夜になった。街は明るく、人は街の灯りを楽しんでいるようだった。

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 これまで夜のインドの街で危険を感じたことはないが、ガントクはとりわけ安全な雰囲気を漂わせていた。

 レストランで夜ご飯。

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ガントクと酒

 歩いている途中、バーを数軒見つけた。酒店もあった。ガントクが他のインドの街と異なるのは日常に「酒」があることである。インドでは禁酒法のある州もあり、酒を調達することは(イラン、イラク、ヨルダンほどではないが)難しい。

 シッキム州の酒税は安い。だから店を出しやすいのかもしれない。

 下の1枚は昼間に撮ったバーの看板である。インドでこの類の広告を初めて見た。

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 ホテルヘリテージから50m離れたところに酒店があった。店先に並べられていたのはウィスキーだった。インドのビールがほしかったが、TUBORGというデンマークビールしかなかった。100ルピー。寒い部屋で飲むことにした。

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 酒を調達しやすいのはチベット人が住んでいる地域であるが、インドで酒があるのはゴアかガントクだともいわれている。ゴアはチベット人とは何の関係もない。西海岸にある「ヒッピーの聖地」である。欧米人が酒を持ち込んだと考えていいだろう。

9日目 2018年12月14日 ダージリン 

早朝のホテルディップパレスで

 4:00頃、目が覚めた。ホテルディップパレスの廊下がうるさかった。子供の声が混じっていた。おそらく家族でタイガー・ヒルに行くのだろう。カンチェンジュンガにかかる日の出のビュースポットである。時計台の近くからジープで行くことができる。うるさかった声はすぐに収まった。

 8:00前、再び廊下がうるさくなった。4:00に出て行った家族がもどってきたのだろう。


カンチェンジュンガ(8,586m)を見ながら

 9:00前にホテルを出た。坂を下り、ダージリン駅に着いた。

 12月の空気は澄み切っていた。晴天で湿度が低い。

 展望は素晴らしかった。カンチェンジュンガは見事に見えた。8,586mは、私が見たなかでもっとも高い山になった。カンチェンジュンガの近くにエベレストが見えるときもあるらしい。ダージリンは霧が多く、ヒマラヤを見ることができずに帰る人も多くいる。

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 カンチェンジュンガの東はインド、西はネパールである。

 出発まで少し時間があるので朝ご飯を食べることにした。駅周辺にカフェはなかったが、テーブルが4つしかない食堂があった。食堂の2階窓からダージリン駅とカンチェンジュンガが見えた。

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 メニューにないオムレツを作ってもらった。ドリンクはもちろんダージリン・ティ。

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ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 ダージリン・ヒマラヤ鉄道はニュージャルパイグリ駅とダージリン駅の間の88.48kmを結ぶ鉄道である。1879年、ダージリン・ティを運ぶために建設が開始された。

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 2010年6月の崖崩れにより、現在運行している区間は一部である。ダージリン駅とグルシャン駅の間は通常の路線として運行しているが、それ以外にダージリン駅とグーム駅の間をJOYRIDE STEAM(蒸気機関車)、JOYRIDE DIESEL(ディーゼル機関車)が走っている。これは観光列車としての運行である。

 軌間は610㎜(24インチ)である。

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 日本の新幹線、阪急電鉄、京成電鉄などは標準軌の1,435㎜、JR在来線、小田急電鉄、東武鉄道などは1,067㎜、京王電鉄(井の頭線を除く)、都営新宿線、東急世田谷線などは馬車軌間1,372㎜である。

 特殊狭軌は日本各地に存在していたが、多くは廃線になってしまった。日本の特殊狭軌は762㎜あるいは600㎜が中心である。三岐鉄道北勢線(762㎜)など一部区間では今でも列車が走っている。

 ダージリン・ヒマラヤ鉄道と同じ600㎜の軌間を持つ鉄道は、成田ゆめ牧場(千葉県成田市)でトロッコ列車として運転されている。


ダージリン・ヒマラヤ鉄道の運転状況

 ダージリン駅に時刻表が掲示されていた。ダージリン駅を出発してダージリン駅にもどってくる列車は1日4本ある(この時期、5本が運休になっている)。発車時刻と料金は以下のとおりである。

 JOYRIDE STEAM(蒸気機関車)/発車時刻10:00、12:20、16:05/料金1,310ルピー(16:05は1,405ルピー)

 JOYRIDE DIESEL(ディーゼル機関車)/発車時刻16:05/料金805ルピー

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 昨日私が買ったチケットは10:00にダージリン駅を出発するJOYRIDE STEAMである。グーム駅で折り返し、ダージリン駅にもどってくる。

 JOYRIDE STEAM 52594列車/ダージリン 10:00 → バタシア・ループ → グーム → ダージリン 12:00

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ダージリン・ヒマラヤ鉄道に乗って

 ディーゼル機関車が駅構内を行ったり来たりし、客車の切り離しや付け替えをしていた。見ているだけで楽しくなってくる。

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 住民にとって線路は特別な場所ではない。日常の通り道であり、生活の場である。線路への立ち入りは日本では鉄道営業法違反になるけれど。

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 ディーゼル機関車が空の客車を牽引して駅を出ていったが、すぐに折り返し、ホームに入線してきた。客車からディーゼル機関車が離れ、蒸気機関車が連結された。JOYRIDE STEAM 52594列車が完成し、乗客が乗り込んだ。私が乗ったのは20人乗りの2等車である。

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 20分遅れてJOYRIDE STEAM 52594列車は発車した。2両編成である。車内は満席である。

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 列車はダージリンを南北に抜ける幹線道路であるヒル・カート・ロードに沿って敷かれている。線路と道路を分ける境界線はない。52594列車が走っているそばを車が追い抜き、すれ違う。人も普通に行き交っている。

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 店は線路の脇にあり、列車は店先をかすめる。

 ダージリン駅で線路は道路と交差していたが、踏切はどこにもない。線路は常に山側にあり、崖側を走ることはない。

 列車は途中で停止した。水を入れる作業をしていた。

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 JOYRIDE STEAMの評定速度は10㎞ほどである。観光列車だから意図してゆっくり走っているわけではない。蒸気機関車は全力で稼働している。それでもスピードが出ないのである。

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バタシア・ループで停車

 バタシア・ループで停車した。バタシア・ループは公園になっている。線路は公園の周囲に敷かれている。列車は公園をほぼ一周し南に向かう。ダージリン・ヒマラヤ鉄道の撮影スポットでもある。

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 ここで下車した。10分ほどの休憩である。公園内で乗客が歩けるスペースは限られていた。公園にいる人たちをそのスペースに入れないように隔離されていた。

 蒸気機関車の装置はしばしばむき出しで、どんなに磨いても煤で汚れてしまうのが蒸気機関車である。観光客が写真を撮っているときも運転士は整備に忙しい。石炭は機関車の屋根に積まれている。

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 52594列車はグーム駅に向けて出発した。


グーム駅付近

 グーム駅に着いた。インド国鉄で最も標高の高い(2,258m)駅である(世界で3番目に高い)。ここで30分の休憩である。

 駅にはグーム博物館が併設されている。入場料20ルピーはJOYRIDE STEAMのチケット料金に含まれている。博物館の展示はダージリン・ヒマラヤ鉄道に関するものであるが、展示物はまったく充実していない。

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 かって走っていた蒸気機関車が野外に展示されていた。

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 グーム駅はお洒落な駅だった。英国のオールドファッションである。

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 駅の周辺を歩いた。3~5階の建物が中心で、店はあるが多くはない。歩いている人は多いが、少し外れると町は途切れてしまう。

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 ゲーム駅の北10分ほどのところにゲルク派(チベット仏教)のサムテン・チョリン僧院 Samten Choling Gompaがある。駅の西15分ほどのところにあるイガチョリン僧院Yiga Choeling Monasteryもチベット仏教の僧院である。どちらかを往復する時間はなかった。グーム駅では1時間ほどの休憩時間がほしい。

 駅のTEA STALLで紅茶を飲んでいたら出発時刻になった。ダージリンで飲む紅茶がダージリン・ティであるとは限らない。ダージリン・ティはブランドなので、他の紅茶よりは高級品となっている。

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グーム駅からダージリン駅までの帰路

 JOYRIDE STEAM 52594列車はグーム駅で折り返し、ダージリン駅にもどる。

 列車に飛び乗ったり飛び降りたりする(いわゆる無賃乗車)シーンをかなり前にテレビで観たことはあるが、観光列車である52594列車にそうする人はいなかった。

 走行中の客車のドアは閉められたままだったが、内側からドアを開け、外を眺めることはできた。途中からドアのところに立ち写真を撮った。

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 ダージリン駅にもどってきた。

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 カンチェンジュンガには雲がかかっていた。

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ダージリンを歩いた チョウラ―スター(広場)まで
 
 ダージリン駅からチュウラースター(広場)まで歩いた。ダージリンのメインストリートである。昨日2度歩いたところである。

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 途中にあったKHO-CYA(DARJEELING TEA BUREAU)という店でダージリン・ティの土産を買った。私が日本人であることを確認した若い定員は、店の名称である「KHO-CYA」は日本語から取ったと話してくれた。

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 ホテルディップパレスの前を通ったので、部屋で1時間ほど休憩した。


フレスタとCAFÉ Coffee Day

 チュウラースターの一角にあったフレスタというレストランでベジタブル・ビリヤニを食べた。

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 外に出たとき、雨が降ってきた。空には青空が残っており、止む気配はあったが、雨に混じって雹が降っていた。

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 雨のなかを少し歩いた。雨脚はまだら模様で、ときおり強く降ってきた。

 フレスタまでもどり、近くにあったCAFÉ Coffee Dayに避難した。インドで展開しているカフェのチェーン店である。

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 インドに入ってからは(コーヒーではなく)紅茶に切り替えていたが、ここではコーヒーを飲んだ。2013年に2回ほどCAFÉ Coffee Dayに入ったはずだが、どの街だったのかを思い出せない。CAFÉ Coffee Dayはホテルディップパレスの近くにもあった。
 

再びダージリンを歩いた

 雨は止んだ。再び街を歩き始めた。

 適当に歩いた。ところどころで建物と建物の間に階段があった。街は山の斜面にあるので、何ヶ所かある階段は移動に欠かせない。

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 階段の途中や下には店が密集していた。露店もあった。衣服や日常品が売られていた。多くは地元の店である。チュウラースター(広場)付近にアンティークショップやお洒落な店があるのとは対照的である。ダージリンでは両方が楽しめる。

 ダージリンの幹線道路であるヒル・カート・ロードに出た。

 北に歩いた。バススタンド、乗合ジープスタンドまで来てしまった。ここも昨日来たところである。もう少し歩いてみたが、バススタンド、乗合ジープスタンドでより北に店はなかった。

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 ダージリンに日が沈みかけていた。カンチェンジュンガは雲に隠れていた。

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隠れ家のような店で夜ご飯

 薄暗い階段の奥のほうにある隠れ家のような店に入ってみた。夜ご飯は辛味のあるチリチキンとモモ。

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 メニューのなかのモモはそれぞれ2種類ずつあった。「モモ・チキン」と「モモ・チキン・チャ」、「モモ・ビーフ」と「モモ・ビーフ・チャ」といった具合に。「チャ」が付けばチベット風、付かなければ中国風、この食堂ではそう呼んでいた。モモと中国の餃子は別モノだという説がある。どう違うのはわからない。

 チベット風を注文したら、予想をくつがえすものが配膳された。モモはスープのなかにあった。うまいとはいえなかった。

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8日目 2018年12月13日 ジャイガオン シリグリ ダージリン 

ダージリン行きのバス

 BHUTIA PLAZA前にバスは止まっていた。   

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 下の1枚は4日前(12月9日)に撮ったBHUTIA PLAZAである。昨日ダージリン行きバスチケットを買った場所である。

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 今朝気づいたことがある。建物の2階に(上の写真の左上)水色の看板があった。よく読むと[DAILY SERVICE GOVT. BUS/N.B.S.T.C]と書かれていた。その文字の下に「ジャイガオン→ダージリン7:00」「ジャイガオン→カリンポン7:30」と書かれていた。カリンポン行きのバスもここから出ている。

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 看板に記載されている「N.B.S.T.C」という表記は「NORTH BENGAL STATE TRANSPORT CORPOLATION」の略で間違いない。シリグリ駅の近くにあったテンジン・ノルゲイ中央バスターミナルTENZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINALで見つけた、あの「JOYGAON」行きのバスの運営会社である。「JOYGAON」が私の目的地であるジャイガオン(=「JAIGAON」)であるかどうかの判別がつかなかったけれど。

 看板には「TEA STALLでチケットを購入できる」とも書いてあったが、BHUTIA PLAZA のなかにTEA STALLのようなものはなかった。

 4日前にこの水色の看板を見つけていれば、もうちょっと楽にダージリン行きのチケットを手に入れることができただろう。

 ジャイガオンからダージリンまでのバス料金235ルピーである。ドライバーにダージリンに着く時間を尋ねた。

 NORTH BENGAL STATE TRANSPORT CORPOLATIONバス/ジャイガオン 7:00 → ダージリン 15:00頃

 バスは7:00ちょうどに発車した。やるじゃないか、と思ってはいけない。素晴らしいと思ったバスが最悪で、最悪だと思ったバスが予想外の健闘したケースは何度もある。


バスはまずシリグリに向かって走った

 バスはハシマラを過ぎた。

 8:15、ダンジョーラのバスターミナルに着いた。舗装されていない田舎のバスターミナルである。

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 車窓に、駅でないところに止まっている鉄道車両が見えた。列車は編成両数の長い長距離列車ではない。どうやら事故のようである。走行中のバスのなかからではよくわからなかったが、列車は線路上に止まっており、転覆した車両はない。現場は直線区間で、脱線は考えにくいが、一部の車両は短い橋梁上にあった。

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 仮に車両故障だけで列車が動かなくなった場合、重機が投入されることはない。ディーゼル機関車など列車を牽引できる車両が派遣されるだろう。列車の両端のどちら側にも救助用にやってきた機関車はなかった。

 重機が動いていたのは橋梁付近である。橋梁における保線に問題があり、脱線あるいはそれに相当する事故になったことが考えられる。

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 インドで鉄道事故は日常茶飯事である。多くの死傷者がでている。

 9:50、食事休憩のためバス停車。シリグリからジャイガオンに行くときに立ち寄ったのと同じ食堂である。シリグリから乗ったのはブータン・トランスポート・サービスのバスであるが、今日のバスはNORTH BENGAL STATE TRANSPORT CORPOLATIONのバスである。異なるバス会社が同一の食堂を利用しているということになる。30分ほどの休憩となった。

 11:20頃、シリグリの北にあるシリグリ・ジャンクションを過ぎた。バスはここまで順調に走っていた。


シリグリに入った

 バスはシリグリの街なかに入っていった。ダージリン行きのバスがシリグリに向けて走ることを予想していたが、シリグリを少しかすめたあと、すぐにダージリンに向かうと思っていた。だからジャイガオンでわざわざダージリン行きのバスを探したのである。

 11:40、バスはテンジン・ノルゲイ中央バスターミナルTWNZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINUSの北東側にあるバスの車庫に入った。ここでドライバーが交代した。20分ほど休憩になった。

 そのあとバスはシリグリを南北に走る幹線道路を南に向けて走りだした。5日前(12月8日)に歩いたところである。それはダージリンとは逆方向である。

 橋を渡って街の中心に入る手前でバスは反転し、北に向けて走り始めた。途中で反転する交差点がなかったということらしい。

 バスは、テンジン・ノルゲイ中央バスターミナルTWNZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINUSで止まった。まったく予想していなかった。5日前に来たところである。バスはここで客待ちをした。

 下の2枚は5日前に撮ったテンジン・ノルゲイ中央バスターミナル内での写真である。写真のなかに12:00発のダージリン行きはない。

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ようやくダージリンに向けて

 12:05、バスはダージリンに向けてスタートした。乗客は10人ほどである。

 シリグリを出てそれほど走っていないところに線路が現れた。ダージリン・ヒマラヤ鉄道の線路であるが、現在この区間を列車は走っていない。

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 バスは平地を走っていた。家屋があり、林があり、茶畑があった。雰囲気は軽井沢である。

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 40分ほど過ぎた頃からバスは山を上り始めた。
 
 ダージリンまで33㎞の表示があったところで、一度消えていた線路がまた出現した。

 バスはどんどん高度を上げていった。シリグリの平均標高は122mで、ダージリンは2,134mである。バスはくねくねと2,000mを駆け上がることになる。

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 クセオン、ソナーを通過した。道路の脇に露店の市場があり賑わっていた。楽しそうな小さな町を過ぎた。

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 前方にトイトレインらしきものが見えた。すぐにトイトレインを追い抜いてしまった。

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 バスはダージリンに入った。

 ダージリン・ヒマラヤ鉄道のダージリン駅で下ろしてもらった。


ダージリン・ヒマラヤ鉄道のチケットを購入した

 ダージリン駅のチケット売り場は開いていたが、明日のチケットが残っているかどうかわからない。

 窓口に6人が並んでいた。並んでいる人は購入用紙を持っていた。窓口で購入用紙をもらい、7人目として並んだ。

 マナーは改善されているようだが、インド人が列を守るかどうかわからない。2013年、チェンナイの近郊電車のチケット売り場で列は守られており、リシケーシュのバスのチケット売り場で人々は窓口を弧のように囲んでいた。

 明日10:00発の52594列車 JOYRIDE STEAMに決めた。チケットを手に入れたとき、残り3席だと言われた。

 ※ダージリン・ヒマラヤ鉄道については明日もう一度書くことになる。

 チケット売り場は17:00で閉まる。それ以上に列車の席の有無を心配していた。ジャイガオンでダージリン行きの直行バスを探した目的の1つは明日のダージリン・ヒマラヤ鉄道のチケットを入手するためである。
 

シッキム州のパーミットを取らなければならない

 ダージリンでやらなければならないことは他にもある。

 ホテル探しは後回しにして、外国人登録事務所FOREIGNER’S REGISTRATION OFFICEに向かった。

 シッキム州はインド北東部の州である。ネパールとブータンのあいだのヒマラヤ山脈の東に位置する。かってシッキム王国だったが、1975年にインドに併合された。人口は60万人を越える程度で、インド28州のうち最も少ない。

 シッキム州に入るためにはパーミット(入境許可証)が必要である。


外国人登録事務所FOREIGNER’S REGISTRATION OFFICEでシッキム州のパーミットの申請ができない

 ダージリン駅を出た。グーグルマップを起動させ、歩き始めたが、地図の画面表示は中途半端でほとんど役に立たない。海外SIMをスマートフォンに入れていないが、装着していても変わらない気がする。コピーしてきた「地球の歩き方」のダージリンの地図が頼りである。

 ダージリンは山の頂上部にある街で、坂が多い。しかもかなりきつい坂である。

 ダージリンの外国人登録事務所FOREIGNER’S REGISTRATION OFFICEに着いた。

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 シッキム州のパーミットがほしいことを伝えた。

 スタッフの目の前で申請書を書き始めた。記入項目のなかにダージリンでの滞在先を記入する欄があった。「地球の歩き方」のコピーを取り出し、適当なホテル名を書き写そうとしたときである。

 そのホテルを予約しているのですか?
 予約していません このあと行きます(←適当に選んだので、ダージリンのどこにあるホテルかは知らない)
 それではパーミットは発行できません 先にホテルを予約してください
 そんな!

 このあと口論が続いた。窓口にスタッフは2人いた。私と会話していないほうのスタッフは「許可してもいいのでは」ということを言ったようだったが、目の前のスタッフは譲らなかった。

 これ以上堅物と話しても事態は好転しない。

 外国人登録事務所を出た。すぐにホテルを探さなくてはならない。


ホテル探し

 外国人登録事務所周辺にホテルは3、4軒あった。

 安そうなホテルと高そうなホテルがあった。安そうなホテルはレセプションに誰もおらず、高そうなホテルの料金は本当に高かった。

 道路から入った奥にあるホテルディップパレスはまあまあ高いホテルだったが、2泊することにした。優先順位1位は安いホテルを探すことではなく、シッキム州のパーミット取得である。

 リュックを部屋に置いたあと、レセプションに立ち寄った。

 ホテルの領収書がほしい
 明日では駄目ですか?
 これから外国人登録事務所に行かないといけない ホテルの滞在証明が必要です

 オーナーがいっしょに行ってくれることになった。ありがたかった。


外国人登録事務所でシッキム州のパーミットの申請をした 

 ホテルディップパレスのオーナーといっしょに外国人登録事務所に入った。

 オーナーは自分のホテルに泊まっていることを伝えてくれた。

 記入した申請書に外国人登録事務所の印が押された。しかしそれはシッキム州のパーミットではない。

 
地方行政事務所OFFICE OF THE DISTRICT MAGISTRATEでシッキム州のパーミットを取得した

 外国人登録事務所を出た。オーナーに礼を言って、別れた。

 もう1ヶ所行かないといけない場所がある。

 白黒のわかりにくい(コピーした「地球の歩き方」の)地図を見ながら歩いた。

 ダージリンは地形に沿って道ができたのだろう。目的地に真っ直ぐ行く道はなかった。慣れていないと歩きにくい街である。

 地図を上下さかさまにしたり、斜めにしたりすることが面倒くさくなった。何度も人に尋ねながら歩いた。

 外国人登録事務所から1㎞ほど離れてたところにある地方行政事務所OFFICE OF THE DISTRICT MAGISTRATEに着いた。かなりわかりにくい場所だった。

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 手続きは簡単だった。外国人登録事務所で印を押してもらった申請書を提出するだけだった。シッキム州のパーミットを取得できた。

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 17:00ぎりぎりだった。

 シッキム観光のオフィシャル・サイト「Tourism and Civil Aviation Department」(Government of Sikkim)のなかに、[SIKKIM TOURIST INFORMATION CENTERS]が11ヶ所載っている。その11ヶ所のなかで、パーミットの申請と取得が別の場所になっているのはおそらくダージリンだけである。

 5日前(12月8日)、シリグリのシッキム・ツーリズムでパーミットを取れなかった。そのあとブータンに行く予定だったからである。パーミットを取得しても、インドを出国した時点で無効になってしまう。

 シッキム州の州都ガントクに行くつもりである。ガントクに行く途中にある州境の町ランポでパーミットを取れる、とシリグリのシッキム・ツーリズムのスタッフに言われたが、事前にパーミットを取得していない者がガントク行きのジープに乗せてもらえるかどうかわからない。

 シリグリでパーミットを取れなかった私の旅のルート上で、パーミットを取るのはダージリンしかなくなっていた。ジャイガオンでダージリンに直行するバス探しにこだわったのは早くダージリンに着きたかったからである。

 ダージリン到着後、下の3つを17:00までに完了させる必要があった。

 ① ダージリン・ヒマラヤ鉄道のチケット購入
 ② 外国人登録事務所でシッキム州のパーミット申請
 ③ 地方行政事務所でシッキム州のパーミット取得


ダージリンを歩いてみた

 地方行政事務所はヒル・カート・ロードの近くにあることがわかった。ヒル・カート・ロードはダージリンの幹線道路であるが、中央線がある片道1車線ではない。車がぎりぎりすれ違うことのできる狭さである。

 ヒル・カート・ロードを歩けばよかったが、歩いてきた道をもどろうとしたため、帰りのほうが迷った。

 迷ったおかげで、地図ではわからないダージリンの高低差が把握できた。

 チュウラースターという広場に出た。ダージリンの中心らしい。

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 チュウラースターから外国人登録事務所、ホテルディップパレスのほうに歩いた。

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 外国人登録事務所の前を通った。地方行政事務所からもどってきたことになる。

 またヒル・カート・ロードに出た。車がすれ違うことが容易ではない狭い幹線道路の歩道は、人がすれ違うことが容易ではないほど狭かった。

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 朝から何も食べていなかった。どこかで食事をするつもりでいたが、屋台の雰囲気とよい匂いに負けた。うまそうなハンバーガーを食べた。

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 バススタンド、乗合ジープスタンドに着いた。旅行会社がいくつかあった。ガントク行きとカリンポン行きのジープがこのスタンドから出ていることを確認した。

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 やるべきことをすべて終えた。あとは気楽なものである。明日また歩くことになるだろう。

 ヒル・カート・ロードからチュウラースターのほうに歩いた。

 HASTY TASTYというベジタリアンレストランに入った。北インドのタリを食べた。うまかった。

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ホテルディップパレス

 夕方から急に冷え込んだ。ダージリンの標高は2,134mである。

 ホテルディップパレスに暖房はなかった。ホテルに暖房施設がないことはダージリンでは一般的である。暖房がわずかに機能していたブータンの2つのホテルのほうが少しましだった。

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 シャワーのお湯は最初の2分間しか出なかった。給湯器内で熱くなっていた分だと思われる。

 昼間とほとんど同じ服装でベッドに入ることになった。

 見栄えが悪くないホテルディップパレスのwifiの電波はあまりに弱く、行き先の情報を検索することはほとんどできなかった。

7日目 2018年12月12日 パロ プンツォリン ジャイガオン

オラタンホテルをチェックアウト

 オラタンホテル本館のレストランで朝食を取った。

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 今日も快晴である。寒さは日本と同じくらい。

 オラタンホテルは山の中腹にあり、パロの街までは遠い。コテージ風の部屋で朝の時間を過ごした。

 9:00、本館でガイドと合流した。ブータン旅行ではチェックアウトさえもガイドがやってくれる。


国立博物館 パロ・ゾン ニャマイ・ザム

 車で向かったのは国立博物館である。博物館は山の中腹の風光明媚なところにあった。もともとはすぐ下のパロ・ゾンを守る望楼(タ・ゾン)である。

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 2013年の地震による崩落のため、博物館に入ることができなかった。向かいの建物で、祭りの仮面などが展示されていた。展示物は乏しかった。内部の撮影は禁止されていた。

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 国立博物館の外からはパロ・ゾンとパロ谷を眺めることができた。とてもよい風景。

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 国立博物館からパロ・ゾンまでのわずかな距離を車で移動した。

 パロ・ゾンはパロの市役所といっていい。正式名称はリンプン・ゾン・(宝石の山の城)である。回廊式の外壁が四方を囲んでいる。

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 15世紀にチベットから戻ってきた僧が建立したのが始まりといわれる。後にシャブドゥン・ンガワン・ナムゲルによって拡大された。現在の建物は20世紀初めの火事によって焼失したあとに再建されたものである。カトマンズ(ネパール)にあるボダナートと共に映画『リトル・ブッダ』のロケ地となった。

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 パロ・ゾンから下に続く坂を下りた。

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 伝統様式の橋ニャマイ・ザムを渡った。パロの人たちの生活の橋である。

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 橋の反対側で車が待っていた。パロを去る時間になった。


車でプンツォリンへ

 10:30、プンツォリンに向けて出発した。ここからはインドへの帰り道である。

 車はスピードを出さなかった。なぜそうしているのか途中で気が付いた。予定している食堂に12:00頃に着くようにスピード調節しているようである。ドライバーはそうしていることを私に伝えていたわけではなかった。

 ドライバーの運転はうまかった。道路状況を読み、メリハリのある運転をしていた。

 プンツォリンからティエンプーに向かうときに立ち寄った食堂で昼ご飯。朝ご飯をたっぷり食べたので、昼ご飯を抜いてもいいくらいだが、モモだけを食べた。

 食堂を出て少し走ったところからは一方的な下り坂に入った。つづら折りの道なので体は左右に揺さぶられた。

 途中、スピードの遅い車が何台も前を走っていたため、思ったほどのスピードを出せなかった。

 それでも14:30頃、プンツォリンの街に入った。

 ブータン・イミグレーションで出国手続きを終えた。

 インド・イミグレーションまで行ってくれるらしい。

 車はブータン門を抜けジャイガオンに入った。12月10日の9:00にブータン国境を越えてから59時間ぶりにインドにもどってきた。

 インドに足を踏み入れたが、まだインドに入国したわけではない。


ガイド、ドライバーと別れた ガイドのチップについて 

 車はジャイガオンの街を少し走り、インド・イミグレーションの前に着いた。

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 12月9日に来たとき、インド・イミグレーションに休憩時間をあることを知った。しかしここはインドである。間違って開いている可能性があるかもしれないとも期待したが、こちらの都合通りにはならなかった。

 インド・イミグレーションは閉まっていた。スタッフが食事に行っているらしい。スタッフは1人しかいない。「1時間後に来てくれ」と警備員が言った。

 ガイドはジャイガオンのホテルを予約していない私を心配してくれたが、「ここでいい」と伝えた。ガイドとドライバーは遠いティンプーまで帰らなければならない。インド入国は私の仕事である。

 チップを渡した。そのための封筒を日本から持ってきていた。

 ガイドとドライバーの2人分を1枚の封筒に入れ「2人で分けてほしい」と伝えた。おそらくガイド2、ドライバー1の割合で分けられるはずである。その場で物理的に分けることができるようにUSドル紙幣を入れておいた。

 チップを渡す必要がない、という見解がある。それを裏付けるものが、ブータン政府のHPに記載されている「ブータンにチップの慣習はない」という文言である。

 一方、Mトラベルからもらった「旅のしおり」には「ガイド及びドライバーにチップをお渡し頂ければ幸いです」の一文があった。

 ブータン旅行でガイドにお世話になった日本人が、欧米人のようにチップを渡し始めたのが慣習化した。

 チップは常態化している。悪しき慣習だと思うが、チップを渡す渡さないは個人の自由である。そう考える理由は、欧米の一部の職業とは異なり、チップがガイドとドライバーの主収入ではないからである。彼らは公定費用から正当な給与を受け取っている。チップはあくまで副産物としての収入(=副収入)であることを理解しておけばいい。

 3日間いっしょにいたガイドはフレンドリーであり、気を使ってくれた。堅苦しくなく、気楽さを感じさせる人だった。一方、ドライバーは寡黙なプロフェッショナルだった。

 マイナスポイントがあったことにも触れておきたい。最初に会ったとき、ガイドはインド・イミグレーションにつきあうと言い12日7:00の待ち合わせ時間を自分で決めたにもかかわらず、1時間30分遅れてやってきた。もともとインド出国は私がやるべきことで、実際そうしたので問題はないが、これはガイドの怠慢である。ここまでの旅日記には書いていないが、車の後部座席で何度か居眠りをしていた。また一部の施設での説明は雑で、ツアーの場合はクレームになっているレベルだった。

 現状ではブータン旅行にチップは必要だと考えておいたほうがよい。上のような具体的な点を考慮し、チップを渡す渡さない、渡す場合はその額をどの程度にするかを各自で決めるしかない。

 最後の最後まで気を使うのがブータン旅行である。


デヴィホテルにチェックイン

 インド・イミグレーションが開くのは16:00である。それまで1時間近くある。

 インド・イミグレーションの近くにあったデヴィホテルに入ってみた。部屋は空いていた。レセプションのスタッフはパスポートの、4日前(12月8日)の入国スタンプを見ていた。その隣には翌々日(12月10日)の出国スタンプが押されている。スタッフはブータン入出国のスタンプに気が付いた(出国日は今日である)。そしてパスポートのIDのページとインド、ブータンそれぞれの出入国のスタンプのページをコピーした。

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 インドへの再入国のスタンプがないことについては問われなかった。

 パスポートの確認に厳格なインドのホテルで、入国していない私はいとも簡単にチェックインできた。

 甘いぞインド!

 1泊500ルピー(約783円)はこの旅の最安値ホテルとなった。

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ダージリン行きのバスチケットを買った

 インド・イミグレーションの開く時間までまだ30分ほど残っている。ダージリン行きのバスチケットを買うためにBHUTIA PLAZAのほうに歩いた。

 デヴィホテルから3分ほどの場所にBHUTIA PLAZAがある。3日前(12月9日)に見つけていた場所である。BHUTIA=ブティヤ人は、シッキム州に住むチベット系民族である。ダージリンは西ベンガル州にあるが、シッキム州に近い。

 下の2枚は3日前(12月9日)に撮ったBHUTIA PLAZAである。

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 小さな建物であるBHUTIA PLAZAのなかの、奥に続く通路でダージリン行きのバスチケットを販売している人はいなかった。

 建物の外にいた物売りの少年が挨拶をしてきた。私を覚えていてくれていた。3日前に、BHUTIA PLAZA内の通路でダージリン行きのバスチケットを販売する人がいることを教えてくれた少年である。

 少年は通路の奥に入り誰かに声を掛けた。しばらくして人が出てきた。

 その人は鞄のなかからダージリン行きのチケットの束を取り出した。235ルピー。パスポートを要求された。その場にコピー機はなく、その人は私の名前やパスポート番号などを書きとった。インドの入出の記録を見たが、それ以上のことを私に確認しなかった。

 ゆるいぞインド!


インド入国完了

 インドに入って1時間ほど経った。入国手続きを済ませていないのに、デヴィホテルにチェックインして、ダージリン行きのチケットを購入した。このままデリーやムンバイまで行けるのではないか。

 中国・パキスタン国境のスストで似たようなことがあった。中国を出国してきた私を待っていたのはパキスタン・イミグレーションの「入国スタッフの不在」だった。中・パ国境はゆるいというレベルではなかった。真に「ざる」だった。やることもないので狭いスストの町を少しぶらぶらした、パキスタンの入国スタンプがない状態で。歩いている自分が怖かった。

 16:00前、インド・イミグレーションに着いた。名前やパスポート番号などを記入し、入館した。

 日本人が10人ほど並んでいた。クラブツーリズムのツアーの旅行者たちだった。そのうちの2、3人と少し話した。日本人ガイドは私が彼らと話すことをよしとしていないようだった。冷たい視線を送ってきた。

 彼らはダージリンからやってきたようで、インド出国後プンツォリンのホテルに泊まるようである。ツアーに同行してきたインド人ガイドの役目はジャイガオンで終わり、これから住んでいるダージリンに帰るという。乗せていってやると言ってくれたが、今夜宿泊するホテルを決め、ダージリンまでのバスチケットを手に入れたばかりだったので遠慮した。

 このインド人ガイドはジャイガオンからダージリン行きのバスが出ていることを知らなかった。

 クラブツーリズムの10人ほどの出国手続きに30分ほどかかった。

 私のインドe-visaはダブルエントリービザになっている。2018年12月時点で、有効期間は入国日から60日間で2回の入出国が可能である。

 ※2019年5月時点で、e-visaの有効期間は入国日から365日間に、入国可能回数は無制限(180日以内の出国義務あり)に変更されている。

 ようやくインド再入国が完了した。


ジャイガオンを歩いた

 ジャイガオンは小さな街である。街の中心部は3日前(12月9日)に歩いた。ジャイガオンでやりたいことはないが、ぶらぶら歩いてみた。

 夕日を浴びた、おそらくもう来ることのない街は少し寂しかった。

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 3日前に入った「SWEETS PALACE」という食堂兼菓子店に入った。そもそもジャイガオンに食堂は少なく、他の店が満席だったからである。ヌードルとモモを食べた。

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6日目 2018年12月11日 ティンプー パロ

ホテルで朝ご飯

 7:00過ぎ、ホテルのレストランで朝ご飯。

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 ホテル・プンツォ・ペルリをチェックアウトした。


タクツァン僧院には行かないことを決めていた

 ブータン2泊3日の旅の場合、普通はティンプーとパロだけを周る。飛行機はパロ空港を着発するので移動は多くない。

 私の場合はプンツォリンから片道6時間かけてティンプーに来ている(帰りはおそらく5時間くらい)ので、他の2泊3日の旅行者より時間の余裕はない。

 Mトラベルは可能だと言ったが、往復で6時間かかるタクツァン僧院へのトレッキングをルートから外すことにした。

 タクツァン僧院はパロの郊外にある。すべての旅行会社はこの僧院をブータン観光の目玉にしている。特徴は僧院が崖にへばりついていることだが、写真で見た限り、大した見どころとは思えなかった。

 崖にへばりついている写真だけで判断すると、崖観音=船形山大福寺(千葉県館山市)とまあまあの勝負になる(崖観音は海岸線から離れていないが、タクツァン僧院は標高3,000mほどのところにある)。山登りが伴う点において山寺(山形市)っぽい。しかしメテオラ(ギリシャ)のほうがはるかに奇抜であり、ラダック(インド)のゴンパに大きく劣る。

 トレッキングの果てに辿り着く価値のあるところではない、という理由をひねり出し、タクツァン僧院をルートから外すことにした。行かない理由を見つけたかっただけなのだけれど。

 タクツァン僧院をルートから外すこと以外はMトラベルの提案に従った。


メモリアル・チョルテン

 9:00、ホテル・プンツォ・ペルリのロビーでガイドと待ち合わせていた。

 今日も快晴である。車が最初に向かったのは、ティンプーの南西方向にあるメモリアル・チョルテンである。5分で着いた。歩いても行ける距離である。

 チョルテンとは仏塔のことである。

 Mトラベルからは「旅のしおり 現地発着 幸せの国 ブータン3日間の旅」をもらっていた。メモリアル・チョルテンには「1972年に亡くなった3代国王のメモリーとして1974年に建てられました」と載っていた。

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 驚いたのは地元の人が多かったということだ。みんなマニ車を回していた。ガイドも私も時計回りにどんどん回した。マニ車を回すとお経を読んだことになる。

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チャンガンカ・ラカン

 ドゥク派の教えを広める為にこの地に来たラマ・パジョ・ドゥク・シンポによって15世紀に建てられた。「ドムツァ」と呼ばれるティンプーを守る神様の像が置かれていた。子どもの成長に霊験があると信じられており、ティンプーの人たちは子どもが生まれたらここに連れて来てお祈りを捧げる。

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 ティンプーを見下ろす展望台のような前庭があった。

 内装や壁画は古色蒼然としていた。ブータンで宗教施設内の写真撮影は禁止されている。


国獣ラーキン放牧場

 ラーキンという動物を見にいった。ウシ科の動物である。珍獣だそうである。

 ティンプーの西はゆるやかな傾斜地になっており、放牧地はそのなかにあった。管理人はいるのだろうが、ガイドは勝手に柵を開け、なかに入った。

 柵の外から見ている私たちのところにラーキンはなかなか近づいてこなかった。放牧場には似たような動物(ウシ)もおり、遠目からでは区別がつかなかった。「あれは違う、その右にいるのがラーキン」というガイドの言葉がなければまったくわからなかった。

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ドゥプトプ尼僧院

 国獣ラーキン放牧場から近く、タシチョ・ゾンが見える高台にドゥプトプ尼僧院がある。1981年に創建された新しい寺院である。15世紀に鉄の吊り橋をつくったタントン・ギャンポが本尊である。ドゥプトプはタントン・ギャンポの別名で、地元ではジルカと呼ばれている。ジルカは地名である。

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 この日数人の尼僧がいた。読経を唱えている尼僧もいたが、子供の相手をしている尼僧もいた。厳格さを感じなかった。シェルターのようにも感じた。尼僧が珍しいブータンで、出家するには勇気がいるだろう。

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織物博物館

 想定外の近代的な建物だった。

 ティンプーの建築物は法令によって伝統的なデザインを取り入れているが、本格的な伝統様式と呼ばれる建物は少なくなってきている。

 織物博物館は本当の意味での伝統様式で建てられたものだったが、2013年にロイヤル・テキスタイル・アカデミーが開校し、その敷地内に博物館が移転した。だから近代的な建物なのである。

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 昨日街を歩いたとき、布屋があった。ブータンでは男性はゴ、女性はキラを着て生活している。なぜみんながそうしているかというと、民族衣装の着用が義務付けられているからである。旅行者から見れば楽しいが、「幸せの国」の住民にはそのような制約がある。顔を隠す、イスラム世界のブルカとは少し次元が異なるが、日常の服装の自由化は、警察官など職業上で課される制服とは別の問題である。米国への留学生が増えているなか、規制には限界はあるだろう。

 ガイドもドライバーもゴを着用している。ゴを着用しているガイドKさんは革靴を履いており、アンバランスな感じは否めない。

 ブータンの建築から受ける色彩イメージはゴやキラを見て感じる印象となぜか一致する。

 織物博物館にはブータンの地方ごとのゴやキラが展示されていた。地方によって特徴があるようである。昔の織機の展示もあった。

 土産物として民族衣装や小物などが売られていたが、関心はない。むしろ海外で衣服を買いたくない。ギリシャの島やバリ島で買ったTシャツは数回の洗濯で首回りがだらっとなってしまい、ミャンマーで買ったロンジーは10回洗ってもなお色落ちした。日暮里繊維街でロンジー用としての布を買うミャンマー人は正しい選択をしている。


チャンリミタンアーチェリー場

 弓道はブータンの国技である。「弓道体験」という言葉がMトラベルの「旅のしおり」に書かれていたが、体験はできなかった。

 男たちがアーチェリーの試合をやっているのを見ることはできた。ユニフォームは普段着のゴである(と思う)。

 数人がチームとなり両サイドに分かれる。弓を引き、相手側に置かれた的に当てる競技が行われていた。的はかなり遠いところに置かれている。よくあれだけの飛距離が出るものだと思いながら見ていた。反対側から矢が飛んでくるので競技をやっているほうも気を抜けない。

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 気を抜けないのは観客席も同じである。弓が折れ、あらぬ方向に矢が飛ぶことはあるだろう。

 ガイドによると、相手側から放たれた矢が的を外すと「ちゃんと狙えよ」などとからかったりするのだそうである。

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昼ご飯

 昨日の昼ご飯で「ライスがうまくなかった」と遠慮がちに書き、夜ご飯で「ライスはまずかった」とストレートに書いた。

 今日の朝食はホテルで食べたが、昼ご飯は「ライスがまずかった」。もう街なかの食堂に行きたくない。

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ティンプーからパロ方面に

 車はプンツォリン・ティンプー・ハイウェイ上にある。昨日プンツォリンから走って来た道を逆に走っている。

 チュゾムにある門を抜けパロ・シンプー・ハイウェイに入った。車は山と山の間を走っていた。

 パロが近づいてきたところで視界が開けた。パロ谷を流れる川の水量が増えた。

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 パロ空港の手前でハに抜ける道に入った。ハまでの直線距離は20㎞ほどであるが、グーグルマップでみる道路は激しいつづら折りが続いている。

 棚田があった。

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 ブータンに行くことを決めたとき、最初に考えたルートは、[プンツォリン → ハ(宿泊) → パロ → ティンプー(宿泊) → プンツォリン]である。それをMトラベルに伝えると、「ハに行くには時間がかかる」「ハには何もない」という返答があった。

 グーグルマップを見て、ハに行くには確かに時間がかかるということを納得した。しかしハにはハ・ゾン、ブータンで一番古い学校、感じのいいHotel Lhayulがある。


西岡チョルテン

 西岡京治は海外技術協力事業団に所属して活動した農業指導者であり植物学者であった。日本ではあまり知られていないが、ブータンを旅した人なら誰でも知っている。

 最初ブータン政府が提供したものは200㎡の土地と少年実習生3人だけだった。

 稲の「並木植え」(縦と横を一定間隔で苗を植える)を指導し、稲の増産を実現した。

 シュムガン県の開発プロジェクトの責任者として開いた水田は60haに及んだ。

 西岡京治を扱ったテレビ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』(TBS)を観たことがあった。橋のつけ替えなどのシーンがあったことを覚えている。

 28年間ブータンで農業指導に携わり、「ブータン農業の父」と呼ばれた。日本の国際協力の事業モデルにもなった。ブータン国王から「最高に優れた人」を意味する「ダショー」の称号を贈られ、ダショー・ニシオカと呼ばれるようになった。

 妻と子供の到着を待って、ダショー・ニシオカの葬儀は行われた。パロ盆地が見渡せる丘の葬儀場で、遺体は荼毘にふされた。ブータン全土から5,000人が弔問に集まった。

 NATIONAL SEED CENTREのそばに西岡チョルテンがひっそりとあった。チョルテンとは仏塔のことである。台座にはゾンカ語(ブータン語)、日本語、英語で次のように書かれている。

 ブータン王国の人々のために、二十八年間(1964~1992)に渡り尽力された故西岡京治氏の遺徳を偲び、その功績を称え、ここに記す。

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パロ空港

 ちょっと前にガイドKさんに、彼の上司である会社の社長から電話が入っていた。(私に)社長に会ってほしいと言われた。

 車が西岡チョルテンを出て少し走ったところで、下のほうから車が上ってきた。

 渡された名刺にMトラベルの文字はなかった。WさんはBHUTAN LHOMEN ADVENTUREという会社のCEOである。

 「今回のツアーで不都合なことはないか」と尋ねられた。「まったくない」と答えた。「またブータンに来てほしい」と言われ、財布の土産をもらった。

 山道の途中での、5分ほどの短い会話だった。CEOと別れたあと、「CEOはいつもこういうふうにしているのか?」とKさんに尋ねてみた。

 いつもやっているらしい。この営業方法が功を奏しているのかどうかはわからないが、企業としての姿勢は伝わってきた。

 ロイヤルブータン航空の拠点であるパロ空港は首都ティンプーの西にある。パロの街からは6㎞ほど南にある。

 パロ空港の見えるところで車を止めてもらった。パロ空港から旅を始める人は最初にここに来るらしい。

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 パロ・ゾンが見えた。ゾンとは寺院と行政施設を兼ねた城砦(建物)である。明日行くことになる。

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キチュ・ラカン

 パロの市街を通り抜けた。キチュ・ラカンは北側の山の麓にあった。ラカンとは寺院のことである。

 キチュ・ラカンはパロにあるブータン最古の寺院である。ブータンの寺はけっこうカラフルなのだが、地味に見えるのは色が抑え込まれているからである。

 チベットを統一したソンツェン・ガンポ王が7世紀に建てたものである。ブータンでは圧倒的に古い寺である。

 王はチベット全域に大きな力を持っていたポン教を仏教に変えるため、ポン教の神を悪霊とした。その体の108のツボにあたる場所に寺院を建立したとされ(←嫌がらせ行為のようである)、キチュ・ラカンは左足にあたるといわれている。

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 中庭にはみかんの木が植えられている。

 ここまで書いてこなかったが、ガイドはほとんどの場所でお布施をしていた。Kさんは信心深い人である。私は彼をまねて2ヶ所ほどでお布施をした。


パロの街を歩いた

 ブータン式石風呂「ドツォ」の体験がコースに入っていたが、キャンセルしたい旨を少し前にガイドに伝えていた。その分、パロを歩く時間を延ばしたかった。

 パロの中心部で下ろしてもらった。待ち合わせ場所と時間を決め、ガイドと別れた。
 
 2本のメインの通りに土産物屋が並ぶのがパロである。そのうちの1本は幹線道路である。パロの北側にはパロ・チェ(川)が流れている。

 元々は幹線道路の両脇に並んだ商店街に過ぎなかったが、2000年代に入ってから発展したらしい。

 街は1,500m×300mほどの大きさしかなく、店やレストランはその半分ほどのなかにある。同じところを3回歩いても時間が余った。

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 広場があり露店の市場があった。

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 古い店もあった。

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 置かれている土産物はどの店も似ていた。雑貨系のお洒落な土産もあった。ブータンはパロをお洒落な小都市にしたいのだろう。

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 お洒落なカフェは2、3軒あった。店ではドルが使える。カフェに入るかどうか迷った。暇を持て余した街歩きだったが、カフェで落ち着くには時間が少し足りなかった。

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 結局、待ち合わせ時間の20分前に車にもどった。車のなかにいたのはドライバーだけだった。ガイドは近くの建物にいるという。ガイドと合流し、その建物の上の階にあるカフェに入った。コーヒーをおごってもらった。

 「ガイドはよい(儲かる)仕事なのだろう?」という私の質問に、Kさんは「それほどでもない」と答えたが、悪い仕事ではなさそうである。米国人を案内することが一番多いらしい。


オラタン・ホテルにチェックイン 夜ご飯はホテルのレストランで

 パロ市内から離れているオラタン・ホテルにチェックインした。四代国王の戴冠式にあたり各地の高官を招待するために建設されたホテルである。広い敷地内にあるコテージに泊まった。

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 ホテルで夜ご飯。下の写真はバイキングではない。3食(昨日の昼ご飯、夜ご飯、今日の昼ご飯)ともうまいとはいえない食事だったが、それを一気に取り戻すボリュームとうまさだった。

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 昨日のホテル・プンツォ・ペルリと同じように、オラタン・ホテルも普段私が泊まることのない格式あるホテルである。しかし昨日に続き、ホテルの部屋は寒かった。暖房はあったが、効きは破壊的に悪く、部屋が温まることはなかった。最初だけシャワーから湯が出たが、途中から水になった。これも昨日と同じである。

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 部屋のなかで重ね着したうえにダウンジャケットを身に付けた。ダウンジャケットを着たままベッドに入った。

5日目-2 2018年12月10日 ジャイガオン プンツォリン ティンプー 

 前回【5日目-1 2018年12月10日 ジャイガオン プンツォリン ティンプー】の続きです。

ブータンの旅が始まった

 ブータン門を通過しなかった。別のところにある車両専用のポイントからプンツォリン(ブータン)に入った。車での入国はフリーパスである。

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 車はプンツォリンの街なかを少し走った。ブータン門から遠くないブータン・イミグレーションで下車した。

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 ブータンビザを提示し、指紋を採取され、写真を撮られ、入国手続きを終えた。そしてブータンの旅が始まった。

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プンツォリン

 ブータン第2の都市プンツォリンの人口は20,537人(2005年)である。プンツォリンに最初の一戸建ての店舗が建設されたのは1958年らしい。現在ブータンの輸出の73%、輸入の83%がプンツォリンの国境を経由して行われているが、ダージリンと組み合わせた西遊旅行などのツアーを除いて日本の観光客がこの街に来ることはほとんどない。

 20㎞南にあるハシマラ駅からプンツォリンまで鉄道を引く計画がある。路線の99.9%はインド側である。

 車は少しの間プンツォリンの街なかを走った。街はきれいで欧州の小都市のようである。汚かったジャイガオンとは対照的である。


プンツォリンから首都ティンプーへの山道ドライブ

 プンツォリンを出た車は徐々に高度を上げたのではなかった。ぐんぐん山道を上った。

 途中チェックポイントが1ヶ所あった。ガイド(Kさん)は書類を持って建物のなかに入っていった。面倒くさいことはすべてガイドがやってくれる。

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 私は車に乗っているだけである。写真を撮りたい場所があれば、止めてほしいとだけ言えばいい。

 「途中、見どころはない」とガイドは言ったが、景色は素晴らしかった。天気も申し分なかった。

 眼下にぼんやりとプンツォリンが見えた。プンツォリンの南はジャイガオン(インド)だが、上からの区別はつかない。近くを流れているのはトーシャ川である。シリグリから乗ったバスがハシマラに入るときに渡った川である。

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 日本の標高差は海抜0mと富士山3,776mとの3,776mである。海のないブータンの最低標高は100mで、北部にあるガンカー・プンスム山7,561mとの標高差は7,461mである。

 走っているのはブータンの幹線道路であるプンツォリン・ティンプー・ハイウェイである。途中一部の区間で工事をやっていたが、道路はよく整備されていた。山道は曲がりくねっているので左右に振さぶられるが、ドライブは快適だった。

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 チュカという町(集落)で食堂に入った。警察官が10人ほど食事をしていた。食堂は2つに分かれており、道路側がブータン人専用で、見晴らしのよい奥の部屋は観光客向けのようである。

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 奥の部屋には歴代の国王の写真が貼られていた。現国王の写真もあった。

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 牛肉入りのカレーを食べた。予想したほど辛くはなかった。ライスがうまくなかった。食費は公定料金のなかに含まれている。

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 奥の部屋からは小さなダムが見えた。

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 チャプチャを過ぎた。

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 ティンプーまで42㎞の表示があった。そのあと丘の上にドブジ・ゾンDobji Dzongが見えた。ゾンの、最初のモデルらしい。ゾンとは寺院と行政施設を兼ねた城砦(建物)である。

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 門が見えてきた。チュゾムである。門の手前を左(西)に進めばワングチュー(川)を渡り、パロに向かう。門を抜け真っ直ぐ東北方向に走れば首都ティンプーである。チュゾムはティンプー、パロ、チュカの3県が交わる県境である。ブータンには20の県がある。

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 明日はここを経由してパロに向かうことになるが、今日、車はティンプーに向かう。

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 “WELCOME TO THIMPHU CITY”の門があった。「ここからティンプーです」とガイド。市内まであと10㎞ほどである。

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 しばらく走るとプンツォリン・ティンプー・ハイウェイ沿いの建物の数が増えてきた。

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 徐々に街が現れ始めた。フォード、タタ・モーターズなどの販売会社を見かけた。

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 車はティンプーの街なかに入っていった。

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ホテル・プンツォ・ペルリにチェックイン

 ホテル・プンツォ・ペルリにチェックインした。ブータンで日本人が宿泊するホテルは三ツ星クラスということになっている。ホテルの正面玄関の階段を上ると広い吹き抜けのロビーがある。観光客がいないせいかいつもそうなのかわからないが照明が暗い。

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 荷物を部屋に置いたあと、ロビーでこれからの予定をガイドと話した。話が一部で噛み合わなかった。ガイドが持っていた用紙を見せてもらった。Mトラベルが私に送ってきた「しおり」では今日行くことになっている場所が、ガイドの手元にある予定では明日になっていた。車がティンプーに入ったとき、予定していた見どころに行かずにホテル・プンツォ・ペルリに向かったことを不思議に思っていた。

 プンツォリンから車で6時間かけて来なければならなかった私は、時間のかかる見どころを1ヶ所削ることをMトラベルに伝えていた。時間的余裕を作っていたので多少の変更は吸収できるはずである。「予定は調整できるので大丈夫です」とガイドは言った。

 「1人で街を歩きたい」とガイドに伝えていた。ホテルでガイドと別れた。北朝鮮旅行とは異なり、ガイドが一日中張り付くことはない。「ここから先は1人で周りたい」と伝えれば、そうすることはできる。


1人でティンプーを歩いた

 とりあえず街なかを1人で歩いてみる。ホテル・プンツォ・ペルリはノルジン・ラムというティンプーのメインストリートの裏側(西側)に位置していた。

 裏路地を抜けノルジン・ラムに出た。そこがホンコンストリートだということをホテルにもどるときに知った。

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 ノルジン・ラムを南に歩いた。

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 道路の真ん中で警察官が交通整理をやっていた。ティンプーに信号はない。ブータン全土にもない。ここはティンプーの見どころの1つである。外国人が渋谷のスクランブル交差点を写すように、旅行者はここで写真を撮るのだろう。それを知っている警察官は撮影者に一切目を合わせてこない。

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 日本でも信号のないところはある。式根島(東京都)、伊是名島(沖縄県)など人口の少ない離島でも小中学校前に教育目的の信号と横断歩道を設置するが、島留学を促進している知夫里島(島根県)にはない。

 少し南にあったのは時計塔である。この一角がオフィスや高級商店があるティンプーの一等地である。

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 時計塔広場の東には裏通りの雰囲気があった。ノルジン・ラムの1本東側にあるチャン・ラム沿いにチャンリミタン競技場があった。なかを覗くことはできなかったが、現・ワンチョク国王の戴冠式はここで行われた。

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 チャン・ラムを北に歩いた。

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 レストラン、食堂はあったが、少し歩くだけで街の雰囲気は失せ、田舎の感じが強くなった。首都は小さい。

 サンドペルリ・ラカンがあった。ラカンは「寺」である。外国人の立ち入り制限があったときも自由に拝観できたので観光ポイントとなったらしいが、観光用という雰囲気ではなかった。誰もいなかった。

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 サブリ・バザール(王制百周年記念市場)があった。2階建ての市場の、開いている店は多くなかった。まもなく夕方で市場が賑わう時間帯でないこともあり、客はおらず店員たちが雑談をしているだけだった。商品はわりと残っていた。野菜は新鮮味を失っていた。

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 サブリ・バザールの東を南北にティンプー川が流れている。伝統様式橋を渡ってみた。ティンプー川の東側は山が迫っており、民家はほとんどなかった。

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 街にもどった。

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 市バス乗り場に出た。日本を出る前、ネットで検索を繰り返し、米国のサイトからブータンの「PUBLIC TRANSPORT SCHEDULE」に辿り着いた。ブータンの全バス路線が網羅されていた。本数を数えてみた。ブータン西部で99本、南部で126本、東部36本の運行本数があった。区間、出発時刻が網羅されていた。貴重な旅の資料となるはずだが、日本人が利用する機会はない。

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 ブータンの国土は狭い。九州の1.1倍の広さに福井県ほどの人しか住んでいないのだから、どこに行っても田舎である。そんな田舎をバスで旅してみたいが、旅行者にはガイド付きの車が手配されてしまう。それを逃れる術はない。バスでどこかに行ったという旅行記は1件もない。バスでどこかに行くという発想も機会もブータンでは奪われてしまう。

 市バス乗り場の北側にある中央郵便局に入ってみた。観光客に人気があるのは、写真を撮ってオリジナル切手にすることができるからである。土産としてブータン切手を買うこともできるし、十分観光的である。投書箱があった。

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 ノルジン・ラムにもどった。

 適当に街を歩いた。

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 さっきホテルからノルジン・ラムに出るときに歩いたホンコンストリートをもう一度歩いてみた。路地に八百屋、ベーカリー、雑貨店などがあった。

 シリグリにはホンコンマーケットがあった。

 「なぜホンコンなのか」には諸説あるらしいが、海外の物資が手に入らなかった時代、ブータン人が好む商品をホンコンに買いに行ったらしい。それらは高級舶来品の代名詞だった。ホンコンで買い付けてきた商品は大いに売れたのだろう。だからホンコンの地名が残ったのだろう。

 ホンコンストリートでまともに写真を撮っていなかった。


ガイドとタシチョ・ゾンへ

 16:00にホテル・プンツォ・ペルリでガイドと待ち合わせていた。

 5分ほど車に乗って、ティンプーの北のほうにあるタシチョ・ゾンに着いた。ガイドといっしょでないとゾンには入れない。

 ゾンとは寺院と行政施設を兼ねた城砦(建物)である。一般にチベット文化圏で見られ、多くは見晴らしのよい場所にある。タシチョ・ゾンもティンプー中心部から離れた静かな場所にあった。

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 ソンに入れるのは16:00からである。この日は16:30となっていたようで、先に庁舎を見て回った。下の写真は農務省である。平屋建てだったので最初、官舎かと思ったくらいである。ブータン政府には保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。

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 肌を露出している服装ではゾンには入れない。

 タシチョ・ゾンは壮大な伝統的建築物である。なかには国王の執務室がある。ブータン仏教の総本山でもある。政教ともにブータンの中枢といっていい。ゾンのなかの撮影は禁止されている。

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 タシチョ・ゾンは何度も地震や火災にあっており、現在のものは1996年に改修された。ガイドによると「バターのお供え物に火が付くと火事になる」そうである。

 マニ車にはお経が書かれている。マニ車を回すとお経を読んだことになる。ガイドは適当に回したり回さなかったりしていた。私もそうした。

 国旗を降ろすところを見ることができた。僧侶が警察官を先導していた。

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ガイド、ドライバーと食堂で

 ホテルのレストランで食事をすることはできるのだが、民族料理を食べ行きたいとガイドに伝えていた。食事の席にガイドが同伴することはないらしいが、ガイドとドライバーといっしょに行くことにした。

 民族料理店ではなく普通の食堂に入った。正確に書くと、食堂、飲み屋、酒屋を兼ねた店だった。メニューはガイドにまかせた。単品料理を注文してもらいそれを分けた。

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 牛肉、豚肉、ライス、きのこ、トウガラシ、ミルク、スープ(カレー味)、他。どのブータン料理にもトウガラシが使われており、全体としてとても辛い。私だけがドゥック11000(ブータンビール)を飲んだ。アルコール度数は8%。ブータンビールは数種類あるらしい。ガイドもドライバーもウイスキーを飲んでいた(2人はビールが飲めない)。

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 2人はライスを、私の2~3倍は食べた。糖質制限ダイエットのブームもあり、日本人が米を食べなくなっていることを実感した。ライスはまずかった。


寒すぎるホテル・プンツォ・ペルリ

 ティンプーの、12月の最高気温は14.5℃、最低気温は-1.1℃である。最低気温は低いが、昼間は日本より少し暖かいくらいである。標高2,334mのティンプーの気温を寒いとは感じなかった。

 しかし夜になったこともあり、ホテルの部屋が寒かった。ホテル・プンツォ・ペルリは、普段私が泊まることのない格式あるホテルである。暖房は付いていたが、暖房の効きは破壊的に悪かった。部屋が温まることはなかった。暖房から30㎝離れたところで放射熱を感じなかった。

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 部屋のなかで重ね着したうえにダウンジャケットを身に付け、暖房の近くで旅日記を書いた。

 ダウンジャケットを着たままベッドに入った。

5日目-1 2018年12月10日 ジャイガオン プンツォリン ティンプー

待ち合わせ時間にガイドは来なかった イミグレーションでインド出国

 7:00、レセプション前は真っ暗だった。スタッフ2人はレセプション前で寝ていた。海外の早朝のホテルでよくあることである。

 ホテル入口のドアは施錠されていたので、スタッフを起こし、開けてもらった。外には誰もいなかった。少しの間、外にいたが、ガイド(Kさん)が来る気配はない。

 20分待っても来ない。1人でインド・イミグレーションに向かった。ホワイトハウスホテルからは徒歩5分の場所にある。

 この日の1番目の訪問者は私だった。昨日と同じように入館記録に名前などを書き、インド・イミグレーションに入った。昨日と同じスタッフが出迎えてくれた。

 ブータンビザのコピーの提出を要求された。この時間に開いているコピー店はない。昨日コピーしておいてよかった。

 7:50にホワイトハウスホテルにもどった。ガイドは来ていなかった。ホテルに電話は入っていないようだ。部屋にもどった。ガイドが来れば、部屋の電話が鳴るだろう。いっしょにイミグレーションに行くと言ったのも、その待ち合わせ時間を7:00に指定したのも私ではない。気を使っているのは私である。やれやれ。

 日本出発の前に決めていた待ち合わせ時間である8:45を過ぎてもガイドが来なかったらどうする、という心配さえ出てきた8:30過ぎに部屋の電話が鳴った。


そしてブータンの旅が始まった

 遅れたことを申し訳ないという雰囲気をガイドは漂わせていた。

 インドの出国手続きを終えていることをガイドに伝えた。すぐに出発することになった。

 ホワイトハウスホテルをチェックアウトした。ホテルの前には車が止めてあった。

 ドライバーを紹介された。今日から3日間、この2人といっしょにいることになる。

 ブータン門を通過しなかった。別のところにある車両専用のポイントからプンツォリン(ブータン)に入った。車での入国はフリーパスである。

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 車はプンツォリンの街なかを少し走った。ブータン門から遠くないブータン・イミグレーションで下車した。

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 ブータンビザを提示し、指紋を採取され、写真を撮られ、入国手続きを終えた。そしてブータンの旅が始まった。

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ブータン王国

 ブータンとブータンの旅について書いておきたい。

 国名はKINGDOM OF BHUTAN。

 国名の起源は諸説あるが、サンスクリット語で「高地」を意味する「ブーウッタン」説はその1つ。これはインド側からの呼称である。ブータン人は自国のことを「ドゥルック・ユル(DRUK・YUL)」と呼ぶ。

 人口は75万人で、面積は九州の約1,1倍である。

 民族はチベット系60%、ネパール系20%。

 言語はゾンカ語で英語、ネパール語が使われている。政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。


GNH(国民総幸福量)と近代国家

 ブータンがGDPではなく国民総幸福量を用いていることは世界に広く知られている。幸せの指標GNH (Gross National Happiness)は「世界一幸せな国ブータン」を演出している。

 GNH(国民総幸福量)の4つの「柱」

 1. 持続可能な社会経済開発 -Promotion of sustainable development
 2. 環境保護 -Conservation of the natural environment
 3. 伝統文化の振興 -Preservation and promotion of culturalvalues
 4. 優れた統治力 -Establishment of good governance

 4つの柱の下に9の「指標」がある。

 1.心理的幸福 Psychological Wellbeing
 2. 時間の使い方とバランス Time Use and Balance
 3. 文化の多様性 Cultural Diversity and Resilience
 4. 地域の活力 Community Vitality
 5. 環境の多様性 Ecological Diversity and Resilience
 6. 良い統治 Good Governance
 7. 健康 Health
 8. 教育 Education
 9. 生活水準 Living Standard


 不文憲法の英国が存在している。日本国憲法の記述は全体に渡っておそろしく抽象的で、自衛軍を持つ根拠ですらあやふやなのだから、ブータンのことをとやかく言うべきでない。

 それにしても突っ込み所は多い。

 「柱」の「4.優れた統治力」の項目のなかには「優れた国王の統治の下」という文言があった。GNHの達成は「国王」の統治下において、という設定になっている。

 ブータンは2008年に総選挙が行われ、国会が開設された。その年に立憲君主制の新憲法が施行されている。首相は立憲君主制の政府の長であるが、国家元首は国王にある。

 「指標」の「1.心理的幸福」は個人の精神の自由に踏み込んでいる。政教分離は世界史の大きな流れで、個人の自由はそこから発生してきたはずである。

 「指標」の「2. 時間の使い方とバランス」は失笑ものである。受験生じゃないんだから。

 「指標」の「6. 良い統治」の「良い」は誰にとって「良い」なのか、「良い政治」とはどういう政治なのか、「良い」の評価を誰がするのか、といったようなことには触れていない。

 「幸福」という概念に政府が介入してきているのである。

 ブータンでは2年ごとに聞き取り調査を実施している。人口67万人のうち、合計72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い、8000人のデータを集め数値化している。世界銀行の統計(2010年)で、ブータンの1人当たりの国民総所得は1,920米ドルであるが、2005年の国政調査では国民の97%が「幸せ」と回答している。

 私はGNH(国民総幸福量)に批判的であった。国民の97%が「幸せ」という国を信用できない。

 しかしそれが一応理解できるようになったのは「五箇条の御誓文」と比較してみたからである。下は現代語訳である。

 一 広く会議を興し、万機公論に決すべし
 一 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
 一 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
 一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
 一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

 文末の「べし」という言い方は、「上から目線」である。しかしハードウェアを輸入し、それを扱う人材を育成しなければならなかった明治新政府に時間はなかった。日本が開国したとき、世界は植民地争奪戦の最終段階にあった。そのなかに割って入らなければ日本は自立できなかった。明治はネットワークの時代ではない。スタンドアロンの時代である。私はインデペンデンスという言葉を使わない。

 五箇条の御誓文には「皇基」という言葉が登場している。「天皇が国を治める基礎」という意味である。そのこととGNH(国民総幸福量)に王室が関わっていることは無縁ではない。

 ヒマラヤの東にある山国は近代国家の創業の途中なのである。


公定料金のバカ高さ

 ブータンを1人旅する場合の料金は次のようになる。2人、3人以上の場合は公定料金がそれぞれ割引になるがここでは触れない。

 【閑散期】(12月~2月、6月~8月)

  ・公定料金 1泊2日 →  240ドル   2泊3日 → 480ドル   3泊4日 → 720ドル  ・・・・
        7泊8日 →1,680ドル
  ・観光税     10ドル
  ・ビザ料金    40ドル

 【繁忙期】(3月~5月、9月~11月)

  ・公定料金 1泊2日 → 280ドル   2泊3日 → 580ドル   3泊4日 → 840ドル  ・・・・
        7泊8日 → 1,960ドル
  ・観光税 ビザ料金は上記と同じ

 【公定料金に含まれるもの】
  ・政府ロイヤリティー(1日US$ 65) ← これは何なのだろう
  ・ホテル滞在費(三ツ星クラス)
  ・食事代(朝、昼、夕 3回の食事)
  ・交通費
  ・英語ガイド、運転手
  ・博物館などの入館料
  ・1日1本のミネラルウォーター ← こんなものいらない
  ・トレッキングの装備、スタッフ、運搬用の馬とヤクの手配料

 【公定料金に含まれていない費用】
  ・ビザ料金(40ドル)
  ・観光税(10ドル)
  ・航空代金および空港税などの諸経費
  ・アルコール、ソフトドリンクなどのお飲み物(コーヒー、紅茶以外)
  ・ホテルのグレードを上げる場合
  ・ドツォ(ブータン式石焼風呂)、スパ、エステ、ゴルフ、カヤックなどの料金
  ・日本語ガイドの手配 ← 旅行会社によって異なる
  ・ガイド、運転手へのチップ ← どうやら常態化しているらしい


 東日本大震災の直後に来日したワンチョク国王と王妃は被災地を訪問し追悼の意を表したが、帰国後3ヶ月ほど経って公定料金を20%ほど値上げした。

 国王と王妃の日本での人気の程度を値踏みし、公定料金を上げても日本からのインバウンドに問題はないと踏んだのだろう。そう考えるのは正当な思考であり、値上げは正当な思考から導かれる自然な結論である。

 ブータンにはそうする権利がある。あらゆる機会をとらえて、国の財政を豊かなものにしていくのは国家として正しい行為である。かってチャウチェスクやマルコスとイメルダが、今、金世襲一家が権力をかさに私腹を肥やし蓄財していることを思えば、国王の人気を外貨獲得に利用するのは尊敬すべきことである。

 私はブータンの公定料金の値上げを理解できるが、追悼のあとの値上げはいただけない。「取れるところから取る」、それは「がめつさ」の別の表現である。私はブータン国民でない。

 ブータンが獲得した外貨の一部は英語教育に回される。ワンチョク国王と王妃をイケメン・カップルとして記憶した日本人は、ブータンが多くの留学生を米国に送り出していることを知らない。送り出した人材を自国に回収するとき、関係が強化される対象は米国であって日本ではない。

 国王の被災地訪問を大々的に取り上げたメディアはそのあとの公定料金の値上げにまったく触れなかった。ブータンに行く人は多くない。国王が帰国してしまえば、ブータンの情報の価値はなくなってしまったということである。乱獲によるマグロ価格の高騰を、牛丼の20円値上げを、人出不足によるヤマト運輸の値上げをしつこく取り上げたけれど。

 私の値上げ関心バロメーターは、ブータンの公定料金を100とすると、マグロ、牛丼、ヤマト運輸はそれぞれ1~3ぐらいである。

 タージマハルとペトラ遺跡の入場料金の高さだけを標的にするのは不公平である。

 公平を期すために、2016年6月~8月の「特別割引キャンペーン」に触れておく。日本国籍者を対象のキャンペーンが打ち出された。名目はブータン・日本の国交樹立30年周年記念であるが、もちろん営業促進キャンペーンの側面を持っている。ツアー代金ベースで、前年比30,000円~60,000円程度安くなった。それ以降、公定料金は高止まりしたままである。

 サンスクリット語の「ブーウッタン」は高地である。インド人は高い国の人たちと呼んでいた。日本人が高い国の人たちと呼んでいいブータン。


航空料金の高さ

 ブータン旅行が高くなる理由はもう1つある。それは航空券が高いことである。

 ブータンの国営航空会社であるロイヤルブータン航空(ドゥルックエアー)の料金が高い。ブータンのパロ空港へのフライトがあるバンコク、カルカッタ、デリーからのどのルートも高い。いくつかの航空料金検索サイトで探ってみた。安く購入できる方法を見つけることができないのではない、それは存在しない。

 パロ空港を結ぶフライトは日にち、曜日による料金の差はほとんどない。2018年12月の航空料金はざっと以下の通りである。できるだけ安い費用でバンコクまで行っても、その先に驚くほどの高い航空料金が待っている。

  ①ダッカ  ⇔ パロ  約48,000円
  ②コルカタ  ⇔ パロ  約45,000円
  ③バンコク  ⇔ パロ 約96,000円

 バンコク・パロ間の距離は約1,200マイルである。


旅人からみたブータンの位置付け

 2017年にサウジアラビアの国王機が羽田空港に着陸し、国王が金の絨毯の敷かれたタラップを降りた。そのあと、個人の観光ビザが発給されることがアナウンスされた。それから1年半以上経ち、その間に20回以上ネットを検索したが、有言は実行されていない。経済の失速は、失地回復を狙った政権による、サウジアラビア社会の解放に向かわせる気配を一時漂わせた。しかしジャーナリストの殺害疑惑は、この国を再び閉じたものに変えた。欧米のジャーナリズムを排除することがこの国への一般的な渡航に影響がないはずはない。フットボール日本代表にとってのサウジアラビアは勝つことのできる相手であるが、日本の旅人にとってサウジアラビアは「アジアの壁」としてますます高くそそり立っている。旅人界に中島翔哉はいない。

 設立から5年以上経つトルクメニスタン大使館で個人対象の観光ビザが未だ発給されていない(私はタジキスタンでトルクメニスタンビザを取得した)。待っている人はあきらめたほうがいい。人生は変わらない。

 テロが頻発しているシリアやイエメンを旅するのはあいかわらず危険である。

 ナウルのビザを取得方法が実にわかりにくい。ナウル渡航の唯一の希望は、ナウルエアラインのHPの表紙画面のグアムのところにcoming soonが表示されていることである。それはグアムからマーシャル諸島へのフライトが開かれるという予告である。私は2年の間に50回ほどチェックしているが、両国の路線は開設されていない。その路線に高額料金を設定している独占企業ユナイテッド航空がナウルエアラインを邪魔していると私は考えている。

 このように一方的な仕打ちを受けても、日本の旅人がサウジアラビアやトルクメニスタンやイエメンやナウルを恨むことはない。どうしようもないと思いながら、ときどき最新状況を検索するだけである。そしてある日、砂塵の向こうの堅い城門が開き、ヴェールを被った女の目が旅人を誘うのをひたすら待つのである。

 断わっておくが、ブータンはそういった国々と同列ではない。メディア、ブータン旅行を扱っている旅行会社、訪問した一部の観光客たちがまるで申し合わせたように、「幸せの国」という言葉を金科玉条のごとく使うことを苦々しく思っている。

 ブータン旅行にぶら下がっている日本の旅行会社の解釈は「すべてパッケージングされているので安心で、あながち高いとはいえない」という独特の解釈を持ち出している。ブータン旅行から利益を得ている日本の旅行会社はひたすらブータン寄りである。

 彼らは多くの旅人を敵にしていることを知るべきである。ブータン旅行にはサイレントマジョリティーと呼ばれる層が確実に存在する。私の友人の間で「ブータンは旅の圏外」となっている。

 もちろん北朝鮮旅行よりはソフィスティケートされている。ガイドと喧嘩をする必要はないし、安心して出国させてくれる。しかし旅人はわざわざ高い費用を払いながら、「定められたルートで」「体のいい監視をされながら」「短期間だけ」旅するのである。「旅の流れていく感じ」を味わうことをこの国ではできない。


安く行く方法はあるのか

 公定料金に航空料金を加えたツアー料金は以下のようになる。

 2018年11月現在、HISタイランドのバンコク発2泊3日のツアーは169,000円(2名1室)となっていた。日本からのツアー(5日間/ブータン滞在2泊3日)の最安値は閑散期で198,000円だった。これらを下回る料金設定のツアーはなかった。

 公定料金があるブータン旅行の特徴は、ツアーで行く場合と個人で行く場合の費用をほとんど同額にしてしまうことである。

 費用を抑える手段は2つしかない。

  ①ブータンの滞在日程を最小限にする。
  ②インドから陸路で国境を抜ける(陸路国境はインドとの間に3ヶ所ある。中国との国境は開いていない)。

 (例外)ボランティアを探す ← 探してみたが、ほとんど見つからず、費用については不透明である。

 費用を一切表示していないGNHトラベル&サービスという旅行会社に電話をしてみると、12月中の3泊4日で140,000円くらいだと言われた(航空料金は含まれていない)。3泊4日の公定費用は240ドル×3泊=720ドル(85,000円くらい)である。ホテル、ガイド、車両、食事などほとんどの費用が公定費用のなかに含まれているはずなのに、この金額が成立する理由がわからない。

 現実的には、① 日程を最小限にしたうえで、② インドを経由するということになる。

 陸路によるアクセスはインドでの旅の日程を増やすことになる。その分の宿泊費用、食費などが別に必要となってくる。どういうランクの旅をするのかによって費用は上下するが、それでもそうするほうが安くなるのはそこがインドだからである。

 バカ高い金額を要求する「幸せの国」の隣りにあるのは「バックパッカーの友」そう私たちのインドである。バックパッカー界の、永遠の4番バッターはこういうとき頼りになる。「ボールが真ん中にこないと打ちません、盗塁しません、四球選びません、ヒットエンドランやりません、サインプレーやりません」という孤高のブータンを尻目に、この4番は左中間を破る大三塁打をかっとばすのである。ブータンはよい隣人をもった。

 Mトラベルで行くことを決めた。ここが一番安かったからである。それ以外に理由はない。私の問い合わせにMトラベルは「企画旅行」として(←そうする必要がある)、私の旅を勝手に命名し(←そうする必要がない)、見積書を送ってきた(←それを要望した)。

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 私の旅のタイトルは「現地発着 幸せの国ブータン3日間の旅」となっていた。

 旅に名前を付けてくれとは要望していない。もちろんこれはこの会社の、個人客にたいする通常のやり方なのだろう。しかし「幸せの国」とまったく思っていない国を「いやいやあなたがこれから行くのは幸せの国なのです」と言われても承知できない。このタイトルに接したとき、「幸せの国」という言葉を胡散臭いと思っていることを改めて自覚した。私の気分の悪さを誰か察してほしい。

 ついでに書いておく。杉原千畝を「日本のシンドラー」、ウベア島(ニューカレドニア)を「天国に一番近い島」という言い方も止めたほうがいい。

 行き先をパロ、ティンプーのみとしてビザを取得した場合、ブムタンに行きたいという変更はできない(そうするつもりはないけれど)。しかし定められたコースを逸脱し勝手に行動した場合はどうなるのだろう。

 夜、ホテルのドアを誰かが叩く、そこには警察官が立っている。その背後にガイドとホテルの支配人が「あなたはやってしまったんですね」と憐みの目をしている。そういうことを記した記事はネットにはないが、誰かそうしてみてくれ。そこにブータンの真実があるかもしれない。

 北朝鮮を旅するのなら(旅したことはないけれど)、こちらも最初から身構える。そっちがそっちなら、こっちもこっちである。昼間は適当にガイドに同調しておいて、ガイドのいなくなったホテルの部屋で、盗聴器がないことを確認したうえで、ツアーの同行者と悪口を言い合えばよいのである。


※【5日目 2018年12月10日】を2回に分けて連載します。次回は【5日目-2 2018年12月10日 ジャイガオン プンツォリン ティンプー】をお読みください。

4日目 2018年12月9日 シリグリ ジャイガオン

Bhutan Transport Serviceのバスでシリグリからジャイガオンへ

 昨日のチェックインのときに提示された料金には朝食が含まれていた。早朝のチェックアウトになることを話すと朝食パックを用意すると言われた。

 ホテルエンバシーをチェックアウトするとき、朝食パックを受け取った。

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 暗い中を10分ほど歩いてAIRVIEW BUS STANDに着いた。ブータン行きのバスが止まっていた。数人がバスの発車を待っていた。ブータン人のようである。

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 Bhutan Transport Serviceのバスチケットは昨日購入してあった。150ルピー。

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 チケットを買ったとき、バスのナンバープレートが赤いことを教えてもらった。
 
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 ドライバーに確認したところ、ジャイガオンまでは6時間である。

 30分遅れてバスは発車した。

 Bhutan Transport Serviceバス/シリグリ・AIRVIEW BUS STAND 7:30 → ジャイガオン・ブータン門近く 13:30頃

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 道路はところどころで工事をしており悪路も出現したが、ずっと続いたわけではなかった。

 20㎞ほど走ったところでバスは山道を上り始めた。途中でTeesta川を渡った。

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 しばらくすると平坦な道を走るようになった。

 40㎞ほど走った道路沿いの食堂でバスは止まった。半分以上の人が朝ご飯を食べた。私は外にあった椅子に座って朝食パックを開けた。サンドウィッチ、ゆで卵、マヨネーズ。

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 9:10、休憩を終え、バスは発車した。

 道路は整備されていたが、新しい町に入るところでハンプ(コブ状の起伏)があったり、道路の左右に柵があったりして、バスはスピードを緩めざるをえなかった。

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 ところどころで茶畑を見かけた。ダージリンが遠くないことを思わせる車窓である。

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 ハシマラを通過した。ハシマラという町の名前を知っていた。当初コルカタから、ニュージャルパイグリあるいはハシマラまで鉄道で行くつもりでいたからである。鉄道チケットの予約サイトである「IRCTC」「Cleartrip」ともにネット接続があまりに安定していなかった。鉄道で行くことを早々とあきらめてしまった。

 ハシマラは中心部だけが賑やかな小さな町だった。バスはすぐに町の郊外に出た。

 西から東に走っていたバスはハシマラで方向を変えた。北に向かって走り出したバスは30分ほどでジャイガオンに入った。

 隣と前の席に座っていたのはブータン人の親子だった。ジャイガオンのホテルを私から聞き取った親子はドライバーに下りる場所を伝えてくれた。


インドにあるはずのホワイトハウスホテルの所在地はブータンになっていた

 ブータン門の前でバスを下りた。ここはまだインドである。

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 ブータン門から西に250mほど歩いたところにあるホワイトハウスホテルにチェックインした。予約していたホテルである。

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 ジャイガオンにホテルは少なくない。ホテル探しに苦労する街でないことはグーグルマップですぐにわかった。だから最初ジャイガオンのホテルを予約するつもりはなかった。

 ところがブータン旅行の手配をお願いしていたMトラベルから日本を発つ1週間前にメールが入った「インドのホテルはお決まりでしょうか。念のために現地の旅行会社に連絡いたしますので、ご決定されてましたらお知らせ下さい」。

 「ブータン門で待ち合わせたい」とメールをしておいたはずだが、仕方がない。ジャイガオンのホテルを予約することにした。

 3つのホテル予約サイトにあるジャイガオンのホテルは全部で1軒しかなかった。ホワイトハウスホテルの宿泊料金は私にとって高かった(1泊3,408円)が、予約しMトラベルに伝えた。

 私はブッキングドットコムの地図からホテル情報にアクセスし、予約した。そして予約直後にホワイトハウスホテルの所在地がブータンになっていることに気が付いた。所在地欄には以下のように記載されていた。

 Opposite of Shakti Garage,736182 プンツォリン, ブータン

 12月9日(今日)分のブータンビザの手配をしていない。ブータンビザの有効期間は明日(12月10日)からである。ブータンでの滞在を1泊延ばせば、自動的に240ドルが追加されてしまう。必要がなくてもガイドは自動的組み込まれる。

 ※ブータンの旅の特殊性は明日のブログに記載する。
 
 予約直後、慌ててブッキングドットコムとホテルにメールを送った。回答は両方からすぐにあった。そのまま転載しておく。

[ホワイトハウスホテルからの回答]

 Dear sir,
 Warm greeting from hotel white house. Our hotel is located in india.
 Bhutan gate is two minutes wal-in-distance from our hotel. Yes sir you can stay in our hotel on 9 december.


[ブッキングドットコムからの回答]

 この度はBooking.comをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 ・・・・・Hotel White Houseでのご予約内容についてご連絡しております。(チェックイン日2018-12-09~チェックアウト日2018-12-10)ご連絡頂きました内容に関しまして、Hotel White Houseと確認がとれましたので、お知らせいたします。
 こちらに宿泊施設の住所でございますが、インドに位置している旨確認が取れました。したがって、弊社マップとグーグルマップでの表記が正しいものとなります。ブータンへの入国VISAのご心配は不要でございますので、ご安心ください。

 住所に関しまして、宿泊施設と弊社担当部署で正しい住所の設定に関し作業を行っている最中でございました。ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません。何かご不明点等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。


 ブッキングドットコムのマップはグーグルマップを利用している。ホテルの場所がグーグルマップで間違っていることはこれまでにもあった。しかし今回、マップ上の位置は間違っておらず、所在地の表記がブータンになっているだけである。何かの意図でそうしているとしか思えない。

 ブッキングドットコムの回答にあった「宿泊施設と弊社担当部署で正しい住所の設定に関し作業を行っている最中」はこの旅日記を書いている2019年5月現在、継続中である。「Bhutan」を「India」に書き換えれば済む話であるのだが。

 所在地が書き換えられることはもうないだろう。


前日にインドを出国手続きはできない
 
 ジャイガオン(インド)とプンツォリン(ブータン)の間にはブータン門がある。そこが国境であるが、インド・イミグレーションはブータン門から10分ほど歩いたところにある。そこはもちろんインドである。

 私が収集した情報では、インド・イミグレーションが開いているのは「7:00~18:00」である。

 それに対してMトラベルは「9:00~16:30」と伝えてきた。

 そのうえで「前日の出国手続も可能のようです。13:00頃ご到着なら、まだオフィスは空いていると思います。翌日ブータンに入国することをご確認の上、お手続下さい」と書かれていた。

 Mトラベルがいうように、前日に出国手続きができるのなら、それはありがたいことである。半信半疑でインド・イミグレーションに行ってみることにした。

 ホワイトハウスホテルの前にコピー店があった。ブータンビザのコピーを1枚しか持ってきていない。もう1枚コピーしておくことにした。

 イミグレーションは開いていた。当然である、予定が1日くらいずれても、ブータンの入国日、出国日のそれぞれを陸路国境が開いている日に定めたうえで全体の日程を決めている。

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 しかし前日の出国手続きはできなかった。ブータンビザを見せ、明日ブータンに入ることを説明しても、状況は変わらなかった。

 Mトラベルは親切な旅行会社であると思う。ブータン旅行の手配を依頼しただけで、インド出国のアドバイスをもらえると思っていなかった。しかし情報をもっていなかった。

 ジャイガオン、プンツォリン国境を陸路で抜ける旅行者の数は全旅行者の1%以下だと思われる。ほとんどの旅行者はパロ空港に到着する。インド、ブータンの陸路国境情報をブータンの旅行会社は持っていないということである。


ブータン門を越え、不法入国することはできない

 ジャイガオンでの一番の見どころはブータン門である。門の向こうはブータン王国KINGDOM OF BHUTANのプンツォリンである。2年ほど前まではわりと自由にブータン門を行き来することができたようである。

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 別の書き方をすると、自由に不法入国することができたということである。ブータン入国のハードルは著しく高いが、国境の街だけはフリーパス同然だった。それはバックパッカーに知られるところとなり、ネット上にその頃の記事が載っている。ビザなしでブータンに入ることができるのは日本人がブータン人に似ているからだといわれていた。誰かが勝手にそう解釈したのだろう。

 現在ブータン門を正面から入ることができるのは車両だけである。警察官はいるが、車両のチェックをしていなかった。車であれば、今でも自由に出入国できるようである。

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 人はブータン門の脇にある通路から出入りしていた。手荷物を通すX線検査装置はあるが、ブータン人は荷物を装置に通すことなく通過していた。監視するスタッフはいた。ただし入国審査はその場所ではなく、100mほど歩いたプンツォリングの街なかにある。

 知らんぷりをして通過を試みた。駄目だった。IDを見せてほしいといわれた。

 明日から有効のブータンビザを持っていること、明日ブータンに入国する予定であるが、今日ちょっとだけプンツォリングを見たいことを伝えたが、「明日でないと駄目」と言われた。私の言い分が最低だったことを自覚している。しかしこういうことを試みたからといって問題になることはない。国境の空気は著しくゆるい。

 ブータン門の脇にある通路の写真撮影は拒否された。

 そういうわけで2018年12月9日現在、ビザなしでブータン門を徒歩で抜けることはできない。


ジャイガオンを歩いた

 ブータン門近くは店が軒を連ねていたが、食堂は2、3軒しかなかった。

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 「SWEETS PALACE」という食堂兼菓子店でモモを食べた。そのあとに菓子。総じてインドの菓子は甘い。最近では多くの女子が菓子を買っているが、2000年頃、インドの菓子店にいたのは男たちだった。

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 ブータン門から南に走る通りがジャイガオンの幹線道路である。真っ直ぐ南に歩いた。通りの両側には店はあったが、食堂は多くない。

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 500mほど歩いたところで右(西側)から斜めに道路が交差してきた。この道路を西北に進んだところにさっき行ったインド・イミグレーションがある。

 交差点の近くには銅像が建っていた。指をさしている銅像であるが、人物にえらそうな感じはなかった。ちなみにクラーク博士(札幌羊ヶ丘展望台)も天草四郎(天草切支丹館)もコロンブス(リスボン)も指をさしているが、金日成(平壌)は手のひらを差し出している。金正日は指も手のひらも差し出してはいない。

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 さらに南に歩いた。店はなくなり、通りは汚くなってきた。ゴミの量も増えてきた。

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 舗装されていない道、貧しい家が現れた。 

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 水なし川を渡った。

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 野菜市場には貧しさが漂っていたが、野菜は豊富にあった。

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 ブータン門から2㎞ほどのところにバスターミナルがあった。

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 ブータンを旅したあと、一度ジャイガオンにもどり、そのあとダージリンに行くつもりである。ダージリン行きのバスはおそらくシリグリを経由することになるのだが、できれば乗り換えを避けたい。シリグリ発ダージリン行きのバスは、昨日、シリグリ駅近くのTENZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINALで確認済みだが、ここに来たのはジャイガオンからダージリンに直行するバスを探すためである。

 シリグリ行きのバスはあった。ジャルパイグリ行きのバスもあった。ダージリンに向かうバスはなかった。それらは予想していたことではあったが、旅先で交通機関の有無がわからない場合、想定される候補を1つ1つ、つぶしていくしかない。

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 インドの地方のバスターミナルにインフォメーションはない。大都市のバスターミナルにあるかどうかを知らないが、仮にあったとしてもデリーの超巨大なバスターミナルでそれを探すのに30分はかかるだろう。そのインフォメーションがバス情報を知っているとは思えず、仮に発車のプラットフォームなどを教えてもらったとしてもその情報が正しいとはいえない。つまりそれぞれの段階で不確実性が発生してくる。そうであるのなら最初から当てにしないほうが無駄に労力を使わないで済むということになる。インドのバスターミナルにインフォメーションがないのは悪いことではない。

 片っ端から人に尋ねてみた。

 ダージリン行きのバスが出るところを知っている人がいた。グーグルマップを見せ、大体の位置を教えてもらった。それは歩いてきた途中の場所で、ブータン門から300mほどのところだった。

 来た道をもどった。

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 さっきの銅像から200mほどブータン門のほうに行ったところにANCHALIA HOTELがあった。バスターミナルにいた人が教えてくれたのはこの辺りである。その近くにいた物売りの少年が、建物の通路でダージリン行きのバスチケットを販売する人がいることを教えてくれた。

 事務所ではないようである。そこはBHUTIA PLAZAという名称の建物だった。BHUTIA=ブティヤ人は、シッキム州に住むチベット系民族である。ダージリンは西ベンガル州にあるが、シッキム州に近い。

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 BHUTIA PLAZAのなかの、奥に続く通路でダージリン行きのバスチケットを販売している人はいなかった。

 しばらく待ってみたが、それらしい人は現れず、BHUTIA PLAZAの前を通る人に尋ねても、誰も知らなかった。

 ブータンからもどったときもう一度ここに来てみるしかない。

 ジャイガオンを適当にぶらぶらした。

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 ホワイトハウスホテルにもどった。レセプションに尋ねてみたが、ダージリンに行く場合はシリグリで乗り換えになると言われた。直通のバスはないと言われた。


ホワイトハウスホテルでガイドと会った 

 17:00過ぎ、ホテルの部屋の電話が鳴った。ブータンのガイドからだった。

 ガイドと合流するのは明日の8:45になっていたが、今ホテルのレセプションに来ているという。

 レセプション前でガイドとあった。民族衣装のゴを着ていた。ブータンでは男性はゴ、女性はキラを着て生活している。Kさんは実直そうで信頼できそうな感じだった。電話番号をもらった。

 今日インドを出国できなかったこと、イミグレーションの開いている時間は「7:00~18:00(途中に休憩がある)」であることを伝えた。Mトラベルが私に伝えてきた「9:00~16:30」というのはKさんがMトラベルに伝えたものだと思われる。

 明日の待ち合わせ時間は8:45のままでよいのだが、7:00にいっしょにインド・イミグレーションに行くとKさんは言う。

 その好意を受けることにした。

3日目 2018年12月8日 バンコク コルカタ バグドグラ シリグリ

e-visaでインド入国

 エアアジアFD120/バンコク・ドンムアン 0:05 → コルカタ 1:10

 コルカタ空港(ネータージー・スパース・チャンドラ・ボース国際空港)に着いた。

 e-visaを取得してきている。申請書には80項目ほど記入する欄があり面倒くさかったが、オンラインで取得できるので領事館に行く必要はない。初回入国日から2か月間で2回の出入国が可能である。30空港で入国ができる。取得費用は25ドル(+2.5%)。アライバルビザより料金は安い。

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 イミグレーションの、e-visaのラインに並んだ。窓口は7、8くらいあったが、カウンターで1人に要する時間が長く、列はなかなか進まなかった。1人当たり5 ~10分くらいかかっていた。10人の列だと50分から100分くらいということになる。e-visaで入国できるようになっても効率の悪さは変わらない。インドはインドである。

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 入国カードのホテル欄に、シリグリにあるホテル名を書いた。シリグリのホテルを予約していなかったが、泊まる候補のホテルをチェックしており、機内で手っ取り早くホテル名と住所がわかったからである。

 シリグリ?
 何をしに?
 シリグリの次は?
 その次は?
 1人で?
 インドは何回目?
 職業は?
 勤務先の住所は?

 ここは取調室か? 黙秘権を発揮すると入国できないので愛想よくペラペラしゃべってやった。

 10本の指のすべての指紋を採られた。全指の指紋を採取されたのはネヴェリスク(ロシア・サハリン)の港湾で身柄を拘束されて以来、2度目である。

 イミグレーションを抜けるのに1時間かかった。


シリグリ回廊について

 シッキムの入り口にあるのがシリグリである。そこはインド防衛上の重要な地点である。

 インド総督カーゾンによって制定されたのがベンガル分割令である。最初は行政の効率化のためだったが、民族運動を押さえるため英国はベンガル地方を分割しようとした。西ベンガルを他の州に編入しベンガル人を少数派にするととも、東ベンガルにムスリム自治州を設立しようとした。東ベンガルは現バングラデシュである。

 結果、反英闘争を激化させてしまった。

 1947年はインドとパキスタンにとって忘れられない年である。印パ分裂により、シリグリ回廊が誕生した。回廊の最狭部は32kmである。そこはネパール、中国、ブータン、バングラデシュの4ヵ国に接している。インドがこの回廊の支配権を失うようなことがあると、その奥に住む5,000万人が孤立してしまう。

 地政学上、インドはこのエリアに神経質にならざるを得ない。

 e-visa(他のタイプのビザでも同様だと思われる)を取るとき、南アジアの隣国への入国の有無を書かなければならない。私のパスポートには隣国を含め近隣諸国のスタンプがフルセットで押されている。モルディブも隣国である。

 パスポートをぺらぺらとめくったあとでの、スタッフの「シリグリ?」という質問に意味があるのかどうか、あるとしたらどの程度の意味なのか本当のところはわからない。しかしシリグリではなく、コルカタかダージリンのホテル名を書いておけばもう少しすんなりと通過できたかもしれない。

 
コルカタ空港の難敵はインド官僚主義

 2017年、インド政府はe-visaで入国した人を対象にTourist SIMを無料で提供し始めた。このことはまったく知られていないが、デリー空港でこのTourist SIMを取得した人が1人いた(その人のブログで読んだ)。

 Tourist SIMの提供窓口がコルカタ空港のどこにあるかわからない。窓口を探しながら、国内線の乗り継ぎのほうに歩いた。

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 コルカタ空港は大きくモダンな空港に生まれ変わっていた。外の様子を見てこうと空港建物の外に出た。これが失敗だった。建物内にもどろうとしたが、出たドアから入ることができなかった。

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 別のドア(正式な入り口)から入ろうとしたとき、航空券の提示を求められた。「今コルカタ空港に着いたところで、建物の外にちょっと出ただけ」と言ってみたが、警備員は「入れない」の一点張りである。仕方なく、これから乗る国内線のチケットを見せると、国内線の入り口を案内された。

 これでTourist SIMの窓口があるのかないのか、あるとするとどこにあるのかがわからなくなってしまった。

 国内線の出入口でまた止められた。提示したチケットに私の名前がないというのである。チケットをよく見ると、確かに私の名前はなかった。

 エアアジアのフライト予約をすると旅程表という名目で、A4で3枚の書式が送られてくる。1枚目が「フライトの詳細」、2枚目が「ゲスト情報」、3枚目が「支払いの詳細」である。1枚目の「フライトの詳細」だけを印刷して持ってきていた。そして1枚目「フライトの詳細」に搭乗者である私の名前がないのである。警備員に指摘されて初めて気が付いた。

 やるなあ、インドの空港警備。恐るべしインド官僚主義と上意下達。空港ビルに怪しいヤツを入れないという点において水も漏らさぬ体制である、といっている場合ではない。スマートフォンにSIMカードを入れていないので、ネットにアクセスできない。仕方なくパソコンを立ち上げ、ダウンロードしてあった3枚綴りの旅程表の2枚目「ゲスト情報」画面を見せ、ようやく空港ビルに入ることができた。

 2013年にチェンナイ空港の警備員を突破するため、予約したチケットのプリントサービスを求めて街中をうろついたことがあった。そういうことを忘てしまっていた。


コルカタ空港で

 とにかく眠い。1日目は横浜・京都間の夜行バスに乗り、24:00前に泉佐野のゲストハウスに入った。そして2日目の5:30の起床以降寝ていない。

 だだっ広いコルカタ空港の国内線ターミナルで、寝転がれる椅子を探した。コルカタ空港はチャンギ空港(シンガポール)と同じで、椅子の両脇に肘置きがあった。長椅子を肘置きで1人1脚に区切り、体を横にさせないようになっていた。乗客フレンドリーではない最低の空港である。

 そのなかで1脚だけ肘置きが壊れている椅子があった。横になりたい誰かが金属の肘置きを壊したのだ。ありがとう先客。

 それを見つけた私だけがコルカタ空港で横になり寝ることができた。

 空港内はかなり寒かった。

 2時間後に目覚めた。

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 フードコートで朝ご飯。サモサを注文してしまった。朝ご飯なのに。

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 エアアジアのカウンターが見つからない。どこをどう探してもありそうになかった。

 自動チェックイン機があった。10社ほどのエアラインがチェックインできるようになっており、そのなかにエアアジアの画面があった。バグドグラ行きのチェックインをした。

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バグドグラ行きのゲートはどこだ!

 ゲートに向かう途中にあった液晶モニターで出発便を確認した。乗る予定の便がモニターから消えていた。とりあえず搭乗券に表示されている25番ゲートに行ってみた。

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 ここで待つように、とゲート前にいたスタッフは言ったが、信用できない。適当に言った、という感じがありありと伝わってきた。

 出発の液晶モニターには相変わらず私の出発便は表示されていなかった。液晶モニターがあるだけましだと思うようにしたが、問題の解決にはならない。すべてのゲートの真ん中辺りにあるはずのインフォメーションは存在しなかった。インフォメーションがないのだから、インフォメーション・スタッフはいない。あるべきところにあるべきものがなくても不満を持ってはいけない。ここは旅人を混沌のなかに引きずり込むことにかけて世界にその名を轟かせている、大国インドである。

 打球が右中間を破ったランナーが1塁ベースを蹴って2塁に向かっている途中、目の前に2塁ベースがないことに気づいたらどうするか。2塁ベースを探すしかないのである。

 空港スタッフらしい人を捕まえるしかなかった。

 捕まえた1人目は役立たずだった。事情聴取もそこそこにすぐに解放してやった。

 バグドグラ行きは「23番ゲートに変更になっている」と2人目が教えてくれた。話し方に確信的なものを感じた。インドにも使えるヤツはいた。

 階段を下りたところにあった23番ゲートのフライト掲示板には何も表示されていなかった。しかしそこではみんなが食い入るように掲示板を見入っていた。誰かが「バグドグラ行きはどうなっているんだ」と言った。バグドグラ行きのゲートだった。

 みんなが23番ゲートに集まっていることが不思議だった。どうしてバグドグラ行きがこのゲートであることを知ったのだ。

 ゲート前にバグドグラ行きの表示が出た瞬間にゲートが開いた。乗機が始まった。

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 コルカタ空港に着いてから8時間ほどしか経っていない。この短い時間にイミグレーションの質問、国内線ターミナルへの入場、寝場所探し、出発ゲートの変更など細かく左右に揺さぶられている。早くもインドに「してやられている」。しかも一方的な防戦である。私の旅の耐性はアップしているのでダメージはないが、ボクシングに例えると第1ラウンドの採点は9-10で負けている。このまま旅を続けると、9-10を重ねることになりそうである。どこかでギャラクテム・マグナムをぶちかまさなくてはなるまい。

 インドのハードウェアはあちこちで近代化されているが、ソフトウェアというより根本的なところでの融通の利かなさはかってのままである。

 エアアジアI5 582/コルカタ 9:00 → バグドグラ 10:20

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バグドグラ空港から

 出発時に混乱したエアアジアI5 582便は20分ほど遅れてバグドグラ空港に着いた。

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 バッグドグラの西20㎞のところにパニタンキという町がある。そこはネパール国境の町である。ネパール側の町はカーカルビッタ。グーグルマップでは国境にメチ川が流れており、メチ橋が架かっている。国境はメチ橋を渡ったところにあるようだ。

 ネパール国境には行かない。めざすのはブータン国境のあるジャイガオンである。

 シリグリからジャイガオン行きのバスが出ているはずだが、詳細は不明である。不明な点を確かめるためにまずはシリグリに向かう。

 バグドグラ空港から17㎞ほど離れたシリグリに行く方法はタクシーしかない。ドライバーの言い値である500ルピーは400ルピーに下がったが、それ以上のディスカウントはできなかった。シリグリ行きのバスが出るスタンドまでは150ルピーらしいが、バスの出発頻度がわからない。

 空港を出たところに待機していたオートリキシャでシリグリのAIRVIEW BUS STANDに行くことにした。料金は300ルピーである。


シリグリからジャイガオンに向かうバスの情報

 オートリキシャに30分ほど乗った。シリグリの街なかに入ってから渋滞に巻き込まれた。

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 AIRVIEW BUS STANDに着いたが、バスは1台も止まっていなかった。バススタンドの様相ではない。

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 シリグリからジャイガオンまでの行き方については事前にかなり調べていた。シリグリにバスターミナルはいくつかあるのだが、情報を集約すると、AIRVIEW BUS STANDからジャイガオン行きのバスが出るということで間違いないようである。発車時刻は7:00前後と書かれていたブログは3つあった。

 ルートを想定し、グーグルマップで移動時間を算出してみた。結果は以下のとおりである。

 NH17経由       160㎞  3時間46分
 NH17とNH317経由    155㎞  3時間51分
 NH27経由       150㎞  4時間20分

 所要時間については3、4人がネットで情報を出していた。

 A. 3時間ほどかかった ← まったく信用できない
 B. 悪路を6時間ほどかかった ← 2016年情報。6時間という情報は他にもあった。
 C. 昼過ぎからバスを乗り継ぎ、到着したのは翌日 ← 行き当たりばったりだとこうなる。

 Cについては「アリパーダー行きのバスを途中のダップグリで下車し、バーパーラ行きのバスに乗り換える。バーパーラでジャイガオンのバスを捕まえる」というものである。シリグリを午後に出たこの人は途中のダップグリで宿泊し、翌日ジャイガオンに着いたらしい。

 Special Thanks, ジャイガオンへの旅人たち。あなたたちがいたから私の旅も前に進む。

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 AIRVIEW BUS STANDで何人かに尋ねてみても、ジャイガオンあるいはブータン行きのバスを知っている人はいなかった。

 仕方がない。時間はあるので、あとでまた来ることにする。とりあえずホテルを探すことにした。


ホテルエンバシーにチェックイン

 AIRVIEW BUS STANDから路地を抜け東に歩いた。シリグリを南北に走る幹線道路AH2を越え、街の中心に入った。500mほど歩いただけで数軒のホテルがあった。ホテル探しは難しくないようだ。

 最初に入ったホテルにオーナーはいなかった。「呼んでくる、待ってて」とおばさんは出ていった。10分後おばさんは1人でもどって来た。しつこく引き留められたが、ホテルを出てきた。

 2軒目のホテルエンバシーに決めた。わりとよいホテルである(ホテル料金については「旅のまとめ」として本ブログの最後に掲載する予定である)。

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SNTバスステーションとシッキム・ツーリズム

 少し休んでホテルを出た。シリグリ駅のほうに行ってみる。

 シリグリを南北に走る通りを北に歩いた。

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 マハナンダ川を渡った。女性、子供を含む大勢の人が川に入っていた。魚を採っているようだ。

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 幹線道路はオートリキシャと車がひっきりなしに行き来していた。駅に近づくと、通りの両側には小さな店が軒を連ねていた。

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 旅行代理店がいくつかあった。どの代理店もコルカタ行きのバスを扱っていた。

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 SNTバスステーション(SIKKIM NATIONALISED TRANSPORT)があった。シッキム方面のバスが発着するバスターミナルである。シッキム州はインド28州のうち人口がもっとも少ない州である。州都ガントクに行くバスの発車時刻が貼りだされていた。ガントクはこの旅の予定に入っているのでバスの発車時刻は貴重な情報であるが、シリグリ(にもどって)からガントクに行きたいわけではない。

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 バスステーションのなかにシッキム・ツーリズムがあった。シッキム・ツーリズムは[SIKKIM TOURIST INFORMATION CENTER]のことである。シッキム観光のオフィシャル・サイト「Tourism and Civil Aviation Department」(Government of Sikkim)のなかに、[SIKKIM TOURIST INFORMATION CENTERS]が11ヶ所載っている。シッキム州に入るためにはこの11ヶ所のどこかでパーミット(入境許可書)を取得する必要がある。

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 スタッフに相談してみた。私の場合パーミットを取っても意味がないことがわかった。私はこのあとブータンに行く予定である。今ここでパーミットを取っても、インドを出国した時点で無効になってしまうということである。

 ガントクに行く途中にある州境の町ランポ―でパーミットを取れる、と言われた。オフィシャル・サイトの地図にあった11ヶ所の1つが州境らしきところあったことを覚えていた。しかしパーミットを取得していない者がガントク行きのジープに乗せてもらえるかどうかわからない。

 仕方なくシッキム・ツーリズムを出てきた。


シリグリ駅とTENZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINAL

 SNTバスステーションの近くにあったのはシリグリ駅である。シアルダー(コルカタ)行き、デリー行きの列車があった。

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 シリグリ駅の近くにTENZING NORGAY CENTRAL BUS TERMINALがあった。近隣の町へのバスと中距離路線のバスが集結していた。

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 カリンポン行き9本(うち午前発7本)、ダージリン行き7本(全便午前発)、ガントク行き1本(6:00発)がHILL & DOOARS BOUND SERVICEにより運行されていた。

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 11:50発の、NORTH BENGAL STATE TRANSPORTCORPOLATIONによる「JOYGAON」行きを見つけた。私が行こうとしているジャイガオンのスペルは「JAIGAON」である。

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 このバスが本当に動いているのかどうかわからない。コルカタ行きバスの窓口は開いていたが、他の窓口に人はいなかった。近くにいる人に尋ねてみたが、要領を得なかった。ほとんどの人はジャイガオンには行かない。明日11:50前にここに来たとしてもバスが動かなければ、明日という日は意味なくつぶれてしまう。11:50発のバスはあくまで保険である。

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 この日の夜、ホテルで「JOYGAON」を検索してみた。グーグルマップで、ニューデリーの西にあるテーマパークが表示された。シリグリからそんな遠くまでバスが出ているはずがない。そうだとしたら「JOYGAON」=「JAIGAON」である可能性はある。一方、バス会社名である「NORTH BENGAL STATE」(=北ベンガル州)」はインドに存在しない。コルカタは西ベンガル州の州都で、東ベンガルは現バングラデシュである。

 来た道をもどり、マハナンダ川を渡った。さっき川に入っていた人たちはもういなかった。

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再びAIRVIEW BUS STANDへ

 AIRVIEW BUS STANDにもう一度行ってみた。

 午前中とは異なりAIRVIEW BUS STANDにはバスが2、3台停まっていた。近くにいた人たちに声を掛けてみたが、よい返答は得られなかった。

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 あきらめてその場を去ろうとしたとき、チケットを売っている人を知っている、と声を掛けてくれた人がいた。

 その人は私のすぐそばの木の椅子に座っていた。

 明日ジャイガオンに行きたいと伝えた。その人は鞄のなかからチケットの束を出した。手に入れたチケットにはBhutan Transport Serviceの文字が入っていた。AIRVIEW BUS STANDに再度来た甲斐があった。

 ジャイガオン行き(ブータン行き)のバスは明朝の7:00発である。

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シリグリを歩いた

 シリグリの中心部にもどった。

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 店は多いのだが、食堂はほとんどなかった。シリグリ駅の近くで食べておけばよかった。

 メニューが多くない食堂で焼きそばを食べた。

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 適当に街なかを歩いた。

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 ホンコン・マーケットがあった。細い路地に露店が連なっており、衣服、靴、鞄、雑貨、電化製品などが売られていた。ブランドの偽物はもちろんあり、怪しい商品を見て回るにはおもしろいだろう。マーケットは巨大ではないが、奥の深さを感じるところもあり迷路の雰囲気があった。

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 シリグリはインドの普通の、標準的な街である。インドの普通の街を一言で表現すると「喧噪の街」ということになるが、喧噪の度合いは大したことはなかった。インドにしてはごった返してはいなかった。街の中心部から離れると、素朴な感じもあった。

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2日目 2018年12月7日 泉佐野 関西国際空港 バンコク

[1日目 2018年12月6日 横浜 京都 大阪 泉佐野]は“日本細見紀行”に掲載しています。

関西国際空港から出国

 8人ドミトリーの4人は6:00前にベッドを開けた。残っている人たちはフリースペースでそれぞれ旅の準備をしていた。みんな7:00前には出ていく気配である。

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 レセプションには誰もおらず、チェックアウトの際にはリネンをボックスに入れておくだけでよい。

 6:50、グリーンウッドホステルをチェックアウトした。

 徒歩3分ほどの泉佐野駅から、空港線の関西国際空港行きの電車に乗った。

 私が知らなかっただけであるが、南海電鉄はいつの間にか「南海本線」を「南海線」に名称変更していた。それは高野線を「軽視していない」という現れである。小田急が江ノ島線を軽視していないことをアピールするために新宿から小田原までの路線を小田急本線と呼ばずに、「小田急小田原線」と呼ぶのと同じである。

 南海電鉄・空港線/泉佐野 7:05 → 関西国際空港 7:14  

 台風21号の影響によりタンカーが衝突した関西国際空港連絡橋は2018年10月6日に仮復旧したが、南海電車は連絡橋の途中で徐行運転になった。完全復旧までにはもう少し時間がかかるようである。

 関西国際空港を利用するのは3回目である。前回は2013年11月にフィリピンに行ったときである。


エアアジアでバンコク・ドンムアン空港へ

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 KIX-ITMカードカウンターでKIX-ITMカードを受け取った。ネットで情報登録しておいたものである。

 エアアジアのカウンターでチェックインした。サイトからウェブチェックインをしてきているが、カウンターに寄らなければならない。チケットに「寄れ」という指示があった。それではウェブチェックインの意味がないのだが、各地からバンコクに向かう便はすべてそういう扱いになっているらしい。カウンターでは最終目的地であるインドのe-visaの提示を求められた。

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 ゲートに移動するために空港内を走るシャトルに乗った。その手前にあったフライトポイント専用端末機でKIX-ITMカードのポイント登録をした。自動的に帰国便の登録も行うことができた。

 エアアジアXJ613/大阪・関西国際空港 9:50 → バンコク・ドンムアン空港 13:50

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 ドンムアン空港に着いた。


ドンムアン空港からカオサンへ

 バンコクに来たのは4度目であるが、どうしても来たかったとか縁を感じているといった街ではない。好きでもないし嫌いでもない。

 最初(2000年8月)はバンコクを観光してからマレー鉄道に乗った。途中下車しながらシンガポールまで行った。2度目(2008年8月)はラオスからノーンカイ国境を越え、ウドンター二からバンコク行きの夜行列車に乗った。3度目(2011年4月)はバンコクのモーチットからアランヤプラテートまでバスで行き、ポイペト国境を抜けカンボジアに入った。バンコクはマレーシア、シンガポール、ラオス、カンボジアへの起終点となる街だった。

 今日のバンコクでの滞在は10時間ほどである。すでに14:00を過ぎていること、ドンムアン空港と街の中心の往復で2時間かかることを考えれば、1ヶ所くらいしか行けない。

 カオサンに行くことにした。
 
 バックパッカーの集まる場所として私のなかの最上位は常にプラカ(アテネ)だった。サダルストリート(コルカタ)やフォングラオ通り(ホーチミン)よりカオサンは低い位置にあった。

 ドンムアン空港からA4バス(サナームルアン行き)がカオサンを経由する。ちなみにA1バスはBTSモーチット行き、A2バスはビクトリーモニュメント行き、A3バスはルンピニー公園行きである。A5バスが新設されていた。A5バスは情報としてネットにはまだ登場していない。

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 到着ロビーの5番出口近くにエアポートバス乗り場があった。

 やって来るバスのほとんどはA1バスだった。みんなモーチットで乗り換えるのだろう。次に多いのはA2バス。30分に1本出ているといわれているサナームルアン行きのバスがやって来たのは50分後である。サナームルアン行きに乗車した人は多くはなかった。料金50バーツ。

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 A4バス/ドンムアン空港 14:50頃 → カオサン 15:40頃


10年ぶり、3度目のカオサンを歩いた

 A4バスが着いたのはワット・ポウォーンニウェーの西側である。

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 バスを下りたところから西に延びるクライシー通りを歩いた。

 広くない通りの両側に濃い色のパラソルが並び、その下に屋台があった。ホテルは何軒かあったが、圧倒的に目立っていたのは衣服店である。

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 クライシー通りを突き抜けたところにあるチャクラポン通りは準幹線通りである。南に歩いた。電線の絡まり方は怖すぎるが、インドほどではない。チャクラポン通りには旅行代理店が軒を連ねていた。

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 ターニー通りに入った。この通りも衣服店が多かった。道路に屋台が張り出しているので、クライシー通りよりごちゃごちゃしているが、怪しげな感じはない。ただ古いだけである。何軒かのホテルがあった。ゲストハウスらしきところも多いが、入るのをためらうほどではない。1泊200~400バーツ程度で泊まれるはずである。

 ターニー通りの南を走るラムプトリ通りに入った。裏カオサンとも呼ばれている。カオサン通りは300mほどだが、ラムプトリ通りはチャクラポン通りを越え、西北方向に続いている。

 ラムプトリ通りの東のほうはレストランが目白押しである。レストラン、バーの多くはオープンエアである。イビススタイルズ(ホテル)があった。マッサージ店の相場は30分で150バーツほどである。

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 ラムプトリ通りとカオサン通りの間にはソイが何本かある。

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 ラムプトリ通りのMy Darlingで昼ご飯。

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 ソイを抜け、カオサン通りに入った。2008年に泊まったD&D innは健在だった。

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 カオサン通りよりラムプトリ通りのほうが賑やかでおもしろかった。

 カオサンは拡大しているようだ。

 カオサンに最初に来たのは2000年だった。「混とんとしている」という言葉は、その頃のカオサンを表現するのにふさわしかった。路地裏の暗さこそはカオサンだった。

 2度目は2008年である。D&D innにはプールが付いていた。街の端にあったバーガーキングに入った。世界中のバーガーキングのなかで私が最初に入ったのはカオサンのバーガーキングである。暗かったバンコクは明るくなろうとしていた。あるいは明るく振舞おうとしていた。ファストフードの店が進出し始め、他の街と変わらない雰囲気を漂わせ始めていた。今の原形は2008年にはあったということである。カオサンの夜はただただ騒がしかった。屋台というより夜店が賑わい、前に進むのも困難なほどごった返していた。

 2008年にもう来ないと確信的に思ったカオサンにまた来てしまった。たまたま立ち寄ったバンコクで行くところがなかったから来ただけであるが、人の思いはどう変わるかわからない。旅先で思ったことは容易に翻される。

 
大渋滞のなかドンムアン空港に向かった

 空が怪しくなってきた。雨が降り出したそうである。A4バスを下車したところまでもどった。

 かなり距離がある反対車線にドンムアン空港行きのバスが入ってくる気配はなかった。バスを下車したところの近くの路上に机を出し、何かをやっていた交通整理員らしき人に尋ねた。A4バスはやって来ると教えられた。私が待っているのはドンムアン空港からカオサンに来るバスではなくて、ドンムアン空港行きのバスであることを念押ししたが、今いる場所でよい、という返答である。

 そこはリニモバスの発着するバス停でもあるので、そこで待つことにした。リニモバスでドンムアン空港に行った場合、A4バスの3倍の料金になる。

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 1時間ほど待ってバスはやって来た。A4バスが30分間隔で動いているというのは誤った情報かもしれない。

 それはドンムアン空港からやって来たバスだったが、ドライバーは乗れと言った。ここで乗車して終点のサナームルアンまで行けば、ドンムアン空港に向けて出発すると話してくれた。サナームルアンまでのバス料金は必要なかった。こういうことは海外ではたまにある。融通の利かない日本のバスでは経験できない。例外は強烈な個性のドライバーを揃える東陽バス(沖縄)くらいのものである。

 バスはカオサンのなかを走り、15分ほどかかってサナームルアンに着いた。

 サナームルアンは王室前広場である。国王の誕生日の祝賀行事や祭事が催される。10分ほど停止したあと、A4バスはドンムアン空港に向けて走り出した。料金は50バーツ。

 A4バス/サナームルアン 18:00頃 → ドンムアン空港 20:10頃

 バスは夕方の渋滞に巻き込まれた。凄まじい渋滞はバスを完全停止させた。マニラの渋滞もひどいが、バンコクも負けていない。道路の真ん中で停まっているバスに乗り込んでくる人たちがいて、ドライバーは彼らを迎えいれていた。こういうときマニラでは途中下車させてもらえるが、バンコクでもそれは可能だろう。

 ドンムアン空港に着いた。サナームルアンを出てから2時間10分経過していた。


エアアジアのチェックインカウンター

 ドンムアン空港はごった返していた。エアアジアのチェックインカウンター前は重い荷物を持った人たちの行列ができていた。列の近くで案内をしていたスタッフにチケットと搭乗券を見せて確認した。

 搭乗券をもらっているので、保全検査に行っていいですか?
 カウンターに並んでください。この列です。

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 その列は重い荷物を持ったインド人たちが埋めていた。

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 KLIA2(クアラルンプル)のエアアジアは、ウェブチェックインをしてきた人に別枠のカウンターを設けていた。羽田空港も別枠のカウンターを設けている。しかし両空港のウェブチェックインカウンターは通常チェックインと混在して使われていた。ドンムアン空港にはウェブチェックイン用に設けられたカウンターはなかった。席を自動的に決められてしまう上に、一般の列に並ばなければならないウェブチェックインはまったく意味がない。

 40分ほど並んだ。パスポートと氏名を確認しただけだった。関西国際空港のエアアジアのカウンターで確認されたインドビザの有無を確認しなくていいのか、とは言わなかった。

 制限エリア内にコンセントは数ヶ所あった。

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 サンドイッチを食べたが、まだ腹が減っている。クリームのたっぷり入ったパンを食べていたら、搭乗の時間になった。

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旅のまとめ 2018年10月4日~11月16日 マレーシア→ヨルダン→イスラエル→レバノン→イラク→フィリピン

(1)フライト一覧(航空料金)

【フライト一覧】

 ①10月04日/エアアジア   D7523  羽田 23:45 → クアラルンプル +5:55  23,900円(①+②)
 ②10月05日/エアアジア   AK47  クアラルンプル 20:55 → コロンボ 21:55 
 ③10月06日/エアアラビア  G9504 コロンボ 3:50  → シャルジャ   6:45    20,009円(③+④)
 ④10月06日/エアアラビア  G9337 シャルジャ  8:15 →  アンマン  10:25 
 ⑤10月20日/ペガサスエアライン  PC784 ベングリオン 15:15 → サビハ・ギョクチェン 17:30 28,516円 (⑤+⑥) 
 ⑥10月20日/ペガサスエアライン   PC862 サビハ・ギョクチェン 21:35 → ベイルート   23:25 
 ⑦10月26日/カタール航空  QR419 ベイルート 1:35 → ドーハ 5:35     26,778円(⑦+⑧)
 ⑧10月26日/カタール航空  QR452 ドーハ  8:00 →  エルビル  10:35  
 ⑨10月30日/フライドバイ   FZ202 エルビル 10:40 →  ドバイ(T2)  14:45    25,267円    
 ⑩10月30日/セブパシフィック 5J015  ドバイ(T1) 23:30 → マニラ(T3)  +12:25  16,608円
 ⑪11月01日/セブパシフィック 5J851  マニラ(T3)  5:35 → サンボアンガ   7:25   6,104円
 ⑫11月16日/セブパシフィック 5J5054 マニラ(T3)   6:15 → 成田  11:35        11,564円      

                                           合計  158,836円

  ↑⑪はフィリピン国内線

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【航空券の購入先】

 ①②   → □ エアアジアX  
 ③④  →   △ kiwi.com    
 ⑤⑥⑦⑧→   △ Mytrip.com  
 ⑨    → □ フライドバイ  
 ⑩⑪⑫  → △ trip.com    

   □印は航空会社
   △印は旅行会社

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(2)綱渡りの出入国【イスラエル→(トルコ)→レバノン→イラク】

 kiwi.comのチケットは3枚あった。1枚目はコロンボ・シャルジャ間、2枚目はシャルジャ・アンマン間、3枚目は1枚目と2枚目をまとめたもの(2区間分)である。

 Mytrip.comで購入したチケットは1枚に2区間がまとめられたものだけだった。ベングリオン(イスラエル)・サビハ・ギョクチェン(トルコ)間とサビハ・ギョクチェン・ベイルート(レバノン)間が1枚におさまっていた。2区間が1枚にまとまっているのはノーマルなのであるが、内容は「イスラエル発(トルコ経由)レバノン行き」である。購入した私が書くのも何であるが、こういうチケットが存在してよいのか!

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 2018年10月現在、イスラエルとレバノンの陸路国境はふさがっている。両国間に国交はないのだから当たり前である。チケットが1枚であるということは航空会社がその移動を認めていることになるわけだが、一方で、チェックインカウンターとイミグレーションでそのチケットを持つ私がどういう扱い方をされるかはわからない。つまり無事出入国できるかどうかがわからない。

 もっともパスポート番号とフライトはリンクされているので、航空会社のチェックインカウンターでチケットはほとんど用を成さない。

 ヨルダンからイスラエルへの陸路国境越え(キングフセイン橋)では「別室ではない場所で待機」になったが、あらかじめ情報に接していたので、想定内だったといっていい。

 しかし[イスラエル→(トルコ)→レバノン→イラク]の空路出入国で、どういう扱いをされるかを想定することはできなかった。

 案の定、下の3ヶ所で引っ掛かった。

 (A)ベングリオン空港(イスラエル) 出国時のチェックインカウンター
 (B)ベイルート空港(レバノン)   入国時の税関
 (C)ベイルート空港         出国時のチェックインカウンター


(A)ベングリオン空港(イスラエル)出国時のチェックインカウンター
(C)ベイルート空港(レバノン)  出国時のチェックインカウンター

 (A)と(C)で航空会社のチェックインカウンターはまったく同じ動きをした。私の航空券を見たスタッフが上司に相談し、上司は別の誰かに電話をした。さらに別のスタッフが私に日本までのチケットを要求してきた。(C)ベイルートのチェックインカウンターはあまりに見事に(A)テルアビブのチェックインカウンターの対応を再現した。(A)は10月20日、(C)は10月25日の旅日記に詳述している。

 (A)ベングリオン空港ではこの面倒くさい客をスルーしてしまうことに決めたようだった。トルコ経由で国交のない敵国レバノンに向かう私をイスラエルは出国させた。面倒くさい質問がきたら「トルコに入国してからレバノンに行く」と言うつもりでいた。断固としてトルコ行きであることを主張する以外に手段はない(そうなると搭乗券を2枚もらえない)。

 (A)ベングリオン空港の経験は役に立った。(C)ベイルート空港のチェックインカウンターでは緊張しなかった。


(B)ベイルート空港(レバノン)入国時の税関

 パスポートにイスラエルのスタンプがある乗客を入国させない。それはベイルートを攻撃されたレバノンの決意である。しかし今、イスラエル入国にあたってスタンプは押されない。

 その代わりにイスラエルの入出国で4種類のものをもらった。

 (a)入国許可証
 (b)出国許可証
 (c)入国時にパスポートに貼られたシール
 (d)出国時にパスポートに貼られたシール

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 イスラエルを出国したあとで、(c)と(d)の「パスポートに貼られたシール」をパスポートからはがした。(a)「入国許可証」と(b)「出国許可証」は別紙である。(a)(b) (c)(d)の全部をリュックの底に隠した。パスポートを見ただけではイスラエルにいたことは証明できない。

 しかし、これでよし、とはならなかった。飛行機(ペガサスエアラインPC862)のなかで配られたレバノンの入国カードに「Coming from」の欄があった。「トルコ」(飛行機の経由地)と記入した。

 レバノンのイミグレーションでは「どこから来たのか?」と質問された。「トルコ」と答えたらパスできた。

 ほっとした。税関を通過しようとした。

 税関で同じ質問をされるとは思わなかった。また「どこから来たのか?」と質問された。

 「トルコ」と答えたら、「その前は?」と聞かれたので「日本」と答えた。鋭すぎる質問に危険極まりない回答をしてしまった。

 日本→マレーシア→スリランカ→(UAE)→ヨルダン→イスラエル→(トルコ)→レバノンを移動してきた(UAE、トルコには入国していない)。日本は、すごろくの振出しの地である。まったく出鱈目ではないけれど、真摯な回答とはいえない。「マレーシア→スリランカ→(UAE)→ヨルダン→イスラエル」を削除している。

 しかし都合のよい事実をうまく切り取らないとやっかいなことになるので仕方がない。真摯な回答はエルサレムに置いてきた。正確にいうならトルコには入国していないので、辻褄は合っていない。税関スタッフがパスポートをチェックし始めれば、2014年のトルコ入国と出国のスタンプにたどり着くだろう。

 トルコの前に滞在したのは「イスラエル」であると答えたらレッドカードで即退場ある。チケットを見せろと言われても、終わりである。Mytrip.comで購入したチケットは1枚に2区間がまとめられた、あってはならない「イスラエルから(トルコ経由)レバノン行き」である。

 レッドカードの場合、レバノンを出る航空券を買わされ、放り出される。しかし次の行き先はカタール経由のイラクである。やっかいの上にやっかいが被さってくる。

 「トルコの前は日本」と答えた「嘘」を税関スタッフは見破ったかもしれない。しかし、レバノン空港に到着する乗客はイスラエルに行っていないことになっている。パスポートに存在しないイスラエルの傷痕をわざわざあぶりだすのは面倒な仕事を増やすだけである、と解釈したのかもしれない。

 私はあっさり告白してやるつもりはないが、物証はすべてを語る。パスポートのスタンプの日付けを辿る、あるいはチケットを没収されれば終わりである。チケットを求められた場合、持っていないと答えたら、どうなるのだろう。ここからの推測は意味がない、そうならなかったのだから。


(3)宿泊について

(a)宿泊ホテル一覧

  1日目/10月04日 機内泊(エアアジアD7523)         
  2日目/10月05日 機内泊(エアアラビアG9504)          
  3日目/10月06日 アカバ      シービーチホテル      2,657円×1泊(シングル)
  4日目/10月07日 ワデイムーサ  ペトラゲートホテル       1,435円×2泊(ドミトリー)
  5日目/10月08日 ワデイムーサ       〃
  6日目/10月09日 アンマン    ノーベルホテル          1,837円×3泊(シングル/朝食付) 
  7日目/10月10日 アンマン         〃
  8日目/10月11日 アンマン         〃
  9日目/10月12日 エルサレム   ステイインホステル      2,490円×3泊(ドミトリー) 
 10日目/10月13日 エルサレム        〃
 11日目/10月14日 エルサレム        〃
 12日目/10月15日 ハイファ    ジャーマンコロニーゲストハウス2,655円×2泊(シングル) 
 13日目/10月16日 ハイファ         〃
 14日目/10月17日 アッコー      エコ・アッコー       3,228円×1泊(ドミトリー) 
 15日目/10月18日 テルアビブ    ハイアーコン48ホステル    2,664円×2泊(ドミトリー/朝食付)
 16日目/10月19日 テルアビブ        〃
 17日目/10月20日 空港泊(ベイルート・ラフィク・ハリリ国際空港)  
 18日目/10月21日 ベイルート    エンバシーホテル       3,076円×1泊(シングル)
 19日目/10月22日 トリポリ     ホテル・コウラ       3,369円×1泊(シングル/朝食付)
 20日目/10月23日  ベイルート    タラルホテル        1,741円×2泊(ドミトリー)
 21日目/10月24日 ベイルート        〃
 22日目/10月25日 機内泊(カタール航空/QR419/ QR452)
 23日目/10月26日 エルビル      ローガルホテル       3,654円×4泊(トリプル/朝食付)
 24日目/10月27日 エルビル          〃
 25日目/10月28日 エルビル         〃
 26日目/10月29日 エルビル         〃
 27日目/10月30日 機内泊(セブパシフィック5J015)         
 28日目/10月31日 二ノイアキノ空港   ザ・ウィングス         2,100円×1泊(カプセル7.5時間) 
 29日目/11月01日 サンボアンガ    ウィンセルスイーツ      2,489円×1泊(シングル)
 30日目/11月02日 デイプログ     GVホテル          1,518円×1泊(シングル)
 31日目/11月03日 イリガン      コジィイン        2,319円×1泊(ダブル)
 32日目/11月04日 カガヤン・デ・オロ ザロフトイン        2,400円×1泊(ダブル)
 33日目/11月05日 スリガオ        ビーペンション       1,920円×1泊(シングル)
 34日目/11月06日  フェリーターミナル泊(アレン)         
 35日目/11月07日 レガスピ       F2Mタワー        2,887円×1泊(ダブル)
 36日目/11月08日 バス泊(レガスピ・マニラ)                           
 37日目/11月09日 マニラ         ウェストマカティホテル  1,995円×2泊(シングル)  
 38日目/11月10日 マニラ            〃 
 39日目/11月11日 マニラ            〃          1,367円×1泊(シングル)
   (↑ウェストマカティホテル/2泊分を予約、その後1泊分を追加。部屋のタイプが違うため料金も異なる)
 40日目/11月12日 タール       ドリームウェーブホテルリメリ 3,120円×1泊(シングル)
 41日目/11月13日 タガイタイ      ジェイコブズ・ヒル     2,212円×2泊(シングル/朝食付)
 42日目/11月14日 タガイタイ         〃
 43日目/11月15日 二ノイアキノ空港   ザ・ウィングス        2,100円×1泊(カプセル7.5時間) 
 44日目/11月16日  ****                         

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(b)ホテルの選択基準/安宿とドミトリー

 安宿に泊まっているが、最安値ではない。

 洗濯をしたい場合はシングルを利用する。ドミトリーに洗濯機はあるが、洗面所での洗濯を禁止しているところがある。洗濯物を乾かす必要があるので2泊することが多くなる。

 都市部ではドミトリーが中心になる。地方にはドミトリーがないことが多い。

 ドミトリーに泊まる場合、ベッドのカーテンの有無、ベッド脇のコンセントの有無、室内のロッカーの有無はポイントとなる。コンセントの有無は説明には記載されていない。ベッド周辺を写した写真にコンセントらしきものがあるか、ベッドにカーテンが付いているか、室内写真にロッカーはあるかなどを写真から判断する(判断できないこともある)。夜遅く着く場合の、レセプションの24時間対応の有無をチェックし忘れてはいけない。

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(c)ヨルダン

 ホテル料金は高くない。


(d)イスラエル

 ホテル料金は高いが、探せば安いホステルを見つけることはできる。宿泊予定日の1週間ほど前にハイファ、アッコーのホテルを予約しようとしたところ、安いホテルはことごとく満室になっていた。


(e)レバノン

 ホテル数は少ない。一般に宿泊料金は高いが、バックパッカー系の宿を見つけることはできた。


(f)フィリピン

 サンボアンガ、マニラ、タール、タガイタイのホテルを予約したが、サンボアンガからマニラまでの、バス旅の途中では現地で探した。バスの到着時刻が読めなかったからである。久しぶりに旅らしい旅になった。


(g)ホテルの予約

 私の旅に「ホテルの予約」が入り込んできたのは2013年の終盤からである。旅の終わりのほうで航空券の予約をするケースが増えたことがきっかけだった。2014年の連続した138日の旅程のなかでは40泊程度を予約した。2015年からは予約をする割合がさらに増えた。

 ホテルを予約していくことに少なからず「負けた」感がある。何に負けたのかはわからないが、強いて言うなら「旅(の不安)に負けた」ということかもしれない。ホテルの予約をするということは、何月何日にその街に行くことを決めることになる。それは旅のなかでもっとも旅を感じる部分に掉さすことである。「流れる感じ」「流していく感じ」のどこかに自らピン止めするのがホテルの予約である。

 一度ピン止めをすると、キャンセル料の発生や変更手続きの面倒くささによって、ピン止めは固定されてしまう。そしてなし崩し的に旅を安定させる。旅人はみなそのことを自覚している。

 しかし世界は捨てたものではない。アフリカ、南米、アジアの田舎など、ピン止めさせない場所を世界はまだそれなりに残している。

     終

44日目 2018年11月16日 ニノイアキノ空港 成田空港

旅の終わりに向けて出発

 ニノイアキノ空港ターミナル3にあるカプセルホテル、ザ・ウィングスは宿泊客の滞在を実質7.5時間(名目8時間)に設定することで、客のチェックイン・アウトを1日3ローテーション分確保している。チェックイン時に指定されたチェックアウト時刻は1:15である。チェックインは昨日の17:45だったということである。

 セブパシフィック5J5054便の出発は6:15である。もっとゆっくりしていたいのだが、チェックアウト時刻を指定されているのだから仕方がない。チェックアウト時刻を考慮し、より遅い時刻にチェックインをすればいい話なのだが、満室の可能性がある。だからなんとなく頃合いを見計らってチェックインをしたら、こうなった。

 ザ・ウィングスのチェックアウトから航空会社のチェックインカウンターまで徒歩3分である。ドンムアン空港(バンコク)のアマリ・エアポートホテルと同じレベルの便利さである。

 荷物の規定が厳しく設定されているセブパシフィックのチェックインカウンターで荷物は計量されなかった。この旅で、荷物が計量されたのは出発の羽田空港エアアジアのカウンターだけである。

 欧州系の多くは10㎏、アジア系は7㎏というのがLCCの荷物制限の相場である。トルコのペガサスエアラインの8㎏はなかなかうまいところを重量制限の落としどころとしている。私の場合、8㎏だと問題ないが、7㎏制限では工夫を要する。今回は傘を持たない旅になった。傘を持っていかない、と語った友人の言葉が頭にあったのでそうしてみた。特に困ったわけではなかった。傘がなければ、雨のときに動かなければいいだけの話だった。この経験は今後の旅に役立つだろう。

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 セブパシフィック5J5054/ニノイアキノ空港(T3)  6:15 → 成田空港 11:35     

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秋の日本の日常にもどった

 5J5054便はほぼ定刻に成田空港に着いた。

 日本は秋だった。空港を行き交う人たちはみんな小奇麗な服装をしていた。整った人たちが節度ある態度で国際空港のなかを動いていた。

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 汚れた服を着ているが、電車のなかの隣りに座る人の顰蹙とはならないだろう。そういうレベルの汚さである。11月中旬の、素足にサンダルは目立っているが、10月31日のニノイアキノ空港でビーチサンダルを買わなかったのは成田空港から自宅までの移動を意識してのことである。私にもその程度の日本的配慮が備わっていることを誰か理解してくれるだろうか。

  to be continued

43日目 2018年11月15日 タガイタイ マニラ ニノイアキノ空港

タガイタイでコーヒー

 部屋で朝ご飯。コーヒーはインスタント。

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 ジェイコブヒルをチェックアウトした。

 1㎞歩いてスターバックスコーヒーに行くか、ジプニーかトライシクルでフォラ・モールに行き、モールのなかにあるコーヒービーンに行くか迷った。スターバックスコーヒーに行った場合、そのあともう一度、トライシクルでオリバレス・プラザに移動しなければならない。

 フォラ・モールに行くことにした。

 トライシクル/ジェイコブヒル・タガイタイの近く 9:00頃 → フォラ・モール前 9:10頃/料金40ペソ

 フォラ・モールの前に立った。予想していないわけではあったが、モールの開店時刻は10:00だった。コーヒービーンの開店も10:00ということになる。

 バス発着場の近くにあるマクドナルドに入った。

 下の写真の、左のほうからバスはやって来る。置かれたコーヒーの後ろをバスは通過し50mくらい先に停まる。バスのほとんどはマニラ行きだと思われる。5分くらいは停車するはずで、バスの通過を確認してからマクドナルドを出ても間に合うだろう。満席で乗れないことはないと思っている。

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バクラランへ

 コーヒーを飲んでいる間に3台ほどのバスが窓の外を通過していった。

 マクドナルドを出ることにした。

 バクララン(マニラ)行きのバスが停まっていた。後方から見たバスは新しそうに見えたが、外観が内部(内面)を保証しないのはバスも人間も同じである(←似たような文章をどこかに書いた)。2列×3列のバスだった。料金の安さはバスの内部を反映したものだった。プライスは裏切らない。

 バス/タガイタイ 10:00頃 → マニラ・バクララン 12:40頃(推定)/77ペソ

 低価格バスは本領を発揮した。バスは至るところで客を乗降させた。

 バス停では多くの物売りが乗り込んできて仕事に精を出していた。彼らの努力が営業成果につながるのなら物売り稼業はもう少し楽になるだろう。寄付を募るキリスト教徒も乗ってきた。フィリピンのバスのなかには経済問題、労働問題、貧困問題が詰まっている。

 普通に走ればタガイタイとマニラは2時間の距離であるが、渋滞に巻き込まれた場合は3時間かかる。そういう路線である。

 2時間40分でバクラランに着いたのは上出来である。ダスマリニャスの交差点を東に折れなかったからである。渋滞が日常茶飯事のアラバンを経由しないで済んだ。ダスマリニャスから北に走りImusを通過するコースはマニラまでの最短ルートである。途中から湾岸を南北に走るRadial Rd1に入り、スピードを上げた。初めて通る道路だったので少し興味深かった。


下車する場所の判断を誤った

 一度下車したことのあるバクラランで下車しなかったのは失敗だった。その先のエドゥサ通りでバスが右折すると思い込んでいた。右折したところで下車すると、パサイにもSMモール・オブ・アジアにもほんの少しだけ行きやすくなる。どちらもニノイアキノ空港のターミナル1、2へのバスが発着する場所がある。

 しかしバスは中央に車線変更し、陸橋の上を通過した。つまり右折せずに直進した。停まったのはロハス通りとエドゥサ通りの交差点から北に1㎞の場所だった。

 歩道橋を渡った左手にロードサイド店が集まった商業地があった。ニノイアキノ空港のターミナル2に向かうバスがその商業施設の真ん中を横切ったことがあった。

 下車したところでタクシーを捕まえてニノイアキノ空港のターミナル3に行くことはできたが、時間は十分にあった。それにこの辺りは勝手知ったる場所だった。

 ロハス通りとエドゥサ通りの交差点までの1㎞を歩いた。涼しかったタガイタイとは異なり、マニラは熱気を放出していた。

 途中に日本大使館があった。警備員に注意されたが、注意される前に1枚撮っていた。

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 ロハス通りとエドゥサ通りの交差点にあったバーガーキングで昼ご飯。一般にフィリピンの飲食店のレシートは長い。バーガーキングのレシートはとりわけ長かった。

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バクララン周辺でニノイアキノ空港ターミナル3行きのバスを探した

 エドゥサ通りを越えロハス通りを少し南に歩いた。歩道橋の手前がバス発着場である。11月11日Tさんといっしょにニノイアキノ空港ターミナル3から乗ったバスが停まった場所の反対車線である。

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 この場所でアラバン行きバスを探したことがあった。100mの間のどこにバスが着くかわからないので、バスがやってくるたびに走らされるやっかいな場所であるが、時間は十分にある。根気よく待ってみた。タガイタイ行きのバスがあった。それはそうだろう、さっきタガイタイからやって来たバスが反対側車線に停止したのだから。アラバンに行くジプニーも発着していた。

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 ニノイアキノ空港行きのバスは現れなかった。パサイ周辺のバス発着場は複雑怪奇である。1 つ1つ結び目を解きほぐしていく楽しさはある、しかし・・・

 心は折れてないが、暑さに負けた。この旅のチャレンジはこの時点ですべて終了である。


ニノイアキノ空港ターミナル3で

 タクシーでターミナル3に向かった。

 タクシー/バクララン(ロハス通り) 14:00過ぎ → ニノイアキノ空港ターミナル3 14:20頃/料金200ペソ

 時間をつぶすべきターミナル3のすべて(かどうかを知らないが)のレストラン、カフェにコンセントはない。

 コンセントがあるカフェを1軒だけ知っている。

 ターミナル3の4階からランウェイ・マニラ・フットブリッジを歩いた。ニノイアキノ空港の滑走路付近とターミナル3の正面入り口付近を眺めることのできる連絡通路である。

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 ランウェイ・マニラ・フットブリッジを渡り終えたところはワールドリゾートマニラである。その一画にあるベルモントホテルの建物1階にはスターバックスコーヒーがある。10月31日に来たところである。ビジネス的だが、ゆったりした雰囲気を感じるのは天井が高いからである。スターバックコーヒーのくせにWifiの設備はないが、そのほうが旅日記に集中できる。

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2度目のザ・ウィングス(カプセルホテル)

 ターミナル3にもどった。4階のマクドナルドに向かって左側奥にあるザ・ウィングスにチェックインした。10月31日に泊まったカプセルホテルである。

 チェックイン時刻から7時間半滞在できる。カプセル内にコンセントがありWifiを使える。コーヒーは飲み放題で、サンドイッチとビスケットもある。シャワー室の着替えスペースなど改善点はあるが、滞在7.5時間の料金は1,000ペソである。

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 早朝便に乗るため空港近くのホテルに宿泊し慌ただしい朝を迎えるより、ずっと便利である。

42日目 2018年11月14日 タガイタイ

ジェイコブズ・ヒルはわりとリゾート風

 タガイタイは高原リゾートであるが、昼間は冷房があったほうがいい。しかし明け方はかなり冷えた。フィリピンで体験した初めての冷気である。それは2013年の避暑地バギオでさえ感じなかったものである。

 朝ご飯が部屋に運ばれた。ここ数年の海外の旅で、部屋で朝食を取ることができたのはポートモレスビー(パプアニューギニア)とアンヘレス(フィリピン)だけである。ご飯がうまかった。フィリピンでそう感じたのは初めてかもしれない。

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 あちこちが古びているジェイコブズ・ヒルだが、ほのかなリゾート感があった。朝食を準備してくれたフィリピン人のおばさんの気楽な雰囲気がゆったりした朝を演出していた。

 朝ご飯を食べたあと、少し寝てしまった。

 行ってみたいところが1つあるが、その前にコーヒーをもう1杯飲みたい。朝食のコーヒーはインスタントだった。

 昨日オリバレス・プラザ前から乗ったトライシクルの走行中に、スターバックスコーヒーを見つけていた。ジェイコブズ・ヒルから1.2㎞ほど西にあった。

 10:00前ジェイコブズ・ヒルを出た。部屋を出る前、掃除をしていいかと聞かれた。お願いした。

 タガイタイ・カランバ・ロードを西に歩いた。道路沿いに別荘がいくつかあった。

 途中にいくつものビューポイントはあった。朝の空気は澄んでおり、見慣れてしまったタール湖とタール火山も昨日よりは映えていた。

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世界最高水準のスターバックスコーヒー

 COUNTRY SUITES(リゾートホテル)の隣にあった。

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 グーグルマップで支店名が表示されていないスターバックスコーヒーは、店舗の横に大きな駐車場が確保されていた。傾斜地がほとんどである、タガイタイ・カランバ・ロードの南側にあって、平面の土地を確保するため造成をしたと思われる。

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 店内は広くゆったりとしていた。ここまでのゆったり感は日本のスターバックスコーヒーにないものだった。傾斜地を利用した地下にも席は多くあった。

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 コンセントは多く用意されているが、Wifiはなかった。ワールドリゾートマニラにあるスターバックスコーヒーにもWifiはなかった。Wifiが普及しているフィリピンではむしろ不思議である。

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 店内からはもちろんタール湖とタール火山が見えた。眺望の効く場所を選んで出店したのだから。

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 日本国内では富山環水公園店や福岡大濠公園店がよいということになっているが、この店は、世界一のスターバックスコーヒーを選ぶ際にノミネートされていいだろう。

 グーグルマップで確認するとタガイタイにスターバックスコーヒーは6店あるらしく、タガイタイ・カランバ・ロードとタガイタイ・ナスグブ・ハイウェイ沿いに4店確認できた。4店からはタール湖とタール火山が見えるはずである。


タガイタイ・カランバ・ロードを西へ

 スターバックスコーヒーを出たところにあるタガイタイ・カランバ・ロードをジプニーは頻繁に走っていた。やって来るジプニーを片端から捕まえては、カレルエガ教会に行きたいことを伝えた。

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 予想したとおりだった。すべてのジプニーはオリバレス・プラザ止まりだった。オリバレス・プラザはタガイタイのへそなので仕方がない。

 ジプニーを捕まえては乗ることのできない私のところにトライシクルは何台も寄ってきた。

 トライシクルを断ったのは私ではない。行き先がカレルエガ教会であることを確認したトライシクルは自ら去っていった。グーグルマップでは22㎞ほど離れている。

 ジプニーかトライシクルでオリバレス・プラザまで行き、マニラからやって来るナスブ行きかタール行きのバスを捕まえる手もある。

 タガイタイ・カランバ・ロードでジプニーを待つこと40分、もうジプニーは来ないんじゃないかと思い始めた頃、バスがやってきたことに驚いた。どこから来たバスなのかわからなかったが、ナスブ行きだった。

 バス/スターバックスコーヒー前 11:50頃 → カレルエガ教会から2㎞地点 12:40 頃/料金33ペソ

 タガイタイ・カランバ・ロードはオリバレス・プラザまでの道路の名称である。オリバレス・プラザから西はタガイタイ・ナスブ・ハイウェイとなる。ハイウェイでもロードでも道路状況は変わらない。


カレルエガ教会までの楽しい道のり

 バスを下車したところはナスブ方面とタール方面への分岐点である。タガイタイとナスブの中間地点でもある。トライシクルが何台も待機しており誘ってきたが、断った。

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 暑さは気になるが、2㎞ほどを歩くことにした。

 道は広かったが、途中から舗装がなくなった。

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 「丘のうえの教会」があった。奥のほうで結婚式が行われているようだった。

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 露店があり、

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 ゴルフ場が見えた。

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 閉鎖された宿泊施設らしきものもあった。

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 のんびりと楽しい散歩になった。カレルエガ教会までの往路で、車、トライシクル、バイク合わせて10台ほどが行き交ったが、歩いているのは私だけだった。

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結婚式場としてのカレルエガ教会

 カレルエガ教会は小高い丘の上にあった。入口付近には土産物屋があった。途中の道で車の往来はほとんどなかったのに駐車スペースには30台ほどの車が並べられていた。

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 入場料30ペソを払い教会に入った。最近、欧州の教会が博物館を併設し、入場料を取る傾向にあるが、フィリピンの教会で入場料を払った記憶がない。

 カレルエガ教会では音楽や礼拝などのワークショップが催されたり、キャンプなどのアクティビティが開催できるらしい。教会の機能としては一般的だが、地元に密着した感じはない。周辺に人は住んでいないので地元に密着しようがない。利用者はマニラからやって来るようである。

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 周辺の風景はきれいだし、敷地内の石畳や庭は手入れされていた。お洒落な結婚式会場といった雰囲気である。

 教会内には大きなステンドグラスがあった。絵柄は少し幻想的である。これから結婚式が始まろうとしており、スタッフが花の準備をしていた。そのあとドレス姿の花嫁が付き添いの人と階段を上がっていった。結婚式に出席する人たちも教会に入っていった。

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 フィリピンの教会巡りは私のちょっとした楽しみだった。ダラガ教会(ダラガ)、サン・オウガスチン(パオアイ)、一昨日行ったタール大聖堂(タール)など、ときおり素晴らしい教会に遭遇してきたが、カレルエガ教会は様相が異なった。お洒落な結婚式場やパーティ施設を見にきたわけではないので、かなりがっかりした。

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のんびり復路

 ジプニーは走っておらず、教会前にトライシクルは1台も待機していなかった。みんな車でやって来る。トライシクルの出番はほとんどない。

 歩くしかないので歩いた。往路復路合わせて4㎞の道のりを歩いていたのは私だけだった。

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バスでオリバレス・プラザへ

 タガイタイ・ナスブ・ハイウェイに出た。文字通りタガイタイとナスブを結ぶ幹線道路である。

 十数台のトライシクルのなかにジプニーが1台止まっていた。そのジプニーに乗ろうとしたとき、パサイ(マニラ)行きのバスがやって来た。タガイタイに停まるというのでバスに乗車した。ジプニーは25ペソだったが、バスのほうが高かった

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 バス/カレルエガ教会から2㎞地点 15:00頃 →  オリバレス・プラザ 15:40頃/料金28ペソ

 タガイタイからカレルエガ教会に向かったとき(行き)のバスの運賃は33ペソだった。運賃の差はバス会社が異なるからである。

 タガイタイまで28ペソで乗れる(帰りの)バスは途中、幹線道路を外れただけでなく停まる回数はやたら多かった。このバスでパサイ(マニラ)まで行くのは嫌である、そう思わせるバスだった。

 オリバレス・プラザで下車した。


オリバレス・プラザで

 今日も、昨日入ったフォラ・モールに入った。オリバレス・プラザ周辺にマクドナルド、チョーキン、イナサルはあるが、それ以外にちょっとした店を探そうと思うと、このモールに入るしかない。

 韓国料理店でビビンバを注文した。フィリピンに入国してからの食事で、ご飯を食べるようになったが、未だ馴染めていない。具材よりも米がうまかった。

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 インフィニティにするかコーヒービーンに入るかで迷った。コーヒービーンで大きなカップに並々と注がれたカプチーノはうまかった。明日また来るかもしれない。

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 オリバレス・プラザ周辺でやることはもうなかった。ジェイコブズ・ヒルにもどることにする。トライシクルは乗る場所によっては料金50ペソが40ペソになることがわかった。

 トライシクル/オリバレス・プラザ 18:10頃 → ジェイコブズ・ヒル前 18:20頃/料金40ペソ


ジェイコブズ・ヒルの停電

 夜、停電になった。シャワーを浴び、やるべきことを一通り終えたあとだったので困ったことはなかった。ジェイコブズ・ヒルに予備電源がないことが判明した。

 すぐに復旧するだろうという期待はフィリピンでは禁物である。タグビラランでは町中の電気が一晩中消えていた。10m先の建物がわからなかったが、マクドナルドの灯りだけは点いており誘蛾灯のように人を集めていた。

 ジェイコブズ・ヒルでの停電は2時間ほどで復旧した。

 フィリピンの地方での停電頻度はキリバスやパキスタンよりは低い。

41日目 2018年11月13日 タガイタイ

タガイタイへ

 ドリームウェーブホテル・レメリはXentro モール・リメリのなかにある。モールのなかで開いていたのはマクドナルドとイナサルだけだった。モールの外にあるジョリビーは開いていた。

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 マクドナルドで朝ご飯。

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 コーヒーをテイクアウトしてきた。しばらくホテルの部屋で過ごし、11:00前にチェックアウトした。

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 Xentro モール・リメリの真正面にDLTBバスターミナルがある。昨夜、タガイタイ行きのバスの有無について確認しておいたが、マニラ行き(クバオ行きなど)のバスは途中のタガイタイでは停車しないと言われた。

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 タガイタイに行くにはトランスポートしかないらしい。

 周辺をうろうろしたが、発着場所を見つけることができなかった。

 仕方なくDLTBバスターミナルにもどってきたとき、バスターミナルの隣の隣の空いているスペースに車が1台停まっていた。それがタガイタイ行きのトランスポートだった。さっき通ったときは車がなかったので素通りしてしまった。

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 トランスポートのなかで出発を待った。暑かったからである。50分ほど待たされた。

 グーグルマップ上での距離は50㎞ほどなのにタガイタイまでの料金は高かった。

 トランスポート/Xentro モール・リメリ前 11:00頃 → オリバレス・プラザ 12:50前/料金140ペソ

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 車窓のところどころでタール湖とタール火山が見えた。美しい景色である。

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 トランスポートのドライバーに、宿泊先であるジェイコブズ・ヒルの場所をグーグルマップで示したが、そこまで行かないらしい。トランスポートの終点はオリバレス・プラザである。

 オリバレス・プラザで下車した。


ジェイコブズ・ヒルにチェックイン

 タガイタイの中心である。周辺をざっと歩いたが、おもしろそうな場所ではなかった。それにまた来ることになる。ジェイコブズ・ヒルに向かうことにした。

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 タガイタイ・カランバ・ロードを東に向かうジプニーのドライバーも10人ほどいた乗客たちも誰1人、ジェイコブズ・ヒルというホテルを知らなかった。

 グーグルマップの位置情報をオンにした。ジェイコブズ・ヒルの近くで下車した。

 ジプニー/オリバレス・プラザ 13:30頃 → ジェイコブズ・ヒル近く 13:40頃/料金10ペソ

 ジェイコブズ・ヒルはリゾート風のペンションだった。若いオーナーは親切そうではなかったが、その下で働いているおばさんは明るく気さくな感じだった。

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 ジェイコブズ・ヒルからタール湖とタール火山が見えた。下のほうにあるホテルが景色を邪魔していたけれど。

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 部屋で少し休んだあと、外に出た。

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ジェイコブズ・ヒル周辺を歩いた

 タガイタイ・カランバ・ロードを渡ったところに花市場があった。

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 花市場の隣に果物市場があった。花市場では花しか売られていなかったが、果物市場で売られていたのは果物だけではなかった。

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 2つの市場の近くに3軒の食堂があった。そのうちの1軒で昼ご飯。

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 市場以外にジェイコブズ・ヒル周辺でおもしろそうなところはなかった。

 タール湖とタール火山はタガイタイの多くの場所から見ることができる。タール湖とタール山を見るのに適した場所であるタガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックスやピープルズ・パークに行く必要を感じないが、せっかくタガイタイまで来たのだからどちらか1つに行ってみることにした。

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 数台のトライシクルが代わる代わる誘ってきた。最初彼らの誘いを断っていたが、ジプニーはなかなかやって来なかった。仕方ない、トライシクルで行くことにした。

 トライシクル/ジェイコブズ・ヒル近く 15:00頃 → タガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックス 15:10頃/料金50ペソ

 トライシクルはタガイタイ・カランバ・ハイウェイを東北方向に走った。


タガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックスで

 タガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックスに着いた。多くの観光客が来るのだろう、多くのトライシクルが客待ちをしていた。

 タール湖とタール火山が見えるように山の斜面が公園になっている。土産物屋は何軒かあったが、施設全体は古かった。

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 キャンプ施設、ジップラインなどがあった。ジップラインをやっている人はいなかったが、何もない公園でフィリピン人たちは本当に楽しそうにしていた。

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 ボートで湖のなかのタール火山の麓まで行き、馬に乗りタール火山を上ることができるらしい。タール火山はカルデラ湖である。火山の周囲から内側の湖を見ることができるらしい。遊びに来ていた家族連れからそのようなことを教えてもらった。行くとなれば、おそらく半日以上はかかるだろう。

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 タール湖とタール火山を眺めるだけなら1時間もあれば十分である。それにトランスポートの車窓やジェイコブズ・ヒルから見た景色と変わらない。

 タガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックスを出た。

 やはりトライシクルしかないとあきらめかけていたとき、運よくジプニーが通りかかった。

 ジプニー/タガイタイ・ピクニック・グローブ・コンプレックス前 16:30頃 → オリバレス・プラザ 16:45頃/料金10ペソ        


オリバレス・プラザで      

 ジェイコブズ・ヒルの前で下車しなかった。オリバレス・プラザに着いた。

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 オリバレス・プラザからもタール湖とタール火山は見えた。要するにタガイタイのどこからでもタール湖とタール火山は見える。

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 オリバレス・プラザにあるフォラ・モールに入ってみた。スーパーマーケット、ファストフード系のレストラン、シネマが入居していたが、流行っているようではなかった。インフィニティがあった。トゥゲガラオとマニラで入ったことのある、紅茶を中心としたカフェである。

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 フォラ・モールには開業準備中のユニクロがあった。すでに50店ほどを展開し、まもなくアヤラ(マニラ)に東南アジア最大の旗艦店ができる。ユニクロはフィリピンで快進撃を続けている。

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 スーパーマーケットでパンと菓子を買って、トライシクルに乗った。


ジェイコブズ・ヒルにもどった

 トライシクル/オリバレス・プラザ 18:10頃 → ジェイコブズ・ヒル前 18:20頃/料金50ペソ

 下の1枚はジェイコブズ・ヒルから撮った、陽が落ちたタール湖とタール火山。

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 深夜、雨は降らなかった。

40日目 2018年11月12日 マニラ ナスブ タール

DLTB(デルモンテランドトランスポート)のバスターミナルで

 ZENルームズ・ウエストマカティホテルをチェックアウトした。少し歩いたところでジプニーを拾いビト・クルス駅に向かった。

 ジプニー/ZENルームズ・ウエストマカティホテルの近く 7:00頃 → LRT・Line1ビト・クルス駅前 7:10頃/料金9ペソ

 ビト・クルス駅からLRT・Line1に乗り、1つ南にあるヒル・ブヤット駅で下車した。

 LRT・Line1/ビト・クルス 7:30頃 → ヒル・ブヤット 7:50頃/料金15ペソ

 ヒル・ブット駅のホームからバス会社が見えていた。DLTB(デルモンテランドトランスポート)バスターミナルはすぐに見つかった。

 2002年にはパサイにあるBSCトランスポートのバスに乗ったが、数日前にDLTB(デルモンテランドトランスポート)バスターミナルからナスブ行きのバスが出ている情報を見つけた。パサイに行くよりは近いのでヒル・ブヤットに来てみた。

 他の路線のバスは次々と着発していたが、ナスブ行きだけはやって来なかった。トラブルがあったようだ。発車を待つ人の列は最初1列だったが、折り返しを重ね3列になった。待っている人が100人くらいになったときバスはやってきた。待ったのは1時間半である。

 バスの前面に「ナスブ行き」の表示はなかった。「タガイタイ行き」となっていた。タガイタイは途中の街である。15番目くらいに並んでいた私は乗車時にそのことを尋ねた。車掌は「ナスブには行かない」と言った。タガイタイまで行って乗り継ぐかナスブ行きのバスを待つかを一瞬、躊躇した。車掌の声を聞いたらしい、すでに乗り込んでいた人たちのなかからクレームがあがった。こんなに待ったのになぜナスブに行かないのか、という内容のクレームである。この日ナスブ行きのバスの運行だけが乱れていた。

 DLTB(デルモンテランドトランスポート)がこのバスの運行予定を変更したのかどうかはわからない。バスはナスブに行くことになった。タガイタイに行く人もナスブに行く人もみんなバスに乗車した。乗車する順番は守られていた。立つことを条件にバスに乗り込んだ人たちもいた。残された人たちは次のバスを待つことになった。

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ナスブへ

 デルモンテランドトランスポート・バス/マニラ ヒル・ブヤット 9:30頃 → ナスブ 12:30頃/料金160ペソ

 バスはマニラの渋滞のなかをのろのろと進んだが、アラバンを過ぎてからは順調に走った。

 ダスマリニャスが近づいてからは乗降者が多くなった。バスは停車と発車を繰り返した。  

 乗客の多くはタガイタイに着くまでに下車していった。タガイタイを過ぎても乗っていたのは1/4ぐらいだった。

 車窓左手にタール湖とタール火山が見え隠れしていた。美しい景色だが、写真を撮らなかった。タガイタイには明日また来ることになる。

 バスはすんなりとナスブに向かったのではなかった。西北に走っていたバスはナスブに入る手前で一度南に方向を変えた。私は慌てた。ドライバー席に行き、ナスブに行かないのかを尋ねた。リアンに寄ったあとで折り返しナスブに向かうという返事だった。


ナスブを歩いた

 ナスブに着いた。

 16年前のナスブは海沿いにバンガローのようなホテルが並んでいたが、内陸側の、町の中心付近は賑やかでなかったと記憶している。記憶が変質したのか、町が発展したのかはわからない。南北に走るJPローレル・ストリートの両側には店が並び、町はわりと賑わっていた。

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 JPローレル・ストリートの西側の一画にナスブ・パブリック・マーケットがあった。まったく記憶にないが、昔からあったのは間違いない。かなりくたびれたマーケットである。

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 フィリピンのマーケットの雰囲気はどこも似ている。

 JPローレル・ストリートの西1㎞ほどのところにあるビーチまで歩いた。

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 下の2枚は2002年10月29日のナスブのビーチ沿い。

ナスブ5

ナスブ3

 ホテルやペンションの数は減ったと思われる。ビーチ沿いに人はいなかった。まるで活気を感じなかった。

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 「マッカーサーの上陸記念碑」を思わせる像があった。これはまったく記憶にない。

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 下の1枚は、2013年8月2日に撮ったタクロバンの「マッカーサーの上陸記念碑」。

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 JPローレル・ストリートにもどった。

 数日前はナスブに宿泊することも考えていたが、止めた。予約サイトのホテル料金はどこも高かった。

 タールへの移動手段を探さなくてはならない。DLTB(デルモンテランドトランスポート)バスがタールに行かないことを、バスを下車したときに確認してあった。

 町の中心であるジョリビー、セブンイレブンからJPローレル・ストリートを南に行ったところにミンダナオ・エクスプレスのバス発着場があったが、タール行きのバスはなかった。

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 その向かいからトランスポートが発着していた。タール行きがあった。

 10人になったら出発するらしい。3人ほど乗っていたが、すぐに人が集まるとは思えなかった。簡単な食事くらいはできるだろう。ジョリビーで昼ご飯を食べた。

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 急いでもどった。トランスポートは発車間際だった。


タールへ

 トランスポート/ナスブ14:00頃 → タール 15:10頃(推定)/料金76ペソ
 
 ナスブからタールに向かう道路は2本あった。距離がある海側と海側より直線的にタールに向かう山側のルートである。トランスポートは山側の道を抜け、MH17を南東に走った。

 予約しているドリームウェーブホテル・レメリをトランスポートのなかの誰もが知っていた。モールのなかにあるホテルだという。

 1時間10分ほどでXentro モール・リメリに着いた。その建物内にあるドリームウェーブホテル・レメリにチェックインした。レセプションから長い廊下を抜けたところに部屋があった。

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 陽が暮れるまで少し時間がある。部屋にリュックを置きタールに向かうことにした。

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 ジプニーはなかなかやってこなかった。トライシクルで行くことにした。

 トライシクル/ドリームウェーブホテル・レメリ前 15:40頃 → タール大聖堂前 15:50頃/料金50ペソ


喪失の町タール

 トライシクルはMH17を少し走ったあと、タールの裏道の未舗装道路をガタガタと走った。そしていきなりタール大聖堂の前に出た。

 タール大聖堂は小高い丘の上に建っている。サンマーチン・バシリカ聖堂ともいわれている。東洋のカトリック教会建築では最大規模(全幅96メートル、奥行き45メートル)だったが、1754年のタール火山の噴火、1849年の地震などで幾度か破壊された。現在の建物は1856年に再建されたものである。

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 古い教会巡りはフィリピンの旅の楽しみの1つである。熱心に教会に通うフィリピン人を見るたびに、アジアの哀しみを感じてしまう。

 タールの町はバラヤン湾からなだらかに上る斜面に作られた。1732年から1754年までのバダンガスの州都である。タールにはスペイン植民地時代の教会、スペイン様式の木造家屋、コロニアル風の石造りの家がある。かってはマニラに次ぐほど繁栄したが、タール火山の大噴火でタール湖は堰き止められ、町は水没した。

 そのあとタールは州都をバタンガスに譲ることになってしまった。

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 ガレリアタールは閉まっていた。スペイン統治時代に建てられた建築を改装し、希少なビンテージカメラを展示している。展示されてあるカメラに興味はないが、それらのカメラで撮った古いフィリピンの写真が展示されているらしい。それを見たかった。

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 聖母マリア・カイササイ教会(Church of Our Lady of Caysasay)はタール大聖堂の北東にある小さな教会である。私が入ったのは裏口からだった。ちょうど管理人が教会の表門を閉めようとしていたところだった。祭壇には高さ27センチの小さな木製マリア像が祭られているが、時間はなく追い出されるように教会を出た。

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 この日の夜、この教会を検索してみた。伝説があった。

 木製マリア像は1603年パンシピット川で漁師の網に掛かったものである。持ち帰ったマリア像を漁師が自宅に飾ると奇跡的なことが起こった。やがて町で特別の場所で祭ることになり、大切に保管された。しかしこのマリア像はどんなに厳重に保管しても時々消えてしまう。そして意外なところで発見される。あるときマリア像はまた失踪した。しばらくして2人の芝刈りの女性が泉に映るマリア像を見つけた。見上げると、マリア像はサンパーギの木の上にあり、その時カイササイという鳥がマリア像を見守っていた。以来、マリア像は「カイササイの聖女」と呼ばれるようになり、(何度か)発見された場所にはカイササイ教会が建てられた。教会にはその時の様子を描いた天井画が残されているそうだが、それも見ていない。

 まるでおとぎ話である。

 おとぎ話と対局にある話もある。フィリピンの国花サンパーギは、日本における桜のような存在である。小さな白い花を咲かせるサンパーギを売る少女たちがマニラにはいる。その少女たちからサンパーギを買ってはいけないという話がある。彼女たちはシンジケート(ヤクザ)に組み込まれていて、その資金源になるからである。

 タールはビガン(イロコス州)と対比され「リトルビガン」とも呼ばれている。下の2枚は2013年7月22日のビガン。

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 ビガンは華やかな観光地になっているが、タールは地味で素朴でちょっと鄙びている。タール大聖堂を含むタールの町全体が世界遺産に推薦されたことがあるが、落選した。

 ブリュージュはベルギーの街である。ローデンバックが小説『死都ブリュージュ』を書いた。福永武彦の小説『廃市』は柳川(福岡県)が舞台であるといわれているが、『死都ブリュージュ』をモデルにしているという説もある。大林宣彦は映画『廃市』を柳川でオールロケした。

 タールは喪失の町である。

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 夕暮れのタールを歩き、MH17沿いのチョーキンで夜ご飯。

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 トライシクルでドリームウェーブホテル・レメリにもどった。

 トライシクル/タール中心部 18:00頃 →  ドリームウェーブホテル・レメリ前 18:10頃/料金40ペソ

39日目 2018年11月11日 マニラ

タクシーでアヤラ(マカティ)へ

 アヤラに行こうということになった。マカティにあるマニラのお洒落エリアである。LRT・Line1とMRT・Line3を乗り継ぐのが普通の行き方であるが、かなり遠回りになる。その前に最寄り駅のビト・クルス駅まで1㎞ほど歩かなければならない。

 ZENルームズ・ウエストマカティホテルの名称には「マカティ」の文字が入っている。ウエストマカティホテルはその名のとおり、マカティ市に所在している。グーグルマップでMRT・Line3のアヤラ駅までは4㎞ほどで、アヤラの外周部のどこかで下車すれば3㎞程度の移動である。ジプニーで行くのにちょうどよい。

 ホテルの近くでジプニーを探したが、どのジプニーもアヤラには行かないという。場所を変えてみたが、ジプニーのドライバーの反応は似たようなものだった。遠くはないのだが、アヤラ中心部に向かうジプニーの路線がないのである。

 仕方がないのでタクシーに切り替えた。

 タクシー/ZENルームズ・ウエストマカティホテル近く 9:20頃 → アヤラ博物館 9:30頃/料金150ペソ

 気さくなドライバーだった。料金は低くないが、2人移動としてはまあまあの範囲に収まっている。

 下りたのはアヤラ博物館の前である。ガラス張りのモダンな建物である。フィリピンの歴史が学べるらしい。ここはマカティの外周部に当たる場所である。

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 マカティはメトロ・マニラを構成する市の1つである。だからマニラ市ではない。


ザ・ペニンシュラ・マニラで朝ご飯

 交差点の対角線にザ・ペニンシュラ・マニラが見えていたのに、地下通路に入ればいいのか、信号を渡ればよいのかわかりにくかった。

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 どうにかザ・ペニンシュラ・マニラに着いた。

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 内部のあちこちにクリスマスのデコレーションがあった。

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 カフェ「ザ・ロビー」に入った。宿泊客はビュッフェスタイルで朝ご飯を食べているようだ。用意されていた料理は豪華だった。

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 私たちはインターコンチネンタルのブレックファースト。

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 私たちのテーブルに付いた女性ウェイターは片言の日本語を話した。サービスは気が利いたものだった。単なる高級ホテルではなかった。一流ホテルを感じた。


アヤラでプレミアムエアポートバス[UBE Express]のバス停を探した

 ザ・ペニンシュラ・マニラを出た。アヤラ通りを挟んだ南側にはマカティ・シャングリラ(ホテル)がある。

 マカティの中心であるアヤラにはショッピングモールが揃っている。グロリエッタ、アヤラセンター、グリーンベルトモール、SMモールなどである。

 アヤラはまたビジネス街でもある。

 バス停を探しながらアヤラ通りを南西に歩いていたとき、行列のできている店があった。YABUは日本のとんかつ店で、今日オープンのようである。

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 探しているのはプレミアムエアポートバス[UBE Express]のバス停である。

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 ニノイアキノ空港からマニラ中心部へのアクセスは悪い。空港に乗り入れる鉄道はない。そういうなか2016年2月プレミアムエアポートバス[UBE Express]が誕生した。24人乗りというのは疑いなくプレミアムということだが、すべての路線で運転間隔がフリークエンシーというわけにはいかないようである。ルートは以下のとおりである。

 ①Entertainment City Route(30分間隔/5:00~24:00)
 ②Robinsons Route(2時間間隔/6:00~24:00)
 ③Makati Route(2時間間隔/6:00~20:00)
 ④Grand Prix Route(30分間隔/2:00~1:00)
 ⑤Atrium Route(2時間間隔/4:00~22:00)

 ③Makati Routeのバス停がグロリエッタの南側辺りにあるはずなのだが、みんなわからないという。

 二手に分かれて探してみたが、結果は同じだった。道路沿いにバスが頻繁に着発している大きなバス停があったが、そこではないらしい。


仕方なくジプニーでまずパサイまで行く

 パサイ行きのジプニーが見つかった。パサイからニノイアキノ空港のターミナル1と2に向かうバス停を知っている。仕方ないのでパサイに行くことにした。

 パサイに向けて走ったジプニーは思い通りの場所には着かなかった。途中で下車することになった。

 ジプニー/アヤラ 12:20頃 → Antonio.s Arnaizアベニュー 12:35頃/料金12ペソ

 Antonio.s Arnaizアベニューを西に少し歩いた。左に折れP.Zamoraに入った。そこから南に1㎞歩けばパサイである。

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 P.Zamoraの両側には2、3階程度の建物が連なっていた。多くは住居だが、地元の商店があちこちにあった。マニラの日常を垣間見ることができた。

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 この通りで300mほどの間、犬に付きまとわれることになった。私たちの何に興味を持ったのだろう?


パサイから路線バスでニノイアキノ空港ターミナル2へ

 P.Zamoraの出口にカバヤンホテルがあった。このホテルの前を何度か通ったことがあった。

 エドゥサ通りに出た。パサイを東西に貫く幹線道路である。西に行けばSMモール・オブ・アジアに突き当たる。東(北)に行けばアヤラ、オルティガス、クバオに至る。

 早朝を除いて、パサイからクバオまでのエドゥサ通りはいつも大渋滞になっている。渋滞にはまった一部のドライバーたちは道路に出て進行方向を眺めたりすることがある。下車したいとバスのドライバーに伝えれば、バス停でなくても下りることができる。パサイより東北側のエドゥサ通りにはMRT・line3が並走しているので、バスを下りてline3に乗り換えてしまうことができる。

 カバヤンホテル前には、前述のプレミアムエアポートバス[UBE Express]の④GRAND PRIX ROUTEのバス停があることを知っていた。そのバス停を見つければ、ニノイアキノ空港のターミナル3に直接行くことができる。

 それらしいものはなかった、やれやれ。

 高架になっているエドゥサ駅から続く歩道橋を渡り、エドゥサ通りを西(SMモール・オブ・アジアの方角)に歩いた。タクシー乗り場に着いた。そこはバス停である。バス停であることが想像できにくい場所なのだが、ここから空港行きのバスに乗ったことが2度あった。やって来るバスはターミナル1と2を経由する路線バスである。目的地であるターミナル3には行かない。

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 15分ほど待って、バスがやってきた。

 ターミナル1と2を周るバスのルートは3パターンほどあるが、どれに乗っても間違いなくターミナル1と2には着く。ターミナル1と2は同じ導線上にある.。

 バス/パサイ 13:30頃 → ニノイアキノ空港・ターミナル2 13:40頃/料金12ペソ+1ペソ

 2枚もらったチケットはそれぞれ12ペソと1ペソだった。1ペソ値上がりしたのかもしれない。

 この日乗ったバスはエドゥサ通りの西端にあるSMモール・オブ・アジアに立ち寄ったあと、ニノイアキノ空港に向かった。


ニノイアキノ空港ターミナル2からターミナル3へ/ターミナル間連絡バスは存在するのか 
 
 ターミナル2で下車した。ターミナル2に来たのは私にとってもTさんにとっても初めてである。ターミナルのなかを覗いてみたいが、目的はターミナル3である。関係ないことをしている間にターミナル間を走る連絡バスが行ってしまっては困る。

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 ニノイアキノ空港のターミナル間連絡バスについて詳細に書いてあるサイトを見たことがない。いくつかのサイトは当てにならなかった。30分間隔で動いていると記されているサイトには発着場所やそのバスの写真はアップされていなかった。私はターミナル1、3、4を利用したことはあるが、連絡バスを見たことがなかった。

 ターミナル2で連絡バスを待つ10人ほどの乗客がいた。待っていた場所は下の写真の、掲示板のある場所とは異なるところである。バスが到着するたび、みんな右往左往していた。誰かがそのほうに行くとそれに釣られて他の利用者も付いていくといった具合である。

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 40分ほど待ってようやくバスがやって来た。来てよかった、来ないかもしれないと思っていたくらいである。無料であるはずのバス料金は有料だった。

 ターミナル間連絡バス/ニノイアキノ空港ターミナル2 14:30頃  → ニノイアキノ空港ターミナル3 14:50頃/料金20ペソ

 ターミナル間連絡バスは一般道に出てから、ターミナル3に向かう道路に入った。そうだろうと思っていた。ターミナル間を結ぶ導線がグーグルマップ上にはないからである。

 Tさんはスマートフォンに海外SIMを入れている。グーグルマップはよく機能し、マニラは予想したより道路状況がはっきりわかるという。私は海外SIMを入れていないが、とくに問題はない。

 ターミナル3に着いた。ニノイアキノ空港で一番賑やかなターミナルである。アヤラからスタートして行程の95%ぐらいのところまでやって来た。


フィリピン空軍航空博物館は休館だった

 あと700mである。目的であるフィリピン空軍航空博物館はターミナル3の正面玄関の南西側にある。簡単に行けるだろうと思ったが、空港前の道路は交通の規制などがあるようで直接行けないようである。

 ベンチでTさんがフィリピン空軍航空博物館への行き方をネットで調べ始めたとき、今日が休館日であることがわかった。

 目的施設が閉まっていた、移転していたということはときどきある。ツアーではあってはならないことだが、私たちはアマチュアである。

 アマチュアの旅人は負け惜しみで思う「日曜日に閉まる博物館はおかしい!」。


ニノイアキノ空港ターミナル3のARMY NAVY BURGERで

 最初にターミナル3に来たのは、ブスアンガ島のコロンに行ったときである。セブ・パシフィックの国内線に乗った。2013年のことである。そのときは、まさか11月に895ヘクトパスカルの台風に直撃されるとは思わなかった。救援のためにやって来た日本の自衛隊はセブ経由でレイテ島に入った。

 このあとマニラ湾に夕日を見に行くことになっていたが、時間があったのでターミナル3を歩いた。

 11日前の10月31日に私が、2日前にはTさんが泊まったザ・ウィングス(カプセルホテル)はターミナル3にある。

 ARMY NAVY BURGERに入った。ハンバーガーはちょっと変わった味だった気もするが、そうでなかったかもしれない。よく覚えていない。久しぶりにコーラZeroを飲んだ。

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SMモール・オブ・アジアへ

 さてマニラ湾に向かうことにした。

 パサイからバクララン行きのバスに乗った。昨日の朝Tさんがバクラランまで乗ったバスである。

 バス/ニノイアキノ空港ターミナル・ターミナル3 16:20頃 → バクララン 16:40頃/20ペソ

 バスのルートをグーグルマップで見ていた。SMモール・オブ・アジアに向かってほしいが、そうでない場合、どこかで下りなければならない。バクラランのバス停を過ぎたところで、バスは右折した。それは予測していなかった方角である。右折はつまり、バスがエドゥサ通りをパサイに向かって走ることを意味する。

 慌てて下車した。

 エドゥサ通りの8車線を横断した、フィリピン人のように。いやフィリピン人でもそうするのは3%いないだろう。車が途切れなく両側に流れているなか、恐怖の横断だった。

 SMモール・オブ・アジアまでの距離は約1㎞。エドゥサ通りを西に急いだ。

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 目の前にSMモール・オブ・アジアが見えてきた。入口までの導線がわかりにくいのだが、私は2度来たことがあった。

 SMモール・オブ・アジアに入った。

(後日付記)

 靴の修理屋から事業をスタートしたSMグループの創業者ヘンリー・シーは2ヶ月半後の、2019年1月29日死去した。ダイエーの創業者中内功とダブってしまう。フィリピンの長者番付トップとして、米国経済誌フォーブスの常連だった。フィリピンの所得長者番付けは中国系フィリピン人が独占している。


 SMモール・オブ・アジアは巨大ショッピングモールである。なかを横断するのに数分かかった。

 歩道橋でシーサイド・ブールバードを跨いだ。ようやく見えたマニラ湾。

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マニラ湾の夕日

 日没には間に合った。急いだのは日没時刻を知らなかったからである。

 日曜日の夕刻、多くのフィリピン人が夕日を見るために集まっていた。

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 夕日を見るためにある場所に行ったのはプノンバケン丘(アンコールワット)以来かもしれない。

 日はゆっくりと落ちていった。

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 日没の瞬間、沖行く船がシルエットになった。美しいマニラの風景だった。

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夕日のあとの夜ご飯

 SMモール・オブ・アジアで食事処に困ることはない。しかし多くのレストランは満席だった。

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 とりあえずUCC VIENNA COFFEEに入った。コーヒーフラッペ。

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 BURGOOに入った。サラダ、シーフードパスタ、サーモンのグリルとほうれん草のソース、サンミゲルなどを注文した。どれもまあまあいける味だった。

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トランスポートでビト・クルス方面へ

 21:00を過ぎてBURGOOを出た。

 タクシーで帰るしかないと思われたが、たまたまビト・クルス方面に行くトランスポートを見つけることができた。

 トランスポート/SMモール・オブ・アジア 21:30頃 → 21:50頃/150ペソ?

 トランスポートはRoxas Boulevardを北上したが、途中で右折しなかった。つまりビト・クルス駅には行かなかった。

 駅に近いところで下ろしてもらった。


移動の最後は歩き
 
 ビト・クルス通りを東に歩いた。初めて歩く道だった。10分ほどでLRT・Line1のビト・クルス駅に着いた。

 そこからさらに東に15分ほど歩いた。

 South Super Hwyという大型トラックが猛スピードで突っ込んでくる幹線道路をなんとか横断した。道路のすぐ先にあったのはフィリピン国鉄の線路である。こちらのほうは、この時間帯の列車は動いていないようだ。

 LRT・Line1のビト・クルス駅と国鉄のビト・クルス駅の間にぱらぱらと食堂はあった。

 ZENルームズ・ウエストマカティホテルにもどってきた。食事と移動と夕日の1日が終わった。タクシー、ジプニー、バス3本、トランスポートを駆使した移動の合計は25㎞程度である。

 Tさんは明日の早朝、日本に帰ることになる。私の旅はもう少し続く。

38日目 2018年11月10日  マニラ

Tさん、マニラ到着

 メッセージが入った。バスに乗ったらしい。車内の写真が添付されていた。乗ったのはUBEエクスプレス(プレミアムエアポートバス)ではなさそうだ。

 少し経って次のメッセージが届いた「バクララン駅に着いた」。バクララン駅はLRT・Line1の起終点である。

 LRT・Line1のビト・クルス駅南東側のジョリビーの前で待ち合わせる約束をした。駅周辺にジョリビーはもう1軒ある。

 無事Tさんと待ち合わせることができた。いっしょにジプニーに乗った。Tさんはジプニーに乗るのは初めてらしい。フィリピンは2回目で、前回はセブ島を中心に旅したらしい。

 ジプニー/ビト・クルス駅 9:00頃 → ZENルームズ・ウエストマカティホテル近く 9:10頃/料金9ペソ

 ZENルームズ・ウエストマカティホテル正面の通りにジプニーは入ることができない。手前で下車し、少し歩いた。

 Tさんは時間前にチェックインさせてもらえなかった。昨日の私と同じである。荷物だけを預けることになった。レセプション前の椅子でマニラをどう周るか打ち合わせた。

 ZENルームズ・ウエストマカティホテルを出て少し歩き、再びジプニーに乗った。

 ジプニー/ZENルームズ・ウエストマカティホテル 10:00頃 → ビト・クルス駅 10:10頃/料金9ペソ

 ビト・クルス駅からLRT・Line1のルーズベルト行きに乗り、3駅目のUNアベニュー駅で下車した。

 LRT・Line1/ビト・クルス 10:30頃 → UNアベニュー 10:40頃/料金15ペソ


リサール公園へ

 T.M.カーラウ通りを西に歩いた。途中で右に折れリサール公園のなかに入った。周辺の道路はトライシクルの進入禁止区域になっているようだ。ジプニーもほとんど動いていなかった。小型の小奇麗なタクシーがこの辺りの移動を担っている。

 リサール公園は整備された公園だった。余計な装飾はなく、見晴らしはよい。ここがマニラであることを忘れてしまう雰囲気だが、長居はできない。5月ほど暑くないが、それでも30℃前後はある。

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 リサール公園という名称を持つ公園はフィリピンの至るところにある。

 リサール公園の西北にマニラホテルがあった。白を基調にして深緑の横線が入る外観は、アジアの名門コロニアルホテルのなかにあっては地味な部類に入るだろう。派手さに欠けるが、クラシカルでシンプルである。

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マニラホテルで朝ご飯

 マニラホテルのなかはクリスマスの装飾で溢れていた。日本のクリスマスはイベントだが、フィリピンはアジア唯一のカトリックの国である。日曜日の教会で祈るフィリピン人の姿は感動的ですらある。クリスマスの意味合いもまた日本とは異なるだろう。Tさんは装飾にえらく感動したようだった。

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 豪華なシャンデリアのあるラウンジのようなカフェで、ハワイアンピサ、ハロハロ(Tさん)を食べ、カプチーノを飲み、いろいろな話をした。

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 話の中心は旅である。いつものように、ということではない。Tさんと会うのは2、3年ぶりくらいである(そうではないかもしれない)。マニラホテルには随分長居してしまった。


イントラムロス

 南側の入口からイントラムロスに入った。3度目である。2000年に来たときは人がまばらにしか歩いていない、寂しい場所だった。2013年はすっかり観光地化されていた。カレッサ(馬車)が頻繁に行き来してたことに驚いた。

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 イントラムロスは1606年に完成された。スペイン統治下の政治、軍事、宗教の中心だった。ここにはスペイン人とスペイン系の住民だけが住む事を許されていた。だから今でもスペイン植民地時代の雰囲気が残っている。この街を復旧させたきっかけがイメルダ・マルコスであることは記憶しておいていい。

 イントラムロスは騒がしいマニラとは一線を画すエリアである。南北に走るルナ通りを西北に歩いた。

 シラヒス・アート&アーティファクトに入った。フィリピンに100あるといわれている民族の民芸品、アーティストの作品、書籍などが売られていたが、私たちが買ったのはアイスクリームである。

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 サン・オウガスチン教会はフィリピン石造建築の中で最も古い教会(1607年完成)である。「フィリピンのバロック様式教会群」の名称で世界遺産に登録された。

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 Tさんと私は「戦跡」を周るという予定を立てていたが、サン・オウガスチン教会はその1つでもある。イントラムロスのなかの建物は第二次世界大戦時に、米軍の攻撃で破壊された。サン・オウガスチン教会にも爆弾は直撃したが、倒壊を免れた。そのあとの地震や天災でも倒壊を免れ、「奇跡の教会」と呼ばれている。

 ルナ通りを挟んでサン・オウガスチン教会の向かい側にあるのがカーサ・マニラ博物館である。横を歩いただけである。
 
 マニラ大聖堂に入った。1571年の創建である。サン・オウガスチン教会より古い。第二次世界大戦で破壊されたが、再建された。ここも「戦跡」ということになる。ファザードは荘厳で、マニラの聖堂らしく立派である。

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 マニラ大聖堂前のローマ広場に野外の小さな図書館があった。本の持ち出し、返却ともにフリーのようだ。観光客にとってあまり関心のある場所ではないようだ。

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 ルナ通りから少し外れたところに菲華歴史博物館(フィリピンの華僑の歴史や生活をテーマにした博物館)があるが、立ち寄ったわけではない。

 周辺は官公庁街である。ソリアーノ・アベニューの西北側にはKFC、ジョリビーなどがあった。店の外装はチェーン店のそれではなく、イントラムロス仕様に、つまりクラシカルにアレンジされていた。

 イントラムロスの北にあるサンチャゴ要塞に入った。緑が多い公園でもある。

 前述のようにイントラムロスとサンチャゴ遺跡はスペインの植民地として始まった。スペインから独立したあと、米国が再び植民地化したが、日本が一時占領し日米両軍の戦闘の地となった。過酷な歴史を経て、ようやくフィリピンの財産となった。

 城塞のうえに上がった。パッシグ川が見えた。絶えず水草が浮いている川であるが、その量は少なかった。たまたま今日だけがそうなのか、上流の環境に変化があったのかはわからない。

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 サンチャゴ要塞に砲台があったはずである。そう記憶していたが、砲台はなかった、あるいは見つけることはできなかった。

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 LEGO educationによる「iMAKE HISTORY FORTRESS」が行われていた。マニラの建物のLEGO模型が展示されていた。イベントとして実施されているようだが、展示物は乏しかった。

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 要塞のなかをうらぶらした。

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 水を買った食堂で一休み。

 イントラムロスを出た。

 イミグレーションの前を通った。

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 ビザなしでフィリピンに滞在できるのは30日間である(最近までは21日間だった)と思っている人は多い。私もつい最近までそう思っていたが、それは間違っている。入国と同時に観光ビザが発給されているというのが正解で、入国スタンプは30日間のアライバルビザである。それを越えてフィリピンに滞在したい場合は、このイミグレーションで観光ビザを延長する必要がある。観光ビザは最長16ヶ月まで延長可能で、1ヶ月または2ヶ月ごとにイミグレーションに行くことになる。ダバオやセブでも延長はできるが、マニラのイミグレーションがメインオフィスである。


チャイナタウンを歩いた

 パッシグ川に架かるジョンズ橋を渡った。

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 親善門が見えた。その奥にあったのが中菲友諠門である。

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 この周辺には金融機関が多い。銀行名には英語、中国語が併記されていた。それほどチャイナタウン風ではない。通りに店は溢れていない。
 
 東に少し歩いた。雑居ビルの間の裏通りを抜けた。

 露店や小さな店が少しずつ現れてきた。徐々にチャイナタウンの雰囲気になってきたが、マニラのチャイナタウンは見た目がコテコテのチャイナタウンではない。

 サクラメント教会があった。この西側を南に行くとパッシグ川に架かるマッカーサー橋を渡ることになる。

 サクラメント教会の前に通りには噴水がある。この辺りがキアポとチャイナタウンを合わせたエリアの中心である。

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 サクラメント教会の北側にある、2つ目の親善門をくぐった。門の周辺は小さい貴金属店が並んでいた。日本人のイメージするチャイナタウンは中華料理店が並んでいる風景であるが、中華系の貴金属店もこのチャイナタウンにはある。中華系の貴金属店(金行)が多いのはバンコクのチャイナタウンである。

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 露店や小さい店が増えた。店の販売員はフィリピン人で、中華系の人たちではない。露店は車道にはみ出しているのではない、車道の端に堂々とある。露店の多くには雨除け、日差し避けのパラソルがある。露店の分だけ車道は狭くなっている。いっそのこと歩行者専用道路にすればよいのだが、露店を避けながら一方通行の車道を車、トライシクル、バイクが通っている。車道の両側にある歩道に段差はあるが、人はそういうこととは関係なく露店と車の合間を歩いている。つまり混沌としている。私たちもそういうふうに歩いた。

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 おもしろい通りなのだが、通り全体にはくすんだ雰囲気があった。

 下の2枚はカラオケボックスのようである。数軒の店があった。

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キアポを歩いた

 東に歩いたところにキアポ教会があった。

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 教会内に17世紀にメキシコから持ち込まれたブラックナザレ像がある。船上で火事に遭い、黒く焦げてしまったという説がある。ブラックナザレ祭は、黒い等身大のキリスト像が裸足の信者たちに担がれ市街を練り歩く祭りである。パレードの間に信者がキリスト像に触れようとするので毎年のように死者が出る。

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 歩いているのはキアポである。ドロテオ・ホセ駅近くの、真ん中に露店がある通りを歩いた。この辺りを歩くのは嫌である。人が多すぎて真っ直ぐ前に進めない。

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 アイセタン・デパートの前を通った。このデパートについては1年前に調べた。下は2017年10月21日の旅日記からの抜粋である。

 日本の伊勢丹は“ISETAN”であるが、マニラの「アイセタン」は“ISETANN”と、スペルの最後に“N”が2つ付く。伊勢丹のパクリであるという説があり、パクリでないという説もある。パクリであることを誰かが勝手に言うことはできるが、パクリでないと断定する場合、ネーミングのルーツを知っていないといけない。パクリでないという説の出所がアイセタン・デパートの関係者であればパクリではない。

 アイセタン・デパートのルーツはローマン・スーパー・シネラマムという映画館だった。エスカレーターとカーペットを持つマニラ最初の映画館で、席数は1,500あった。映画館は1879年に火災にあっている。経営者は劇場を壊し1985年にISETANNに売却した。ISETANNが2人の中国系フィリピン人によって創業した流通系企業であるところまではわかったが、伊勢丹をモデルにしたかどうかはわからなかった。

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 ショッピングモールのダンキンドーナツで休憩した。

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 ドロテオ・ホセ駅からLRT・Line1に乗った。

 LRT・Line1/ドロテオ・ホセ 17:30頃 → ビト・クルス 17:50頃/料金15ペソ


ビト・クルスで夜ご飯

 ビト・クルス駅に着いたときは真っ暗になっていた。夜ご飯の店を見つけるために駅周辺をざっと歩いた。

 ケニー・ロジャース・ロースターズに入った。昨日カルボナーラを食べたレストランである。ビト・クルス駅周辺ではもっともよいレストランかもしれない。メニューを見ながらおいしそうなものから注文した。シーザーサラダ、バーガーステーキ、ベーコンローストブリトー、マンゴーのスムージーなど。

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 あいかわらず旅の話で盛りあがった。それ以外の話もしたけれど。半年先の2019年のGWのフライトの一部をTさんは既に予約していた。

 Infiniteaに入った。2017年10月にトゥゲガラオで入ったのが初めてである。フィリピン全土に展開している紅茶専門店で、あちこちで見かけるようになった。客層は若い女子あるいは若い男女である。メニューは数十種類あったはずである。コーヒーのメニューもあった。

 店舗展開は加速していくだろう。Infiniteaの 1号店が日本にできる日が来るかもしれない。そういうことを書いているネットの記事はまだないはずで、この文章が最初になればいい。

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